序章 火種
ーーートゥ・レイ・フーーー
それはこの世界を表す【名】である。
誰も見たことの無い未開拓の大地の総称である。
そして私達【人】が開拓を重ね、切り開いていった世界の名前である。
ーーートゥ・レイ・フーーー
私達の世界は4つの大陸。
【歴史と風 マルクト】
【基礎と土 エソード】
【勝利と炎 ネザック】
【栄光と水 ホド】
全てが手の届くところにあるにも関わらず、人々は交わらないものとして背を向け、耳を塞いでこれらを無視している。
この物語はその一角より巻き起こる。
歴史と風を最上と奉る大陸…人々が集い、笑い、憎み、生きる。
此処には人がいる、様々な人がいる。
正に【人というものの集合地点】である。
だからこそ、全ては起きたのだ。
ここを起点にして全ては始まったのだ。
ーーここは、何処かの市街地。
人々が集まり、そして去っていく一つの中継点。
訪れる者達はそれぞれであり、歴、人種、性別も数多く分かれている。
……その中に、一人の男がいた。
男は一点のみに集中し、何か急くような素振りで歩いていた。
彼が向かう先はただ一つ、足先より遥か遠く、人混みを抜けたその先にそれはあった。
大きく、大きく、そしてただ美しい。
その言葉だけが先に出てくる”それ”は、この場所へと訪れた人々の目を奪っていった。
水瓶を抱えた女性を象った石膏像、それが中央へと配置されている。
その水瓶からは清らかな水が止めどなく流れ出て、それは極小の滝となり地面へと落ちていく。
しかし、水が四方八方へと染み渡る事はなかった。
その周辺には白石で囲われた円形の壁と床が作られてあり、水はその2つに遮られそこから先へと移動する事が出来なくなっていた。
…つまり、噴水である。
噴水は人々の憩いの場所として使われているらしく、その周りには多くの人々が語らい、ご飯を食べ、時には待ち合わせの場所として利用していた。
そんな場所へ、男は一心不乱に進んでいく。
その姿は何処か気迫めいたものがあり、進行方向にいる人々が思わず道を作ってしまうような近寄り難さを醸し出していた。
和やかな周りの風景とはあまりにもミスマッチであり、最悪の言葉で言うならば存在そのものが一種の異質さだと常人なら感じ取ってしまうであろう。
男の歩みは早く、すぐに噴水の前に到着する。
辿り着くや否や休む間もなく肩から下げた鞄より一冊の本を取り出した。
その本は男と同じく、もしくはそれ以上の異質さを放っていた。
表も裏も、光を喰らい殺しそうな程に黒く一切の反射も光沢も起こしてはいなかった。
見た目だけでは紙でできているのか、それとも皮で作られているのか、判別はつかない。
縁には金の飾りが目立たない程度についてあり、本そのものの重厚さをより一層彷彿とさせていた。
何より、誰もが一目で背筋に鳥肌を立たせるような、胃を締められるような、そう思わせるものは”そこ”にあった。
完全なる黒に染められた表表紙…その中央。
そこに描かれた謎の図形、人々はそれに酷く不快感を懐き、そして底知れぬ胸の内から湧き出る恐怖を感じていた。
狼か、それとも猿か、謎の形を形どったそれに人々は何故か恐怖を抱いているのだ。
男が表紙へと手を伸ばす。
いつの間にか付近は静まり返り、人々は男の一挙一動に釘付けになっていた。
ペラリ、と本をめくる音が辺りに僅か響く。
すると、ある一ページを開いた途端、手が止まる。
男はニヤリと気味の悪い笑みを浮かべ、そして声高らかに叫びだした。
【オッツ・キイル アル パス!】
ただの人が発した声だというのに、それは蛸の粘液のように酷く耳にへばりついては離れなかった。
【ケテル コクマー ビナー ケセド ケプラー ティファレト ネツァク ホド イェソド マルクト!
リ サリィ アンドロ アロ メテルギアス ロイドレイ ザンドゥーア!】
男の叫びはまだ続く、いや、更にそれは過激さを増していく。
獣の叫びにも類似するかのようなそれは辺りの人々から着実に理性を剥いでいき、混乱の種を植え付けていった。
中には耐えきれず耳を塞ぐ者もいた、それ程聞くに耐えないものであるのだ。
いつしか精神にのしかかる苦しみは声として現れ、人々はうめき声や僅かな悲鳴を上げ始めた。
一部、座り込んでしまった者もいる。
その中で…偶然、男の顔を見た者がいた。
そして、その者は男と同じく叫び始めた。
「邪教アヴァンサの信徒だ!
顔に入れ墨が入っている!魔王の入れ墨だ!!!」
一瞬の沈黙、人々が男の顔へ目を向け、息を呑む。
【イザレ イザレ ヤガンダ アダ ハーミット!】
そんな辺りの騒ぎを他所に男は謎の言葉を叫び続けていた。
そして、それは今終わってしまったようだった。
男の頬に彫られた、角の生えた醜い化物がグヤリと歪む。
『達された』ポツリと男は呟く。
ーーーそして間もなく、化物が目を開いた