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ピアニシモ  作者: 岩尾葵
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ダ・カーポ

僕たちが付き合い始めてからもう丸二年半が経とうとしていた。僕は彼女を愛している。それだけは間違いない。何がどうあろうと、この気持ちだけは救いようがないほど深く僕の心に根を張っており、誰がどう言おうと僕がこの感情を否定することなどありえない。それだけは確かだ。

それなのに、僕は二年半も付き合っているにもかかわらず、まだ彼女の手一つ握ることすら出来ない。手を握ってすらいないのだから、もちろんそれ以上のこともしていようはずがない。

これを友人等に打ち明けると、お前は本当に彼女を愛しているのかと真顔で問い詰められるが、先にも述べたとおり僕が彼女を愛していることに間違いはない。僕も曲がりなりにも男子大学生である。出来ることならその柔らかく白い腕に触れたいとも思うし、髪に顔をうずめ首筋に口付け、ゆるやかにまどろむ彼女の瞼を見ながら自身の欲望に身をゆだねたいと思う。時には彼女の苦悶に歪む表情を認め全てを己のモノにしてしまいたい欲求に駆られることもある。僕も他の友人たちと同じく、確実に彼女を異性視しているのだ。

にもかかわらず手が出せない理由とは何なのか。僕は、その原因の半分が自分、もう半分が彼女にあると勝手に思い込んでいる。 

僕と彼女は同じ音大の同じ学年であり、ピアノ科に所属している。そして僕は、二年半前、ピアノ科のとある単位修得試験の公開会場で彼女のピアノの才に一目ぼれし、その日のうちに彼女の元へ出向いて意味も分からないままに告白してしまった。あとあと思い返して僕自身もあれは馬鹿で無謀な事をしたものだと思った。そもそも彼女の人格を一切知ることなく、ただピアノに惚れたからという理由で告白する奴がどこにあるというのか。せめてその日のうちは連絡先を聞いておくに留め、後日改めて手紙を書くなりメールを送るなりして、ある程度の親密さを得てから告白すべきだったのだろう。

しかし告白した際の彼女の返答は実に淡白なもので、無駄な言葉を紡ぐでもなく、嬉しそうな笑顔を見せるでもなく、ただ首を一つ縦に振っただけだった。まるでひな人形みたいな細くて鋭い目が僕を射ぬき、会場内を走り回ってただでさえ早かった心音の速度にいっそう拍車がかかった。僕は決して気が小さい方ではないはずなのだが、以来彼女のその視線に当てられるとたちまち体が縮みあがってしまうようになった。

とはいえ一応にも恋人として寄りそうことを許された身。あのピアノが再び、いつでも聴けると思えばひとしおその喜びも増すというものだった。だがその時、僕はそうして落ち着き払った態度で受け入れられた嬉しさとは反対に不本意ながらこうも思ったものだった――本当にこんないい加減な言葉付けで彼女の側にいてよいのだろうか。

そのときの僕の不安は果たして後の僕たちの関係を予見していたものに違いなかった。付き合い始めたのはいいが、僕と彼女は恋人としての進展がいっこうにないまま一年目を過ごした。僕も意を決して何度か彼女にアプローチしてみたことはある。誕生日にバイト代を溜めて買ったブローチを渡してみたり、女の子が甘いものが好きだと聞いておやつにちょっとおしゃれな店の苺タルトを買って来てみたりした。デートの定番といえばカラオケか、音大にいる以上音感は人並み外れていいはずだから、行けばさぞ楽しいだろう、と思い二人で歌いに行ったこともあった。だがそこでも僕は本来の目的を忘れて彼女に流されるばかりだった。カラオケではいつのまにか彼女の歌うカロミオベンに聴き惚れてしまっていた。伸びやかなメロディに陽気に舌を巻くイタリア語の発音、それを見事に歌い上げる麗しい彼女の声。僕も負けじと腹から声を出してサンタルチアを熱唱するなどして対抗してみたが、そうした歌が頭の中で鳴り響いてしまえば、もう俗っぽい欲望などどうでもよくなってしまった。見事なまでに、僕は流された。ブローチを渡した際に抱きしめてその気にさせるつもりが、彼女の発した「ありがとう」の一言と爽やかな笑顔に消し飛ぶ。苺タルトをおごった際に計画していた文字通りの甘い展開も、彼女の「コーヒーいる?」の問いかけで全てなかったことになる。

そんな状態だからもう、僕にはこういうことは向いていないのだろうと諦める以外に他なかった。これでは何のために付き合い始めたのか分からなかったが、そもそも僕が彼女と付き合い始めたのはそういうことがしたかったからではない。ピアノだ、彼女の弾くピアノがもう一度聞きたかった。だから本来であれば僕はこのような衝動を我慢するどころか、抱えることすらないはずだった。彼女の演奏によって満たされる感覚を余すところなく味わい、彼女を僕だけのオルゴールにしてガラスケースに入れ、大事に扱っていればそれで満足できたはずだった。例え彼女に触れることが出来なくても、言葉を交わすことができなくても、僕は彼女のピアノを聴いていられればそれで幸せなはずだと思っていた。

しかしあの日僕が何の気なしに彼女に告白をし、付き合うことを了承され、本当はそれだけに留まっていたはずの欲求が一緒にいるうちにいつの間にか膨れ上がってしまっていた。認めたくはなかった。もっと自分は高尚な部分で彼女と繋がっているのだと思い込んでいたかった。でも時折彼女が見せる無防備な姿に僕の決意は脆くも崩れ去る。その度、気持ち悪いだの女々しいだのと言って己を戒め、死ねばいいのにと言って自分を罵る。だからその感情は今でも頑丈に鍵を掛けて心の奥底にしまっておくことにしている。ただ、僕が彼女を愛している以上、時折何も考えずに触れたくなることはある。その鬩ぎ合いに酷く苛まれては、ああもういっそ、愛していると言ってしまえば触れてしまっても問題ないのかも、と結論しかけて、そこで一番重大なことに気づいて自省する。

というのも、何せ最初は訳も分からず交際を申し込んでしまった身だ。僕がどれだけ彼女を深く愛していたとしても、彼女が僕を愛しているとは限らない。彼女の本心を、僕はまだ彼女の口から一度も聞いてはいないのだ。

正直なところ、僕には彼女の真意が読めないために彼女に触れられない、といった恐怖が少なからず存在していた。

僕自身、彼女と会っている間にこれほど心を乱される可能性を、告白した当初は微塵も考慮していなかった。だからあの告白の日、彼女も似たような気持ちで僕との付き合いを考えていたのではないか、と思ってならない。そしてもしそれが事実だとしたら、今ある僕たちの関係が、僕の安直な欲望によって壊れてしまう可能性だって充分にあり得るし、そうなる可能性がある以上僕が手を出せないのも道理ではないか、と考えるのである。

以前一度「何故あの時頷いてくれたのか」と彼女に尋ねたことがあった。彼女は色のない瞳を向けてこう言った。「断る理由がなかったから」。そうだ、その通りだ。初対面の人間の申し出を断る理由などない。何せその人物が何者なのか、名前が何であるのかすら知らないのである。彼女は当たり前のことを当たり前のように述べている。しかしそれは寧ろ僕を不安にさせ、心の内に引っかかるものを感じさせる答えだった。ではあの時告白したのが僕でなくてもよかったのだな、と、余りにも簡単な結論を導き出すより他なかった。それを否定しきれない自分、それを否定してくれない彼女がいることを分かっていながら、それでも何事もなく彼女と接し、その中で僕は彼女にどんどんはまり込んでいくのを自覚しなくてはならなかった。

だから僕が彼女に触れられないのは僕自身の臆病と彼女の物言わぬ態度の、すなわち二人のせいに違いないと信じ込む。決して僕だけのせいではない。彼女にも原因があるのだ。

しかしそう思う一方で、僕自身も何のせいにすればいいのか、僕がどうしたいのか、分からなくなることがよくある。全てめちゃくちゃだった。彼女と付き合い始めてから僕の思いが安定したことなど一度もない。あるときは歪な欲望、またあるときは歪な欲望を嫌悪する自分に悩まされてきた。彼女と向き合う自分が恐ろしくてたまらず、彼女と向き合って乱れる自分の心がとてつもなく嫌だった。

僕は彼女を愛している。それは確かで間違いない。しかし一方で、彼女を愛している自分を愛することができない。故に本当の意味で彼女を愛することができているのか、常に疑い不安に頭を抱えたくなる。指先一つ触れられない彼女への思いが一方的に募り、それを嫌悪しては彼女に嫌われまいとする態度ばかりが表に出て、何一つ本質らしい本質が見えてこない。

僕には彼女が見えない。彼女が見えないから、僕も見えなくなる。何も分からない。どうすればいいのかもわからない。

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