19 遂に成る
アスラン国内は大騒ぎだった。議会は早々に、バル王家に治世権を返還する事を宣言したのだ。
だが大きな混乱は起きなかった。議会の形骸化は皆の知るところであったので、遅かれ早かれ他国の力を借りる事になるのは皆分かっていた。
それが首席の崩御と時を同じくすれば、誰も異論などない。異論のありそうな者は以前の議会で権力を失していた、と言った方が正しいかも知れない。
そして軍部も。イリスは知らなかったが、軍部は早々に同盟に関して賛成的であったらしい。これが軍部内で混乱を起こさぬ為のオーギュストの計らいであったとイリスが知ったのは、ニールに告げられたからであった。
その後たじろぐオーギュストに掴みかかる様にして、彼女が感謝の言葉を浴びせ掛けたのは言うまでもない。
イリスがアスランですべき事、出来る事はもうなかった。
出国の時は、直ぐに迫っていたのだ。
「今迄世話になった、リヴ」
そう言って手を差し出すと、リヴは大きな目を潤ませて、ぎゅっとイリスの袖口を握った。
癖なのだろう。今迄にも幾度となくされた幼子の様な仕草に、イリスは彼らしいと笑みを漏らす。
見かけは子供の様な彼だが、イリスは何度も助けられた。
「貴方が居なくては、私は未だルシアナに居ただろう。本当に感謝しているよ」
「そんな! それは僕の台詞です。イリス殿のお陰で僕はアスランに来られました」
頭をぶんぶんと振って、彼は全身で感情を露わにしている。微笑ましく思って、イリスは彼の頭を優しく撫でた。
今日イリスは出立する。帰るべき場所に帰る為に、そして正式にアスラン返還を行う為に。
「イリス、そろそろ行くぞ」
馬に跨ったニールが急かす。彼もまた正式な式典の為に、イリスと共にバルクへ向かうのだ。供も含めた数人での道程は、イリスにとっても有り難いものだった。
イリスは馬へ跨った。そして最後にリヴに笑みを向けると、手綱を引いた。イリス殿、と小さくリヴが声を上げる。
今生の別れではないのだから、これ以上の涙の別れをするつもりはなかった。会おうと思えばいつでも会える。バルクとアスランは同じ国になるのだから。
ゆっくりと馬は歩みを進める。
次第にアスランの白亜の楼閣は、小さくなっていった。
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バルク王城内は大わらわだった。数日前に使者を遣わしたのだが、城の者はみな式典の準備に追われているらしい。
治世に空白の期間が出来るのは良くない、と強行日程を押し通したのはニールだった。その彼は騒がしく走り回る兵達を横目に、涼しげな顔で廊下を歩いている。
例え権力がなくても、彼が下手に出る筈がなかったのだ。
だが回廊の先、兵に示された陛下のおわす謁見の間の、重厚な扉を見遣ったニールの表情が変わるのをイリスは見た。
玉座に座る陛下は、イリスとニールの姿を見て、表情を弾けさせた。だがサミーアに目で制され、陛下は姿勢を整える。
「良くぞお越しになられた。アスランの申し出、有り難く受け入れるとする」
「どうか、アスランの民に平穏を。宜しくお願い申し上げる」
そう言って陛下とニールは、暫し書類の遣り取りをしている。二人は多くの言葉は交わさない。何を言わないでも、彼らにはそれぞれ感じ入るものがあるのだろう。
笑顔を浮かべて感慨深く二人の様子を見つめていたイリスだったが、ふと視線に気付く。顔を上げれば、サミーアがじっと此方を見ていた。彼の視線は決して穏やかなものではない。
それではたと気付く。
アスラン合併までが長かった為か、とても達成感があった。だがイリスが目的としているのはアスランとバルクの同盟ではなかった。それはあくまで手段だった筈だ。
ルシアナを倒す事こそ、イリスの本懐。サミーアの視線は、それを訴えているのだ。
イリスは表情を改める。これは決してゴールではないと自分に言い聞かせて。
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式典は数日後だった。絢爛に飾り付けられた式場で、国王とニールによって調印式が行われる。
本来ならば一軍人であるイリスは、その場にいるべきでない。だが陛下のたっての希望で、イリスは式典の証人を務める事と相なった。
壮麗な会場で初めて着るような式典用の衣装を身に纏い、イリスは陛下やニールと共に壇上にいた。長々とした口上も、緊張の為に耳に入らない。
だが遂に調印となった時、イリスはすっと気が鎮まるのを感じた。
国王がペンを握り、その名を記してゆく。それが妙にゆっくりと感じるのは、イリスが感慨深く思うからだろう。
気持ちを新たにしたのはつい数日前だったが、今日この時くらいは心を動かしても良い筈だ。そう思うと途端に熱いものが込み上げかけて、慌てて唾を飲み込む。
すると署名を終えたニールが振り返り、イリスにペンを差し出した。
とうとう自分の番だ。今からイリスは証人として、この書類に名を刻む。ペンを握る指先が冷たく震えるのが分かった。
決して名誉の為に同盟を画した訳ではないが、それでもこうして正式な場で名を刻む事は、報われる事に違いないのだ。
ペンを墨に付け紙の上に滑らせた、つもりだった。緊張の所為か震えたペン先は、じわりと紙に僅かな滲みを作る。
不恰好に記された自分の名前が、とても自分らしかった。英明に同盟を結ぶ事の出来ぬ、泥臭い自分にぴったりだと。
震えた己の名前を満足しながら見て、イリスはゆっくりとペンを置いた。
「今この時より、アスランはバルクと併合し我が治世下になる。アスランの英断に敬意を表する。
バルクはアスランに決して不義は為さぬと誓おう」
陛下の言葉が壮麗な会場に響いた。不義は為さぬ──いつかのイリスと同じ言葉を言う彼もまたその言葉を違えぬ御仁である。
それを確信しているからだろうか。隣に座るニールの目が赤く潤んでいる。
これは決してゴールではない、それでも。
新たな門出に胸が震うのを止める事は、誰にもできなかった。
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こうしてアスランはバルクの治世下となり、強大なバルク王国が出来上がった。
軍部は弱いが、肥沃な大地と豊かな民をもつアスランを併合できた事は、バルクの国をも豊かにした。
この強大な王国の誕生を、かの強国が黙っている訳がなかった。
バルクとの休戦以降、好戦的な動きは鳴りを潜めていたルシアナだったが、二国の合併を聞くなり大幅な軍配備を行ったのだ。
三竦みはもうない。
今大陸にあるのは強国二国の睨み合いであり、取りも直さずそれは大陸大戦の開始を示唆していた。