4 最後の覚悟
前哨戦の結果は上々だった。
イリスはアミヴァの内応の約を取り付け、無血での王都帰還を果たしたのだ。吉報を待ち望んでいた指令部の者たちは、皆イリスを褒め讃えた。あのサミーアでさえも、だ。
そしてイリスは疲れの癒えぬまま、ある地に足を運んでいた。
ある地とはかつてバルクアスラン共闘軍とルシアナ軍が刃を交えた地、ハカムであった。ルシアナと旧アスランの国境線付近であるその地は、内応したアミヴァが彼に呼応した兵らを引き連れ合流する手筈となっている場所である。
一応の戦の態を見せるため、イリスは上官セスタと共に一団を率いてこの地に駐留していたのだ。
何故かこの行軍には旧アスランの兵が数多く志願し、一応の態とはいえ大軍団となっている。
不可解に思いながらも大軍団を率いて来たイリスだったが、理由はアミヴァと共に帰順したルシアナの兵団と合流した時に漸く分かった。
其処此処で抱き合うルシアナ兵とアスラン兵の姿。
8年前のルシアナ帝国の建国に依り、離散した家族が多くいたのだ。ニキア・ルシアナ将軍に付き従った旧アスラン軍部の者はルシアナ軍へ、そして残された家族はアスラン軍部へと別れたのだろう。
抱き合う兵の中には、旧アスラン軍部で軍事司令の職に就いていたオーギュストの姿もあった。いつも飄々としていた彼だったが、年配の兵に力強く抱かれ幼子の様に肩を震わせている。
彼もまたニキアの横暴によって家族を奪われていた一人だったのだ。
そんな兵たちの様子を満足そうに見ていたイリスの肩を叩いたのはセスタだった。
「君のお陰でこんなにも多くの家族が再会出来た。感慨深いね」
「ええ、漸く形になってきた気がします。私の目指したものが」
そう言って辺りを見渡す。喜びに打ち震える兵らを見遣って、イリスは目を細めた。
「私の独り善がりではなかった。それが一番嬉しいです。
万人が望む未来などあり得ませんがそれでも。私の望む未来が皆の望むものであれば良いと、願わずにはいられません。例え夢語りでも」
「自信を持てば良い。君の選択は間違っていないよ。だからこそ、信じて進まなくては」
セスタはまた優しい顔で言う。
彼はいつもそうだ。甘い言葉でイリスを導くのだ、まるで父や兄の様に。
以前のイリスならば、彼の優しさに胸を揺すぶられ、自分の弱さに浸った事だろう。だが今のイリスは違った。
「私は決して立ち止まりません。救わねばならぬ人がまだいるのです」
そう言ってじっと虚空を見つめる。その目には今は見えぬルシアナの地が映っていた。
「漸く合流出来たか。これ程の強行軍はかつて無かった」
疲れ果てた声が背後に聞こえ、イリスがはたと振り返ると、幾分か窶れた表情のアミヴァが馬を引いて立っていた。
今回の帰服にあたり、彼もまた奔走したのだろう。以前からルシアナ軍部へ根回しをしていたらしいが、それでも充分な時間ではなかった。
だが今、策略と強行軍に疲れ切り窶れたアミヴァの顔を見て、イリスは満足そうに笑うのだ。
ハカムの地で味方として立ったアミヴァの姿が、大層晴れやかだったからだ。そして。
「エイレス……様」
イリスが呼び掛けると、アミヴァの腰に紅い髪がちらりと見えた。彼もまたイリスの気掛かりの一つであった。
「エイレス様も来て下さったのですね」
幼年の彼は恐らくまだ状況を理解していないだろう。故にイリスはわざとルシアナにいた時と同じ口調で話し掛けた。
するとエイレスは、怖ず怖ずと顔を覗かせて首をふるふると振ったのだ。
「……兄上が、無理矢理」
「お前を連れ来る事がイリスとの約束だったのだ。お前は未だ戦に命を賭す覚悟などしていまい」
「ですが……」
言いかけたエイレスの言葉を遮る様にして、イリスはエイレスの前に跪いた。目線が合うと、彼は気まずげに目を逸らす。
「兄上を責めないであげて下さい。私が、あなたを必要としたのです」
そう言ってにっこり笑って見せると、エイレスは暫し口をもごもごと動かして小さく呟いた。
「イリスは……本当に僕の姉上なのか……?」
「……ええ。そうですよ」
ぽろり、とエイレスが涙を零した。決して表情を歪める事なく、ただ一筋だけを頬に伝わせたのだ。
アミヴァの言に拠れば、エイレスは母親に疎まれていたという。彼が姉であるイリスに複雑な思いを抱くのも当然だ。その姿が良く似ているのであれば尚更。
そしてイリスも、ルシアナでのエイレスの言動は簡単に許せるものではなかった。だがニキア将軍の息子として彼が滅ぶ事も看過できないでいたのだ。それも偏に母という繋がりがあったからだ。
だからイリスは言う。半分は自分に言い聞かせる様に。
「私と共に来て下さい」
と。
静かに言って手を差し出せば、エイレスは初めて顔を歪めた。唇を強く噛んで、子供らしくなく涙を堪えている。
憎き男の血を引き彼の男に良く似たエイレスもまた苦しんできたのかも知れぬと、ふと憐憫の情がわく。
咄嗟にエイレスを引き寄せ力一杯抱き締めると、彼は苦しげにもがいた。だがイリスは力を緩めない。
「あなたの事は私が責任を持ちます。ご心配なさらず」
イリスが耳元で告げれば、ゆるりとエイレスは身体の力を抜いた。だが顔は上げない。顔を伏せ肩を震わせるエイレスの姿は、いつかの彼の兄とよく似ていた。
きっと彼の事も正してみせよう。母に疎まれ兄に蔑まれ、父親の支配下で歪むしかなかった彼を弟として呼べる時まで。彼が父親の支配から抜け出せる様に。
イリスは暫くの間、肩で震えるエイレスの頭を撫で続けていたのだった。
そうして暫しの時間が流れた時だった。アミヴァが静かに口を開いた。
「これが……ルシアナから帰服する兵全部だ。あとは皆、父と共に戦う道を選んだ」
「そうか。充分だ。これだけをもってすれば圧倒的な兵差となるだろう」
「……ユシリアは、無理だった」
すまなそうに、アミヴァは目を伏せる。イリスはほんの一瞬だけ唇を震わせた。それは誰にも気取られぬ程の僅かな動揺だった。次の瞬間には目を細めて、仕方がないといった風に笑ったのだ。
「まあ、分かっていた事だ。彼はニキア将軍の腹心だと、貴方が言ったんじゃないか」
「だが奴とも戦う事になる。そういう事なのだぞ」
「分かっていた。私も彼も、最初から武人だったのだ」
決して期待していなかった訳ではなかった。一縷ほどには望みをもっていた。だがそれはやはり一縷でしかなかったのだ。
イリスが愛したユシリアという男は、人が良いながらも決して信念を曲げないであろうと分かっていたから。
「お前は聞き分けが良い振りをするのだな。決して心中穏やかでない癖に」
苛立たしげに言いながらアミヴァはイリスの耳を指差す。そこにあるのは、燃える様なイリスの紅い髪に負けぬ程に紅く光るイヤリングだ。イリスがユシリアを未だ愛しているのだと雄弁に語っている。
だがイリスは動じずに目を細めた。
「此処で動揺するくらいなら、私は最初からルシアナを脱していないよ。全てはそこに置いてきた」
「……少しくらい、取り乱せば良い」
アミヴァが小さく零すのを聞いて、イリスは吹き出した。
「はは。何故貴方がそれ程に怒る? 私が大丈夫だと言うのに」
「別に。お前が納得しているのならば、これ以上私が言うことはない」
ふいと顔を背けて、アミヴァは行ってしまった。その背中がまだ不満気に項垂れていた。
彼の気遣いだと分かっている。だがイリスは後悔したくなかった。感傷に浸る気など少しもなかった。
彼女は道を選んでいたのだ。ユシリアに出会う、もうずっと昔に。
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アミヴァら帰順兵の軍団を組み込んだ王国軍は、ルシアナとの兵差を更に大きなものとした。かつて軍事大国であったルシアナだが、今はその兵差に対する力を殆ど残していない。
王国軍は、バルクから東へ侵攻する部隊、ハカムの地から北東へと侵攻する部隊、旧アスラン首都から北へと侵攻する部隊と軍を大きく三つに分けてルシアナの地を制圧していった。
元から、首都から遠く離れた地方の都市はニキア将軍の治世に不満をもっていない訳ではなかった。故にローラー作戦を敷く王国軍に対し目立った反抗はなかった様に思われる。
恐らく数を少なくしたルシアナ軍は、ルシアナの首都に籠城する道を選んだのだ。
首都に近付くにつれ抵抗は強さを増していったものの、王国軍の足を止めるには至らなかったのだった。