エピローグ バルク
「もう行くのか。慌ただしいものだ」
「ええ。これが先を急ぎますので」
珍しく見送りに来たニールに、イリスはビルディアを指して示した。これ、と指されたビルディアは不満げに眉をひそめるが何も言わずに口を尖らせるだけだった。
任を終えてすぐの出立だ。心なしか疲れも感じるが、隣でそわそわと落ち着かなげに立つビルディアを見ているととても休もうとは言えなかった。
「陛下とセスタ殿に宜しく伝えてくれ」
ニールもそれに気付いたのだろう、小さく笑いながら言ってイリスを見ている。イリスもおどけて肩をすくめて見せて、強く手綱を引いた。
彼らとの別れを惜しむ必要はない。会おうと思えばすぐに会えるのだから。
ニールに手を振って、イリスとビルディアはアスランの地を出る。馬の足では直ぐにアスランの街は見えなくなっていった。
そして間も無く、ビルディアは馬を引いて足を止める。
「ここで良い」
「そうか」
短く交わされた言葉にイリスは戸惑った。後に言葉が続かなくて、ちらりと向かい合う彼の顔を見遣る。
思えばビルディアとは口論で言葉を交わしてばかりだった。だが今はそれをすべきでないかも知れない。別れの時くらいは笑って送り出してやりたいと思った。
彼もまた、イリスに様々な助けをくれた大切な同僚だったのだから。
暫しの沈黙の為か、ビルディアが後頭をがりがりと搔きむしって俯向く。彼も戸惑っていると気付いて、何だか可笑しくなってイリスは笑いを洩らした。
「何が可笑しい」
「いや、黙ったままだったから」
くつくつと笑いながら言えばビルディアはまた不満げに口を尖らせた。
やはり自分たちはこうでなくては。今迄だって口論で言葉を交わして、そうして相手を知ってきたのだ。そう思えば先程迄の気まずさはどこかへ行ってしまっていた。
「貴方も忙しくなるだろうな。中立地区の再興ともなれば」
「ああ。その話が西洋にも伝わったのか、もう既に貿易の話も出始めているらしい。いち早く向こうで動いているシルヴィアから連絡が来た」
「そうか。余りシルヴィアばかり扱き使うなよ」
わざと、イリスはビルディアを煽る様に言った。別れの瞬間に湿っぽくなるなどらしくない。イリスとビルディアはいつでも、それこそ戦場でも言い争っていたのだから。
「お前、本当に俺の母親か! いつも口煩いったらないぞ」
「心配しているんだ。シルヴィアに見離されたらきっと貴方は野垂れ死ぬ」
「ふん、要らぬ心配だ」
そう言って鼻を鳴らすビルディアを見て、イリスは笑う。このやり取りこそが、イリスとビルディアの同僚としての距離だった、と。
愛想がないだ朴念仁だとイリスを評していたビルディアもまた、今イリスの笑顔を見て笑った。彼も心の何処かで別れを惜しむ気持ちが欠片でもあるのだと分かる笑顔だ。
照れ臭くなって笑い飛ばそうかと思ったが、彼は途端に真摯な目をしてそれをさせてくれなかった。
「お前も、幸せになれよ」
そして言うのだ。きっと一度限りであろう、心からのイリスを気遣う言葉を。
言葉はきついし、態度も優しくはない、それでも彼がイリスを認め、ずっと気遣ってくれていた事は分かっていた。だからイリスは笑って言う。ゆっくりと目を細めて穏やかに。
犬猿の仲だった、大切な同僚に、伝えるべき言葉を。
「ありがとう、ビルディア」
「ああ、ありがとう。イリス」
気恥ずかしさの所為か、ビルディアは視線を外して一度だけ伸びをした。ぶわりと風がおこり、ビルディアの白金の短髪を揺らす。急かすかのような風に背を押されたか、彼は手綱をゆっくりと手に取った。その目は真っ直ぐ前を向いている。
「俺は行く」
「ああ」
ゆっくりと、彼は歩き出した。彼の望む未来へ。
ビルディアは振り返らない。徐々に遠くなってゆく背中が、強い自信と希望に満ちている気がした。
高いいななきの後、ビルディアの馬は疾走する。直ぐに彼の姿も見えなくなって行った。
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「そうか、彼も行ったんだね」
執務室でアスランでの報告を終えると、彼は感慨深そうに溜め息を吐いた。執務机に肘を立て、窓を見遣って目を細めている。
「皆自分の道へ進んで行くね」
「はい。幸せそうで良かったです」
「君は?」
セスタはじっとイリスの顔を見てくる。窺う様な色の混じった眼差しだ。彼もまたイリスを心配しているらしい。
「ビルディアにも言われましたが、私は何故そんなにも心配されているのでしょう」
「君が、あの大戦に掛けた想いを知ってるからだよ」
必死に国内外を駆けて回り、二国の手を結ばさせた。時には傷付いて、一人一人大切な人の心を動かしていった。
それだけの想いを抱いて、イリスは戦っていたのだ。
だから、平穏になった今こそ。
「君には幸せになってもらいたいからね」
彼はビルディアと同じ言葉を口にしたが、その聞こえは全く違っていた。
セスタはやはりいつでもイリスを優しく導いてきたのだ。上官となり、友となり、時には敵としてでも、彼は違いなくイリスに甘い程に心を砕いてきてくれていた。
そして今も。彼の言葉はやはり今でもイリスを甘やかす。喉に何かが詰まったように苦しくなって、堪えると今度は鼻がつんと痛くなった。
「きっと、幸せになります、必ず」
途切れ途切れに紡いだ言葉はきっと震えていただろう。だがセスタは穏やかに笑って、二、三頷いているだけだった。
「そうだ、君に渡す物があったんだ」
セスタは思い出した様に執務机の引き出しを開けて、小さな包みを取り出した。ゆっくりとそれを開く。
「早く返さなければと思っていたが。遅くなってしまった」
顔を出すのは、小さな石。移り変わる色の小さなイヤリングだった。
「忘れていたかい? 私に預けたままだった」
「……いいえ」
「あの時君は、大切なものだと言った。今も同じかい?」
イリスは玉虫色の小さな石をじっと見つめる。暫く静かに見つめ続け、そしてくすりと笑った。
「ええ、大切です。あの時とは少し、意味は違いますが」
その顔は随分と晴れやかで、セスタも目を伏せながら小さく苦笑を漏らしたのだった。