3 友との会談
捕らえた斥候にアミヴァに宛てた書状を持たせて放った凡そ五日後。慣れない雪の地での宿営に、士気の高かった兵たちにも疲労の色が出始めた時だった。
アミヴァの返信を手にした使者が王国軍の陣営を訪れたのだ。
イリスは長々とアミヴァを口説く文面を綴った筈だ。だが使者から手渡された返信にはそっけなく一文、会談の場所と日時、そして限られた人員で来いと記されているのみだった。
返信が来るだけ、悪い返事を用意はしていまい。
イリスはそう信じ、アミヴァに指定された通りビルディアだけを伴って指定された日時に関所を訪ねたのだった。
辺境の地の関所だ。見た目の堅牢さは天然のものであると、イリスたちは関所の中に入って初めて知った。朽ち果てそうな薄汚れた石畳みを通り、音を立てて開く木扉をくぐる。
関所の弱味を見せるあたり、やはり事を楽観視出来るかも知れない。
「は、呼びつけて断りなんざしてみろ。関所ごと灰にしてやる」
「やめてくれ、ビルディア」
不機嫌そうに口を尖らせるビルディアを宥めて、イリスは苦笑を漏らした。
ビルディアはルシアナに故郷を滅ぼされた。その彼がルシアナに、またアミヴァに向ける憎悪が並々ならぬ事をイリスはよく知っている。
イリスがしようとしている事は、大陸大戦の利を考えれば重要な事だ。次期将軍が討伐軍に加われば、殆ど無血で大戦が終わるかも知れない。
そんな事はビルディアとて分かっているだろう。だが理解はしても納得は出来ぬ。彼はそういう男だ。
「貴方の気持ちは分かる。私もルシアナに入らなければきっと貴方と同じだったろう」
「それは、お前が絆されただけだ」
「そうかも知れないな」
イリスが苦笑して言えば、ビルディアは気まずそうに口を噤んだ。ちらりとビルディアを見て、イリスは更に言葉を続ける。
「貴方自身の目で見極めれば良い。彼が絆されるに値するか」
ぽつりと呟いたイリスに、ビルディア小さくああ、と頷いた。
「俺は黙っておく事にする。口を出せば厄介だろう」
「そうだな、頼む」
いつもならばいきり立ちそうなイリスの即答だが、ビルディアは頷いてそれきり口を閉ざした。彼も複雑な思いを抱えながらも、この会談の重要性は理解しているのだと思えた。
イリスは前を向く。
逸りそうになる胸を抑え、一歩一歩力強く足を動かしていた。やがて衛士が立ち止まり、手で目の前の部屋を差し示す。
重々しい鉄の扉をゆっくりと開くとそこに。
──アミヴァが、椅子に座していた。
細い眉が神経質そうに顰められており、冷淡に光を灯す目は感情が読めない。そんな相変わらずのアミヴァの表情に、イリスは懐かしさに胸を掴まれる心地がした。
まだ何も始まっていないのに、何故か鼻の奥がつんと痛む。
自分から彼の元を逃れた癖に、この時を焦がれていた。その為に時を急ぎ奔走した。
イリスの目的の一つ、彼を、救う為に。
彼を許し、救い、友となり、記憶のない自分のわだかまりを一つ昇華する為に。
ゆっくりと部屋に足を踏み入れると、彼も緩やかに腰を上げてイリスを見る。じわり汗ばむ掌をぐっと握りしめ、イリスは彼の前に対した。
逸る気持ちを抑えアミヴァを見上げれば、彼は複雑そうな表情で更に眉を寄せている。
「会談の申し出を承諾下さり感謝する。早速話しても?」
イリスがそう口にすると、アミヴァは座るように手で椅子を示した。腰を下ろして、再度イリスは口にする。
「此度会談を受けて下さったのは、少しでも私の話を聞いてくれるという事だな」
心持ち挑戦的に言えば、アミヴァは複雑そうに顔を歪める。眉を寄せてただ、黙っている。
それを見てイリスは僅かに口を歪めて、分からぬ様にほくそ笑んだ。
「貴方が本に私の申し出を断る気ならば、そんな曖昧な態度はとらないだろう。きっぱりすっぱりとにべもなく切り捨てる筈だ。これは期待しても良いのかな」
挑発するかの様な物言いに、アミヴァが鋭い目でイリスを見遣った。だがその視線も、いつかの様な酷薄さはない。惑う様に揺れる瞳をじっと見つめれば、ようやっとアミヴァが口を開いた。
「まさか本当に、バルクとアスランが手を結ぶとはな」
「苦労した。一日千秋の思いとはこの事だと思ったよ」
「やはりお前の仕業だったのだな」
「なかなか大仕事をやってのけたと思わないか。胸に決めた事があると強いのだよ」
「は。前にも聞いた台詞だ」
アミヴァは小さく吐き出す様に笑い、頭を抱えて目を伏せた。彼の惑いが全身から窺える。
「言っただろう。ルシアナを滅ぼし得る力をつけて、貴方と友になると。これ以上ない口説き文句じゃないか」
「まだお前はそんな甘い事を……」
「あの時は確かに夢物語だった。だが見てみろ、私は約束を守ったぞ。甘くはなかった」
「お前は阿呆だ。甘いのはそれだけではない。私を仇敵と思い、父共々葬ってしまえば良いものを」
「阿呆で結構。阿呆だからこそ、私は貴方と友になれる。あれだけ私を苦しめた、貴方とな」
にやりと笑って言えば、アミヴァが気まずげに目を逸らした。気弱な彼の様子を見て、笑いが漏れる。
「何を笑っている」
「窶れているな。それ程に迷わせているか」
「酷い質問だな」
──国を、父親を捨てろ。
イリスが言うのはそれに他ならない。決して甘い言葉と共にアミヴァを連れようとは思っていないのだ。
友となる、即ちそれは、仇となると同意なのだから。
「恨むか、私を」
静かに問うと、アミヴァは目を伏せたままゆっくりと首を振った。
「やはり甘いと思う。お前は国を失う時に、心の準備などしなかった」
小さく呟いて、アミヴァは頭を抱えて崩折れるように膝に肘をついた。
「いや、酷いのは……私だ。お前にここまで言わせてはいけなかった。父の愚挙を止めねばならぬのは私だったというのに……!」
「だから! こうして迎えに来たのではないか。過去を悔やんでいるのなら、今また決断すればいい」
イリスは叫んでいた。心なしか声が詰まるのは、湧き上がる熱いものを堪えているからに違いない。
目の前で懺悔する彼をいじらしい、愛おしいと思った。決してそれは恋愛の情ではないが、少なくともイリスの中に彼を仇敵だと思う気持ちはこれっぽっちも無かった。
「貴方は好ましいよ。だからこそ、私に貴方を殺させないでくれ。私は──後悔したくない」
「……後悔だと」
「仕方ない犠牲だったと思いたくないのだ。何故あの時無理にでも手を握っておかなかったのかと、後で悔やみたくない。
──貴方を死なせたくない」
「イリス……」
イリスの言葉は、アミヴァに深く届いたのだろう。彼は今初めて、イリスの前で泣いた。
──何故あの時。
アミヴァはかつて何度その言葉を思ったのだろう。
夫婦となるその日に、婚約者を失くし、父の配下で後継者として生きるしかなかった彼は。
そんな彼だからこそ、イリスの今の心情を理解できぬ筈がなかった。
イリスはゆっくりと手を差し出す。そうして言うのだ、今一度。
「ルシアナを滅ぼす。私の手を取れ」
それはかつて、ルシアナを脱する時に告げたものと寸分違わぬ言葉で。
アミヴァが顔を上げる。
彼はもう既に父の支配から抜け出せている。そう思って笑むと、彼はくしゃくしゃに顔を歪めてイリスの手をぎゅっと握ったのだ。