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ピアニシモ  作者: 岩尾葵
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アレグロ

「妹が妊娠したの」と、彼女は朝食の席で唐突に告げた。視線が食卓の上を車のように滑り、野菜ドレッシングの上で急ブレーキをかける。僕がそれに反応する前に、先端をよく手入れされた爪がゆっくりとそのボトルに近づき、キャップを掴んで彼女の胸元へ引き寄せられた。ドレッシングをサラダに傾ける彼女の動作にふと我に返り、そうか、妊娠か、と先ほどの言葉を噛み締める。それが何を示唆しているのかなど言うまでもない。彼女はそのことについて深く語ろうとはしないが、僕は何となくその言葉に男特有の後ろめたさと嫌悪感を覚える。だが僕は、「ああ、そうなの、おめでとう」と直観とは正反対の祝意を挟まない声で淡々と応じた。妊娠、という単語をさして気にしない風に装って、殊更興味ないように見せかけられるように、僕の意識を深く埋めてしまえるように。彼女はそれに笑いもせず、ただいつも通りの人形のように整った顔でドレッシングのかかったサラダを凝視したまま「そうね」と呟いた。

 七畳の洋間の中央に据えられた白い卓袱台で、彼女と共に静かな朝食が続く。彼女は相変わらず光を宿さない黒澄んだ瞳で自分の指と食卓ばかりを見ている。一見無防備な彼女のその姿から、僕は自分から視線が外されているのをいいことに、密かに彼女と距離を詰めたい、と願う。しかしそれが出来ればしゃくしゃくと咀嚼されるレタスが彼女の鮮やかな赤い舌に絡めとられるのを、僕が羨ましそうに眺める必要もない。触れたいならば、触れられる。今すぐ握った箸を放り出して、その柔らかに揺れる髪を掴んでしまえばいい。そしてその皮膚の生ぬるさを、翻る長い髪を、思う存分楽しめばいいだけの話なのだ。

「ねえ」

 醤油とって、と右手を差し出した彼女に、僕の意識は現実に引き戻される。想像と目の前の光景のギャップが、まるでプールから泳ぎ疲れた体を引き上げようとするかのような感覚を僕にもたらす。現実には聞こえないため息がなぜか胸の内で聞こえる。声も出さずに右手の側にある醤油注しを摘んで彼女に渡す。彼女は感謝の言葉を述べることもなく醤油を数滴皿に垂らす。

僕らの間から、食器が擦れる以外の音がまた消えた。こういうとき、何でもいいから音の出るものを置いておけばよかった、と思う。例えばテレビ、例えばラジオ。何でもいい、一つあれば僕たちの会話の隙間を、簡単に埋めてくれたことだろう。けれども僕は無意味な音が嫌いだから、部屋にそういった類のものを置いていない。テレビもラジオも、僕一人でこの部屋に住んでいる限りは必要ない。あるいは彼女がいても同じかもしれない。この部屋で唯一音が出るのは、隅に置かれている一流国産メーカー製のグランドピアノだけだ。

食事を終えて僕が食器を片づけようと席を立つと、彼女は自分の空きになった食器を、僕が持った皿やらコップやらの上に次々と無言で乗せてきた。お前が運んでくれ、ということらしい。僕は何かを言い返すわけでもなくただ沈黙のうちに押し付けられた食器類を受け取って台所の流し台に持っていった。背後で彼女が立ち上がる気配がした。ああ、もう弾き始めるのか、早いな、と思いながら、僕は蛇口をひねって食器に水を滴らせ、スポンジを泡立てる。水が流れる音の向こうに、彼女が接近していく足音が聞こえる。僕にではない。部屋の隅のピアノに、だ。彼女の指が鍵盤に吸い寄せられ、細い爪がそのボディに触れる。

弾く。白く細長い指が、その内側を撫でるようにして鍵盤に触れる。まるで外で雪が降っているかのような、冷たく静かで柔らかな音が紡がれる。水が流れる落ちる向こう側で、僕の聴覚を彼女の音色が満たす。艶やかで輝かしいばかりの音階。滑らかで妖艶な指使い。一音の狂いもなく、楽譜通り正確に動く腕。速度が高まると同時に傾く首と体。髪が波打ち、首筋が覗き、肩や胸が呼吸と共に上下する。

後ろを振り返りなどしなくてもそれを知覚できてしまうほどに僕の感覚は鋭敏だった。僕は水の音で何とか彼女の存在を消し去ろうとした。極力彼女を見ないようにと努力をした。それなのに、うまくいかない。どうしても気になる。出来ることなら欲望や感情と言った類を捨ててしまいたい。心を乱す何もかも、僕の前から消えてほしかった。違う。本当はそんなことはどうでもいい。

彼女の弾く曲が、提示部を終えて展開部に近づく。

分かっているのだ、本当は僕自身もそのどうしようもない実際の欲望と言う奴を。

連続するスタッカートの後の見事なスラー。

ただ認めたくないだけだ。僕が僕自身の欲望と言う奴を認めたくないだけなのだ。そのどうしようもなく動物的で、本能的で、浅ましく下劣な欲望を認めるくらいなら、いっそ自分自身を捨ててしまいたいと、そう思っているだけだ。

展開部の繊細な和音、それに重なる左手、ここからの速度は、アレグロ。

理知的に装っている僕自身の心を覆うものを引っぺがしてしまいたくないだけであり、その強がった姿勢の裏に隠しきれない欲望があることにいらだち、心を乱す何ものかを排除したくなっている。それだけだ。感情があることにも欲望があることにも文句はない。それに振り回される自分が恐ろしく女々しく気持ち悪い、唾棄すべき存在だと思っている。上っ面だけはおとなしく、冷静に見せかけて、何もかも悟っているように見せかけて、余裕を醸し出したい。彼女に焦りを悟られたくない。焦っていること自体を認めたくない。だからこそ、いっそ感情を捨て去りたい。心を惑わす全てを視界から排除したがっている。分かっている、本当は分かっているからこそ、理解したくない。受け入れたくない。無視できない答えが何であるかを分かっているくせに、あえてそれをなかったことにして無視する。

だから僕はこれだけ高ぶった思いを抱えているにも関わらず、未だに欲望に身を委ねることが出来ない。

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