ピアニシモ
夕方になっても彼女は一向に自宅に帰ろうとはしなかった。日が暮れるまで、彼女はずっとスコアを片手に楽典の勉強をしていた。
彼女はなぜか自宅を嫌っていた。僕が告白してすぐに聞かれたのは、君は一人暮らしなのか、ということだった。僕が一人暮らしだ、と言うと彼女は冗談でも何でもなく、それじゃあ暫くお世話になるかもしれない、と告げて、それ以上は何も言わなかった。以来意味も分からずに彼女と半同棲生活をすることになったのだが、なぜか夜になると彼女は必ず帰路に付き、僕の部屋に泊まり込みになることは一度もなかった。その時彼女が利用するのは決まって終電だ。僕のアパートから駅まではそれなりに距離があるため、そうなる場合は僕が必ず彼女を送ることにしている。
夕食に作ったグラタンを相変わらず褒めるでもなく貶すでもなく黙々と食べ終えた後、彼女はまたピアノの練習を再開した。曲はフランツ=リスト作曲、嬰ト短調『ラ・カンパネラ』。超絶技巧練習曲としても名高いこの曲は難易度が非常に高く、演奏には大練習曲の言われに相応しい技術力を要する。飛ぶように音符が並び強弱に安定がない楽譜は、聴いている方ですら目まぐるしいまでのリズムの変化に時々どこを演奏しているのか分からなくなる。
一番有名な第三楽章の強弱記号は、ピアノから始まる。直後にデクレッシェンドが加わっていきなり音が抑制される。この曲の序盤の強弱はひたすら弱めだ。ピアノとピアニシモがひたすら続く。弱く細く、繊細に丁寧に。雨が降るかのようにしっとり濡れた音色がピアノから零れ、部屋に冷たい空気が満ちる。冬とは思えないほどの、湿った旋律。それでいながら心に直接響く音色。この曲のテーマは確か教会の鐘の音だったはずだが、僕が連想するこの曲のイメージはいつも、霧雨の降る古城だ。西洋風のレンガ造りの建物が軒を連ねる先に、一際大きくそびえたつ城。それが降りしきる雨の中でぼんやりと輪郭を薄くして浮かび上がっている。町はひたすら静かにそれを見守り、喜びも悲しみもしない。雨のために城も人々も町も全て色が薄い。ただただそこにあるものを受け入れるだけの存在。それが僕が抱くこの曲のイメージ。
これは彼女のイメージにもぴたりと当てはまる。僕は数ある曲の中でもこの曲を弾いている彼女の姿を見るのが好きだった。古城に舞い降りた姫君、というわけではないけれども、彼女が真っ赤なドレスを着てこの曲をステージで演奏したらどんなにか映えるだろうと思う。弱い、弱い、ピアニシモを奏でる彼女の指が、スポットライトを浴びて僕の脳裏に古城のイメージを植え付ける。寸分の狂いなく再現されるレンガの街並み、城、雨。鍵盤の上で楽しげに踊る指。僕はそれに何度も魅了される。ピアニシモに。それを弾く彼女の姿に。
そこで音が唐突に切れた。
それと同時に僕の脳裏で徐々に明確になって来た驟雨の古城も、蜃気楼が失われたときのようにさっと息を潜める。視界がまっさらになってしまった中で、夢から覚めるような心地が僕を現実に引きずり戻す。
「……駄目ね、やっぱり気が散る」
彼女は指を鍵盤から降ろした。一瞬僕が聴き入っていたことを咎められたのかと思い胸が引き攣ったが、彼女が僕を顧みて何か言うことなどまずない。大方気が散る原因と言うのは、彼女の妹のことだろう。
彼女はふうとため息をついた。思い通りに練習できない、音が奏でられない。そんな表情をしている。ピアノに悩む彼女を見ているのはどことなく辛い。いつも光輝かんばかりに美しく演奏しているだけに、彼女の演奏には感情が籠らない。だがここで僕は逆説的にもそうした演奏態度の裏に彼女にしては珍しいものが隠されていることを察知した。
乱されているのだ、彼女も彼女自身の、言いようのない感情に。
「今の演奏」
だから僕は思いがけず言ってしまった。普段であれば絶対言わないし、これを言えば彼女のプライドに必ず触れてしまうであろうと思ったが、この時ばかりは言わなければならなかった。僕が悩みに悩んだ自分の感情を裏打ちするための鍵が、意外にも、これだけ身近で何度も聴いてきたピアノの演奏にあったとわかったのだから。僕は決定的なことを見落としていたのだ。
彼女の演奏は、感情は、決して色がない、なんてことはなかったということを。
「僕はよかったと思うけどな」
パシン、と乾いた音が響いて、頬に鋭い痛みが走った。何が起きるのかは予想済みだったし、彼女の腕はピアノを弾くためだけのものだから、痛みはそれほど強くは感じなかった。それよりも、ああ、やはりそうだったか、と彼女の思いを確認できた嬉しさが勝り、寧ろこれくらいの仕返しでいいならいくらでも受けてやりたい、と変に寛大になった。
「良いわけない」
彼女はしっとりとした水のような怒りを内に秘めていながら、声を荒げず静かに言った。
「この程度の演奏で満足するなんて、あなた、音楽家としての格が下がったの」
内に秘めている彼女の感情が今の僕にははっきり感じとれる。妹のことを気に病んで演奏に集中できない自分に苛立ち、技術はいつもどおりなのに満足できない。にもかかわらず、僕にそれを褒められて、余計に心を乱され反射的に腕を振るってしまった。僕を僅かに罵って自分を奮い立たせようとするも、その言葉自体は自分に向かっていっているだけで、僕を罵ろうなどと言う気は、本当はまるでない。
「音楽家として言ってるんじゃないさ」
そもそもまだ大学生だから、音楽家を名乗るのには少し早いだろうし、と僕はここにきて異常なほどに冷静になった。心が見えると言うのはこうも気持ちのいいものか。それならそれで全然問題ないではないか。なぜ自分は今までこんなつまらないことに悩んでいたのだろうか。
「僕は一聴者として、素直に今の演奏が良かったと思った。今まで聴いてきたどの練習よりもよかった。聴衆が良かったと思ってしまえば、演奏者がどんな思いでそれを弾いていようと、関係のないことさ。演奏は聴衆がいないと意味がないって、君だって散々教わって来ただろう」
挑発をひらりとかわし、逆に相手に挑発で返す。姑息な手段だが今はこれが一番いい方法だ。そうでなければ、普段無言の僕の口がこんなに回るはずがない。
彼女はいよいよ追い詰められて言いあぐねていたようだった。普段ぴくりとも動かないフランス人形のような美しい眉間に、僅かながら皺が寄っている。自分の感情と演奏、それに僕の挑発が効果的に混ざり合って、彼女に今までなかった新たな変化を生みだそうとしている。
本当はこんな風に追い詰めるのは反則だとは思うのだが、この機を逃してしまえば次いつ、このような偶然に恵まれるのか分かったものではない。利用できるものは全て利用すればいい。例えそれが、彼女自身を追いつめることになったとしても。
「……もういい」
彼女はそれ以上ものを語ろうとはせず楽譜台の楽譜をまとめてクリアケースの中に入れた。それからピアノの蓋を閉めて、手近にあったコートを勢いよく手に取る。が、すぐに椅子から立ち上がろうとはしなかった。ふと時計を見ると、時刻は午後十時を回ったところだった。おそらく、今自宅に帰っても、まだ家族は寝ていないことを思い出したのだろう。外でうろつくにしても冬の夜気に当てられては体が冷える。建物に入るにしても、柄の悪い店以外どこも開いていない時間帯だ。
ここで彼女に助け船を出すのはとても簡単だ。「このまま家にいたらどうだ」と、そう言えばいい。だがこのタイミングでその言葉は逆効果であることは目に見えている。そう告げれば、彼女はおそらく今すぐ暖かい僕の部屋から飛び出して、冬の寒空の下、ベンチに座り込むことを選ぶだろう。せっかくの機会を無駄にしてしまってはならないし、そういう行動をとらせてしまったら、その光景を想像した僕の方が凍えてしまいそうだ。
よって僕は残酷にも彼女を静観することに決めた。後の処理は、彼女に任せた。すると、彼女は果たしてコートを膝の上に乗せて、またピアノを弾き始めた。悩んでいることを全てぶつけるかのような恐ろしくテンポが速く乱暴な演奏だった。傍から見ていてもそれが分かるのだから、弾いている本人はさぞ気にくわない事だろう。しかしその気にくわないという思いが余計に彼女を駆り立て、さらに演奏を感情的なものにする。その感情に苛立ち、また曲が速くなる。どうにもならない悪循環が彼女を襲う。
そうして時間を忘れて彼女はひたすら練習し続けた。訳の分からない思いに焦燥し、力を入れるべきではないピアニシモでさえ扱いかねてフォルテで弾いた。学科の教授などが見たら、この演奏は激しく非難されることだろう。どうした、本調子じゃないのか、と言われることだろう。それが自身でも分かっているからこそ、彼女の悪循環は止まらない。僕の中に想起される古城の町に降る雨は、霧のような小雨から次第に大風を伴った雷雨へと変化していった。荒れ狂う彼女、乱れた街並み。でも不思議とそれも悪い気はしない。それが僕自身の変化に由来するものか、あるいは彼女の変化に由来するものなのかは知らないけれども、二人の間で起こった反応は紛れもなく僕にとっては好機だった。
やはり僕は、彼女を愛せていた。僕の言葉一つで乱れた彼女を見て、そう実感できた。