First Kiss
作者が好きな「回文」という言葉遊びを中心にストーリーを作ってみました。
かわいい二人を描けたらな、と思います。
星野志保が隣席の違和感に気付いたのは、ほんの偶然だった。
昼食後に微睡に誘われそうになるのを何とか我慢し、ノートにせっせと板書を写していたら、うっかり消しゴムを落とした。
自席に座ったまま拾い、顔を上げると、隣の男子学生が腕を組んで考え込んでいる、と言う珍しい姿が目に入ったのだ。
授業中なのだから、考え込んでいてもおかしくはないのだが、それは相手が一般男子学生であれば、である。
志保の隣の席に座る男子、田宮啓介は、うちの学年一の秀才と言われている。
試験をすれば常にトップ、授業中にはどんな応用問題を当てられてもさらりと解く。
しかし人付き合いはあまり好きではないのか、周りの人々が話しかけてきても、素っ気なく返事するのみだ。
志保は高校2年生になった4月に、初めて田宮と会った。
1年生の時も噂ぐらいは聞いていたが、わざわざ顔を見に行くようなミーハーな真似はしたくなかった。
騒がれて喜ぶタイプと、嫌がるタイプがいる。
志保は自分が後者だったから、他人に対しても必要以上に騒ぐことはなかった。
そうして半年ほど一緒に過ごし、田宮の秀才ぶりを見る度、すごいなぁと思う。
まったく努力なしでもできる天才、と言うわけではないようだが、頭の出来が違うのだろう。
田宮は習ったことをその場ですぐに吸収しているようだった。
何回英単語を覚えようとしてもするすると抜けてしまう頭の持ち主である志保には考えられないことだ。
そんな田宮が考え込む、しかも、腕を組んでまで。
一度も見たことがないその姿勢に、志保はちらちら視線を送ってしまう。
時折、何か思いついたようにノートに書き込んでいる。
どうやら授業とは関係ないことらしい。
教師の指示と、田宮の動きには関連性は無いようだった。
田宮がノートに向かうと、真っ黒い髪がさらりと揺れ、志保は勝手にドキッとした。
素っ気ない態度のせいか黒縁眼鏡の奥の視線が鋭いためか、田宮はあまり女子に騒がれたりしない。
しかし、かなり整った顔立ちをしているのではないだろうか。
そう友人に言ったら、「あんな不愛想のどこがいいの?」と言われてしまった。
そうかな?普通にしてたら、別に不愛想じゃないと思うんだけど。
普通に話したら、普通に返してくれるし。
挨拶もきちんとしてるし、礼儀正しいし。
チャイムが鳴り、授業が終わる。
今日の日直は志保と田宮だ。
田宮が号令をかけ、志保は授業後のホワイトボードを消しに行く。
昔は黒板だったらしいのだが、チョークの粉末が体に良くないとかで、ホワイトボードになった学校は多いと聞いた。
ピョンピョン飛びながらボードの上の方を消していると、後ろから声をかけられた。
「星野さん、そこは俺がやるから、職員室で赤ペンの補充してきてくれる?かすれてたみたいだから」
「うん、分かった。ありがとう、田宮君」
ボードの上まで手が届かない志保にはありがたい申し出だった。
誰かのイスを借りて、上に乗らなければ消せないだろうと考えていたからだ。
職員室で赤ペンのインクを補充し、戻ってくると、ボードはすっかり元の白さを取り戻していた。
「田宮君、ボード綺麗にしてくれてありがとう」
「こちらこそ、職員室まで行ってくれてありがとう」
ありがとうを素直に言える人に、悪い人はいない。
志保の自論だ。
日直の仕事も、田宮はさりげなく気づかいをしてくれる。
間違いなく、田宮はいい人だと思う。
今日はあと、ホームルームで終了だ。
日誌を提出して、日直の仕事も終わり。
と思っていたら、担任から追加の仕事が入った。
「今日の日直、冊子づくりの手伝いをしてくれ。どうしても用事があるならば構わないが」
志保は手芸部に入っているが、基本的に個人作業なので、遅れる旨を部長に伝えれば問題ない。
田宮は部活に入っているのだろうか。
そのまま残って作業をしていたので、入っているのか帰宅部なのか分からなかった。
ほとんどの人が部活や帰宅に向かった教室の片隅で、志保と田宮は担任から受け取った紙の束を机に置いた。
ステープラーでぱちん、ぱちんと留める。
単純作業は嫌いじゃない。
ふと、授業中の田宮を思い出し、志保は口を開けた。
「田宮君、さっきの授業中、何か考え込んでなかった?」
志保の言葉に、田宮が少し目を見開いた。
と思ったら、すぐにいつも通りの顔に戻った。
驚いたように見えたのは、志保の気のせいだろうか。
「星野さん、気付いてたの?」
「田宮君が考え込むなんて、珍しいから。授業とは関係なさそうだったし。・・・あ、ごめんね、ただの好奇心。聞かれたくないことだったら言わなくていいから」
つい聞いてしまったが、あまり突っ込まれたくないことだったかもしれない。
後から慌てて弁解する志保に、田宮は気を悪くした様子ではない。
自分のかばんから一冊のノートを取り出し、志保にそれを渡した。
「見ていいの?」
「大したものじゃないよ」
開けてみると、几帳面できれいな字で、文字がいっぱい書いてあった。
『エイの家』
『また、タマ』
『むごいゴム』
「えーと、田宮君、これって・・・?」
「回文。上から読んでも、下から読んでも、同じ言葉になる文章のこと」
「へえ。『たけやぶやけた』みたいな?」
「そうそう。最近はまって。でも、自分で考えてみると、なかなかうまくいかないんだ。結果、小学生が考えそうなのしか思いつかない」
苦笑いを浮かべる田宮。
そんな表情は初めて見た。
志保はつい、じっと見てしまう。
「星野さんは、名前が回文だね」
「え?あ、下の名前、知ってたの?」
「もちろん。『ほしのしほ』さん」
何でもないことのように言うが、志保にとっては驚きだった。
高校生ともなると、なかなか下の名前まで覚えたりしない。
特に、異性に関してはそうだろう。
「一度聞いたら忘れないね。『ほしのしほ』さん」
「それ、あまり好きじゃないの。・・・からかわれるから」
志保がもう少し明るい性格だったら、自己紹介で自分からそれを売り文句にして、人と話すきっかけにできたかもしれない。
しかし、小学生の頃から名前のことをからかわれ続けた志保には、フルネームの名前呼びは苦い思い出でしかない。
「そうか。それならあまり言わないでおく。でも、俺はきれいだと思うけどね」
「え?」
「だって、上から読んでも下から読んでも同じ名前なんて、すごいよ。文字の並びが、すごくきれいだなって思う」
真顔で褒められ、志保は顔が赤くなるのを感じた。
今まで、そんな風に言ってくれる人はいなかった。
自分の名前が嫌いではなかったが、からかわれるたびに、親に少し文句を言いたくなった。
そんな名前を、きれいと言ってくれる人がいる。
いつの間にか、教室には2人しか残っていない。
照れているのに気づかれたくなくて、志保は話を逸らすことにした。
「回文って、どうやって作るの?」
「ちゃんとした作り方は知らないけど、好きな単語を逆さにして、ひたすらそこから考える。二文字の単語から考えると、やりやすいかな」
「小さい文字はどうすればいい?『しゃ』とか」
「いろいろな考え方があるみたいだけど、俺は『しゃ』で一文字だと考えてる。『しや』ととらえる人もいるみたい。最初は、そういう文字がない方が考えやすいよ」
それならばと、二文字の単語を考える。
好きな単語、好きな単語・・・。
そのとき、志保の頭に一つひらめいた。
「キスは好き?」
言った瞬間の田宮の顔は忘れられない。
目を大きく開け、口も半開き、次第に頬が赤く染まるのを見て、志保はようやく自分の愚行に気付いた。
「ちがっ、違うの、好きな単語って言ってたから、『好き』を逆さにしたら・・・!あの、キスって、魚の、キスだから。ね、回文になってるよね?」
慌てる志保を見て、田宮も我に返ったらしい。
こほ、と咳を一つして、いつもの顔に戻った。
が、頬は心なしか朱に染まっている。
「ちゃんと回文になってるよ。・・・魚のキスは、ちゃんと食べたことがないから好きかは分からない。口づけのキスは、したことがないから分からない」
「・・・答えちゃうんだ・・・」
「疑問文だったから」
回文になってるよね?と言う意味での疑問形だったのだが、きちんと田宮は答えてくれた。
まじめな彼らしいが、口づけのことまで言われては、志保は微妙に気まずい。
「星野さんは?」
「え?」
「キスは好き?」
自分の回文質問を返され、ますます居づらくなってきた。
しかし、田宮は答えてくれたのだ。
志保が答えないのは誠実ではないだろう。
「・・・魚のキスは好き。淡白でおいしいよ。く、口づけのキスは、私も経験がないから分かんない・・・です」
なぜか敬語になってしまった。
田宮をちらっと見ると、口元に手を当てて、どこか思案顔だ。
この話題を打ち切ろうと、志保は作り途中の冊子に手を伸ばす。
「早く、終わらせちゃおう」
「ああ」
ぱちん。ぱちん。
ステープラーの音が響く。
田宮との沈黙は先程まで苦ではなかったのだが、自分の愚行のせいで、空気が変わってしまった。
居たたまれない。早く終わらせよう。
必死に手を動かす。
最後の一冊を作り終え、志保は安堵した。
「星野さん、これ運んでおくから、部活に行っていいよ」
「そう?ありがとう」
今となっては一刻も早く教室から、田宮と2人きりの空間から出たかった志保は、ありがたい申し出を受け入れる。
「星野さん」
教室を出ようとした志保に、田宮が声をかける。
振り向くと、すぐそこに田宮がいた。
「何?」
「試してみよう。『キスが好き』か」
「え?」
何を言っているのか理解する前に、田宮の顔が覆いかぶさってきた。
目を閉じる暇もなく、唇に何かが当たる。
それはしっとりと柔らかくて、すぐに離れていった。
「・・・・・・」
2人とも何も言わない。
否、言えない。
志保の頭は、今起きたことへの理解を拒否している。
まとまらない思考の中、今から部活に行くということだけを拾い上げ、志保はのろのろと教室を出ていった。
残された田宮が、真っ赤な顔で自分の口元を押さえ、「やってしまった・・・」と呟いたことを知らずに。
次は田宮君視点です。