5 ルシアナ首都攻略戦
イリスの双鞭が血を纏ったのはいつ以来だろう。今思えば、当時イリスは何も考えていなかった。ただ只管強さだけを欲していた。
それはとても愚かだった。確固たる信念を無くして、武器を振るってはいけない。今は強くそう思う。
逆に言えば、今のイリスには目指すものがある。故に彼女は迷わない。自分の信念の続く道が如何に凄惨で血塗られていても。
イリスは頬を袖でぐいと拭った。乾いて赤褐色となっていた袖口が、再び鮮やかな赤に染まる。
もうルシアナ首都は目と鼻の先だ。しかし先程から相対する兵は正式なルシアナ軍部のものたちではない。恐らく義民兵というものだろう。
ルシアナ軍部が首都にて籠城を決め込んでいるという話にも真実味がわく。
ただでさえルシアナ首都は堅固なのだ。冬の寒さ厳しいルシアナは、冬の猛威に耐え得るため強固な造りとなっている。それは戦においても同じ事がいえた。いくら圧倒的兵差といえども、無策に侵攻出来るものではない。
滞りなく首都を包囲した王国軍だったが、首都の堅牢さに攻め手を決めあぐねた。そして今一度陣営の天幕にて額を集める事となったのだった。
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「出来得るのならば手っ取り早く片付けたい。首都の中では多くの市民がいるだろう。兵糧がなくなっていけば、割りを食うのは市民だ」
「それが厄介なのですよ。力押しで攻め入れば恐らく市民共々蹂躙せざるを得ませんでしょう」
「押し入るにしても、首都は正に要塞です。そう簡単に塀の向こうには行けないと思います」
ルシアナ首都の地図を広げて舌戦を繰り広げているのは、ニール、サミーア、リヴだ。三人寄ればなんとやらで性格も考え方も全く違う彼らは、お互いに刺激しあい今までも様々な策を弄して来ていた。だが堅固な首都の造りとそこに住まう市民の多さに、なかなか有用な策が出ないでいる。
攻め手が決まらない以上、武官であるイリス達には出来る事がない。皆一様に渋い顔をして軍議の成り行きを見つめていた。
「圧倒的な兵差をもってすれば押し入る方法はいくらでもありますよ。ですが余りに凄惨な戦をしてしまえば、その後の治世にも影響が出るでしょう。要らぬ禍根は残したくないですしね」
サミーアがそう言って、地図上の首都の外壁にあたる部分を指で撫でた。ニールが腕を組んで眉を寄せる。
「やはり攻城は下策だ。何とかして誘き出せないか」
「無理でしょうねぇ。文字通り此処が最後の砦ですから」
「向こうから城門を開けてくれれば楽なんですけど」
苦笑しながらぽつりと零したリヴの言葉に、サミーアがぴくりと眉を上げた。
「何ですって」
「じ、冗談です! 願望を言っただけで」
「いいえ、冗談ではないですよ」
にやりと笑んでサミーアはぴしりと指を向けた。その先にいるのは目を丸くしたアミヴァだった。
「貴方、中の兵に呼び掛けられるでしょう。此処までくれば少しくらい呼応する兵がいるのではないですか」
「今父の側にいるのは父の忠臣ばかりだ。私が呼び掛けたとて呼応する者がいるとは思えない。それに中の者らは覚悟を決めた者ばかりだ、私が呼び掛けていたずらに刺激するべきでもないと思うが」
「そうですか」
きっぱりと言い切るアミヴァにサミーアが勢いを落とした時だった。腕を組んで難しい顔をしていたニールが片眉を上げた。
「ならば市民はどうだ。蜂起を促し中から開城させるのだ」
「そうですね。市民には、将軍に義理立てして命を賭す必要もないのですしね」
「そうですよ! 次期将軍であったアミヴァ様の声明でしたら動く市民もいるのではないでしょうか」
途端に三人の顔が明るくなる。
力で押し入るよりもずっと容易な方法だ。そして何よりも可能性が高いと言えた。
「分かった。私の名の下に市民を保護する声明を出そう。
だがその声明を中に届ける手段がない。中にいるのは既に私にとっても敵のみなのだ」
「でしたら心配には及びません。触書きを多数投げ込みましょう。投石機を使えば中に届けられますしね。それで如何でしょう」
サミーアの提案に、アミヴァは一度だけゆっくりと頷いた。線の細い顔を少しだけ強張らせて。
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首脳部の案は直ぐに実行に移された。大量の触書きが投石機の皿に乗せられ、高い城壁を越える様に力強く飛ばされてゆく。
白くちらちらと散ってゆく触書きは、ルシアナの白い土地と相まって雪の様で、イリスは感慨深くそれを見上げていた。
だが降るものは決して雪の様に儚いものではない。首都に騒乱をもたらす火種だ。火種はそれ自身はちっぽけなものであっても、瞬く間にその身を広げてゆく。現に今白い火種も塀の中に動揺を広げていた。
──今城壁を開き外に出た市民の身柄の保護を、首都を包囲する王国軍は保証する。二日後の日没迄待つ。
触書きの内容はこうだ。簡潔明瞭なその文面は、首脳部が目論んだ通りの結果をもたらす。二日という期限を待つ事なく、城壁の扉が開けられたのだ。
それは夜半とも呼べる刻限だった。
突然城門付近が悲鳴や怒号で埋め尽くされ、外で控えていたイリスら王国軍は身を引き締めた。
ゆっくりと開く鉄の扉、そして僅かに開いた隙間から数多くの腕が伸びる。ルシアナを見限った市民が我先にと外の地を欲しているのだ。顔は見えぬが、無数の腕の中には女子供のものも交じっていた。
そしてそれを阻止しようとするのは、未だニキア将軍に忠誠を誓うルシアナ兵らだった。鳥の紋章を刻んだ甲冑が押し寄せる市民らを押し戻そうと背を並べている。
やがて扉が半分程開いた頃、外を埋め尽くす王国軍の姿をルシアナ兵らが見留め、愕然と目を見開く。
それからは一瞬だった。
怯んだ兵らを振り切って、保護を求める市民らが押し寄せる。躓きながら転びながら、市民らは王国軍へとなだれ込んでいった。
そして王国軍も扉が開いた一瞬を逃す訳にはいかなかった。多大なる物量を誇る王国軍は、唯一開いた入り口目掛けて突進してゆく。
外に出る市民、止めるルシアナ兵、突入する王国軍──その混沌たるや筆舌に尽くしがたい混乱であった。
やがて第一陣がその騒乱を抜け、首都への侵入を果たした。鬨の声を上げ次々に続く王国軍兵団を止める術など、ルシアナ兵は持っていなかった。
そしてイリスも城壁を抜け、遂に首都内部へと足を踏み入れた。
市民らを数多く失った街はその光を殆ど落としていた。暗がりの中、火を掲げながら辺りを窺いつつ進んでゆく。
何処かで微かに剣戟の音が聞こえるから、抵抗がない訳ではない様だ。だがイリスらが進む先にルシアナ兵の姿は見えなかった。
圧倒的な兵差故に、首都の中心に位置する城に篭っているのかも知れない。そう思ってイリスは顔を上げて強く見つめた。闇夜の中悠然と佇むニキアの居城を。
だがやがてイリスらの前にもルシアナ兵が立ち塞がった。街の哨戒にあたっていた隊なのだろう、数は多くない。だが彼らは洩れなく強い覚悟を眼に宿して武器を構えていた。
イリスも双鞭を両の手に構える。小さく息を吐いて、彼女もまた覚悟を決めていた。
先手を打ったのはイリスだった。剣を構える一人の兵士目掛けて、左の鉄鞭を鋭く伸ばす。敵兵も鉄鞭を叩き落とそうと剣を振りかぶるが、一瞬早く鉄の突起が剣に絡みついた。
耳を刺すほどの摩擦音を立てて敵は剣の自由を取り戻そうともがく。イリスはさせまいと右の鉄鞭で敵の首を絡め取るが、甲冑を着た兵には決めてとならず甲高い金属音を鳴らしただけだった。
膠着状態になりかけ、だがイリスにはもう一つ武器があった。素早く敵へと踏み込むと、左の鉄鞭を投げ捨て素早く腰の短刀を引き抜いたのだ。あとは一瞬。イリスは踏み込む勢いそのままに短刀を力強く甲冑の隙間、脇腹に刺し下ろした。脾腹に刀身が深々と突き刺さる。
走る衝撃故に声にならぬ呻きをあげて倒れ臥してゆく敵兵を見遣り、イリスは一瞬だけ眉をひそめた。
己が選び、導いた大陸大戦。イリスにとっては故郷の仇、そして歪んだルシアナ帝国を打ち倒すという確固たる信念に基づいた戦である。
だが今イリスらが蹂躙する彼らにも、正義がある。譲れない信念があるからこそ、彼らは圧倒的な劣勢の中でも剣を構えた。それを今イリスは自分の信ずるものの為に斬り捨てたのだ。
──しっかりと刻め。
己の目指す道には、多大なる犠牲があるのだと。信ずる者の為に武器を振るう彼らを越えてしか、己の望むものは得られないのだと。
決して己は正義などではないのだと。しっかりと刻み込め──。
イリスはそう自分に言い聞かせていた。
胸の内に湧く言いようのない感情は決して迷いではない。だがイリスは初めて知ったのだ、侵攻戦がこれ程に心苦しいものであると。国を亡ぼす事が言葉では容易くても、心に楔を残すものである、と。
イリスは鉄鞭を振るっていく。向かって来る敵には容赦なくその棘を絡ませた。一人、二人、三人……何人を倒しても、敵兵は背中を見せなかった。例え最後の一人となっても、鉄鞭をその顔に食らっても、敵兵の目から強い意志が消える事はなかった。
そうして敵兵が皆地に伏すまでそう大した時間はかからなかった様に思う。だがイリスらの隊が掲げた火はとっくに消えていた。それでも難なく双鞭を振るえていたのは、空が白み始めていたからだと今更ながらにイリスは気付いたのだった。
首都陥落。それは呆気ないほどだった。
だが未だ終わりではない。ルシアナ軍は首都も市民も捨て、籠城する事を選んだ。
圧倒的な兵差、完璧な包囲網、此度の籠城は即ちルシアナ軍が死地を其処に求めたに違いなかった。