クレッシェンド
遮二無二鍵盤を叩く彼女は遂に息を荒くして、ピアノを弾き続ける機械のようになっていった。疲れを伴っているにもかかわらず精密に黒と白を交互に押さえ続けるあたりがさらにその印象を強くする。時刻は既に午前一時を回った。もう終電まであと五分もない。いつもならばこの辺りで練習を切り上げ「じゃあまた」とコートを着込み出ていくはずなのだが、なくなった言葉の代わりに部屋へと響き続けるピアノの音は、それすらも彼女の思考から排除しているらしかった。音大生としていつでもピアノの練習が出来るように、マンション内も一部屋欠かさず防音室になっているから隣人の睡眠を妨害する心配はないが、いくらなんでもさすがに弾き過ぎである気もする。尤も昼間練習していたのは腕を酷使しやすい「ラ・カンパネラ」ではなく、ソナタ形式の別の曲のようだったが、今の彼女にそんなことは関係ない。どんな曲であれ、これだけ練習していたら腕が痛くなるに決まっている。僕でさえ受験の年に毎日九時間練習したらピアノ線の一本を切った挙句に暫く筋肉痛になって腕が上がらなくなった経験があるほどだ。彼女は頑張りすぎる。頃合いを見て止めさせなければそれこそ腕が壊れるまで延々と弾き続けてしまうだろう。
ピアノを弾くと言う行為そのものに取り憑かれた彼女の額には大粒の汗が滲んでいた。音が跳ね跳ぶ楽譜を追う瞳の動きにはもう覇気がない。ひたすらに指を動かし、腕を動かし、体全体で音を表現し尽くしてきた彼女の疲労はもう限界に達しているはずだった。虚ろに揺れ動く情感はそのまま、演奏態度として旋律に現れる。遂に和音すらまともに取れなくなった時、僕はその頑張り続けたか細く白い腕を、握りしめないわけにはいかなくなっていた。僕は不安を態度に示すことへの抵抗を今だ、と迷うことなく振り払った。そして高音を押さえるために中央の鍵盤から飛び跳ねてきた彼女の腕を、力強く掴み取った。
気付くと、は、と彼女が息を飲んでこちらを仰ぎ見ていた。僕たちの間から音と言う音が全て消え去る。
「もういい」
僕は言った。殊更優しく、殊更低く、彼女をいたわるかのように。
「もういいよ、そんなに頑張らなくても」
今度ばかりは彼女も抵抗する気にならなかったようだ。僕が初めて彼女に触れたことにすら、何も言及せずただじっとこちらを見ている。彼女の手は若干汗ばんではいたが、肩に妙な力が入っている様子はなかった。やはり彼女の方が、ピアノの技術力に関しては僕よりも一枚も二枚も上手だ。だがどんなに素晴らしい演奏をし続けたことで僕の耳が満たされようとも、ここは止めなくてはならない。僕のために、また彼女自身のためにも。
「君の演奏が素晴らしいことは、よく分かったから」
「素晴らしい、素晴らしい、って言うけど」
放心から復帰して腕を掴まれたまま、彼女は椅子から立ち上がった。
「何が素晴らしいのか私には全く分からない。具体的に言って。でないと安心できない」
安心、という言葉が僕の心を深く抉る。と、同時にいつか見た彼女の黒々として色を写さない鋭い瞳が僕を捉えているのに気が付いた。
安心。僕が彼女を安心させられると思う言葉で、彼女が本当に安心するのか。僕には彼女を安心させられるという確固たる自信はないし、実際それを言って彼女がどう反応してくるかは、正直分からない。分からない、が、しかしもう僕は迷わない。先の彼女の演奏を聞いた時に、そう決めた。彼女の瞳は、完全に沈んでいるのではない。淡いながらにも、色はある。ぼんやりとしていて、見えにくいし良く見ようとしないと見えない。でもちゃんとある。それがやっと、演奏から聴きとれるようになった。ここで迷ってはいけない。
僕は彼女の腕を掴んだまま僕を捉える彼女の視線を真正面から受け止めた。次に僕が言葉を発するまでの、数秒か、数十秒か、果てまた数分かの間、僕らはお互い一歩も譲らずに視線を絡めあった。僕は彼女を受け止めた。彼女も僕を受け止めた。緊迫した空気の中で、微動だにしない二人の見つめ合いはいつしか呼気を合わせ、瞬きを合わせ、また皮膚から感じる熱を同じくさせた。
「僕は」
ため息の代わりに空気を吸って、無音の一瞬間に彼女の腕を引き寄せる。傾いた彼女の体は僕の胸元へとすっぽりと収まり、僕はその頭を柔らかく抱きとめてやる。
「ふ」
「何でもいいから君の思いが知りたかった。何も言われなかったから、不安だった。今日の君の演奏でやっと分かったんだ。君にも、悩むことがあれば怒る時もあるって」
自分でも何とも姑息な手を使ったと思っている。でももう、これ以外に僕が落ち着ける方法は何もなかった。相談されても、彼女の妹が妊娠したという事実を変えることもできないし、それに関して僕が彼女にしてあげられることは何もない。愛していると言う自覚だけが先行してばかりで、時に彼女の真意が見えずに、彼女を愛している自分自身すらも疑わねばならなかった。元を正せば全て、今まで僕が彼女の気持ちを察することが出来なかったからだ。
それが今日、二年半付き合ってきてようやく初めて崩れた。彼女の色のない瞳にやっとのこと僅かながらの色彩を認め、その中に彼女を愛する自分自身の姿を見つけることが出来た。その色を見つけることが出来たのは、言うまでもなく彼女を追いつめた状況そのものであり、それが形となって現れることになった彼女の演奏のためである。だからこそ、僕はどんな形であれその情感のこもった彼女の演奏が素晴らしいと思った。思わざるを得なかった。
これを言っても君は安心しないかもしれないだろうけどね、と最後にそれだけ言って僕は彼女の頭を抱きしめる力を強めた。そして驚きのためであろう、体を硬直させている彼女の耳元に唇を寄せて、「きっと君はこれでもっともっと、上を目指せるよ」と囁いてやった。恥かしさのあまり脈拍が撥ねあがるのが自分でもよくわかる。おそらく胸の中に抱いている彼女も当然それに気付いたことだろう。何せ普段鍛えられている分、音を聞き取る能力は人並み外れている。とはいえ、僕の聴きとり能力も似たようなものなので、先ほどから彼女の体を流れる赤い心音が、ときんときん、と耳を打ってうるさいほどなのだが。
ピアノを弾いているのを遠目に見ているだけでは美しいとしか感じなかった体が、今は熱として僕の胸にぴったりと寄り添い、ひたすらに愛おしい。彼女が僕の指摘に何か反抗してくるかとも思ったが、頭が真っ白で何も考えられないらしく身じろぎ一つしなかった。僕はその状況に任せて自分の今の思いを、言葉に尽くせる限りで言葉にした。安心して。好き。愛おしい。愛してる。狂おしい。夢中だ。大丈夫。僕はずっと側にいる。そのあと何度も何度も同じ言葉を連ねて、最後に「もう、今晩、電車ないから」と、その先に含まれている意味をわざと隠した。動揺に瞳を滲ませてモノクロトーンのピアノが視界に入らなくなった彼女は、もの言わぬ訴えに自らすっと背伸びをして僕の首筋にただ唇を押しあてた。咽喉仏の薄皮一枚を隔てて触れる頬から人肌の温かさを感じ、それでもう僕は何もかもがどうでもよくなった。