6 共闘1
コンコンと部屋の扉をノックする音で、イリスは目覚めた。寝過ごしただろうかと外を見遣るが、未だ朝靄がかかり日が顔を出したばかりであると分かる。
つまり来訪者が早すぎるのだ。こんな時間にやってくるなど彼しかいまい、とイリスは疑いもせず声をあげた。
「サミーア殿、少々お待ち下さい。今起きたばかりですので」
「あ、サミーア殿じゃないんだけど」
部屋の外から聞こえた声に、イリスはがばりと飛び起きた。聞き覚えのない声、つまりアスランの者という事だ。アスランの者がこんな早朝に何用だというのだ。
イリスはそっと武器を取ると、振り下ろせるように後ろ手で構えながら扉にゆっくりと近付く。意を決して扉を開ければ──何故か間の抜けた顔で立つ若い男がいた。
イリスは唖然としたまま、武器をどうしようか迷った。彼の身形は下働きには見えないから、恐らくアスランの、地位のある者だろう。急な早朝の訪問を拒絶しても良いものか悩んで、結局イリスは相手の出方を窺った。
「ニール様に挨拶をしておくように、と言付かったので伺いました。アスラン軍部軍事司令オーギュストです」
間の抜けた顔をした彼は、ぺこ、と頭を小さく下げて笑った。咄嗟にイリスも頭を下げ、
「イリスと申します。バルクで司令補佐の副将を務めております」
と言葉少なに返答した。
さて、どうしたものか。目の前の彼はにこにことその場に立ち続けている。早朝に他人を訪ねる無礼を説明するべきか、と考えかけた時だった。
「今日から貴女も兵達の調練に同行しますか。ある程度の統率をとっておいた方が良いでしょう?」
「あ、ああ。宜しく頼みます」
イリスがたじろぎながら頷くと、オーギュストはにっこりと笑んで時刻と場所を告げて帰って行った。背を見送りながらイリスは呆れるばかりだ。
「……マイペースな人なのだな」
そう口にして、扉を閉める。
あのニールが指示した事だ、何か意味があるのかも知れない。ならばあの間抜けそうな顔も人好きのする様な笑みも、何かの策略か。そう考えかけ、イリスは寝台に飛び込んだ。
結局イリスには分からぬのだ。いくら足りない頭を使ったとて。
もう一度眠ろうと思ったが、目が冴えたのかどうしても眠気はやってこなかった。
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アスラン兵が調練するのは、古代のコロセウムの様な大型闘技場だった。足を踏み入れ、イリスはその広大さに目を見張る。アスランの豊かさを象徴するかの様だ。
やがて立ち尽くすイリスに気付いたのか、オーギュストが片手を挙げながらこちらに歩み寄ってきた。
「やあ、来てくれたね」
「折角の申し出だ。私も鍛錬の場所は探していたので有り難い」
朝とは違い砕けた口調のオーギュストに、イリスもまた普段の口調で返す。だが彼に対する警戒の為か、声色に硬さが混じった。
初対面で妙に和かな人は信用ならない。イリスは共にアスランへと来ている政務官の顔を思い浮かべながら、そう用心していたのだ。
「どうする? 手合わせでもしようか?」
「ああ。是非とも」
一も二もなくイリスは頷いた。イリスは考える事が得意ではない。故に相手の為人を知るには、刃を交えるのが一番だと思ったのだ。
この和かな軍人の、裏の何かが垣間見えるかも知れないと。
イリスは剣を構える。彼女の武器は鉄の双鞭であるが、鍛錬の時にまであの殺傷性の高い武器を使う訳にいかなかった。勿論、イリスは剣においても他人に引けを取るとは思っていない。
そしてオーギュストも、イリスと同じ鍛錬用の剣を構えている。先程までの緩んだ表情から一変、鋭い眼光は確かに軍人のそれだった。思ったよりも楽しい鍛錬になりそうだ。
オーギュストが地を蹴る、一瞬遅れてイリスも飛びすさった。既にオーギュストは先程までイリスがいた場所を剣先で薙いでいる。間一髪、というものだ。鍛錬用の模造剣とはいえ、あの勢いで斬られてしまえば大怪我は免れない。
怪我をさせるつもりなのか、それ程度躱せて当然と思っているのか。まだ真意は窺えない。
今度はイリスが仕掛けた。離れた間合いから、剣を*エストックの様に両手で突き刺した。躱されて当たり前、イリスの目論見は彼が如何な行動を取るのか見極める事だった。
そしてイリスの目は驚きに見開かれる事となる。直線的に突き出した筈のイリスの剣先を、彼はあろう事か剣で薙いで弾いたのだ。そうして起こるのは鍔迫り合い。
あそこで躱していれば、イリスのがら空きの脇腹を狙えたであろうに、オーギュストが取ったのは下策中の下策。
だがイリスはそこで一つの結論に至る。力一杯イリスの剣を抑え込んでいる彼を一言で表すなら──愚直。
それはすとん、と納得という形でイリスの中に収まった。そう、オーギュストという男は真っ直ぐなのだ。太刀筋は嘘を吐かない。
やがてオーギュストの力を支え切れず、イリスの手から模造剣が音を立てて落ちる。
「参りました」
負けを認める言葉にオーギュストが満面の笑みを浮かべるのを見て、イリスはやはり、と内心で頷くのだった。
「イリスは俊敏だなぁ。冷や冷やしたよ」
喜びを隠そうともせず、オーギュストはイリスをそう評す。そしてありがとう、と返すイリスの腰を指差しにやりと笑った。
「君の本当の得物はそれだろ? それで戦う君の相手もしてみたいね」
「この双鞭は鍛錬には向かない。怪我をさせず手合わせなど出来るものではない」
「まあそうだろうね。かく言う俺の得物も、似た様なものだけど」
そう言って彼が腰から抜いたのは、鉄砲の様なものだった。だがそれはイリスが知るよりもかなり小さい。
「それは……何だ」
「拳銃、っていうらしいぜ。俺も最近始めたばかりなんだけど」
「鉄砲なのか? それで弾が撃てるとは思えないが」
「見てみるか?」
イリスの返事を聞く前に、オーギュストはそれを構える。咄嗟にイリスは耳を塞いで目を細めた。鉄砲よりも甲高い乾いた音が塞いだ耳にも聞こえ、銃口からは煙が上がる。
「簡単に撃てるだろ。これが使いこなせれば戦いの幅も広がるだろ」
「へえ。初めて見た」
「そりゃそうだよ。俺も最近知った。実は最近雇い入れた傭兵団がいたんだけどさ、そいつらが西洋のものに詳しくて。ほら、中立地区の奴らだったみたいで」
「中立地区……か」
中立地区というのは、旧バルク王国が大陸を統治していた時代から独立を保っていた場所だ。旧バルクを倒したアスラン連邦下でもずっと自治区として保たれていたが、つい2年程前にルシアナによって滅ぼされ、今はその占領下にあった。
なぜ長い間独立を保てたのか、それはその場所が大陸と西洋──この大陸の者は海の外を総じて西洋と呼んでいる──を結ぶ唯一の窓だったからだ。つまり進んだ西洋の文化を取り入れる貿易の拠点であったのだ。
だがルシアナに滅ぼされてからというもの、中立地区の民は姿を消し、貿易拠点の役目も失ってしまっている。
故に西洋のものである鉄砲は、大陸では貴重な兵器であった。
「成る程、アスランは中々近代的な戦をするのか」
からかう様に言えば、オーギュストはまあね、と満更でもない表情をした。やはり彼は正直だ、とイリスは思った。
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穏やかに鍛錬をして過ごせる時間は、そう長くは続かなかった。
バルクからの遠征軍が着くなり、大広間で軍師、将校、政務官勢揃いで軍議が行われたのだ。軍議は物別れを繰り返し、長い長い時間を掛けて行われた。
その場を取り仕切っていたのはニールだった。彼は次席の政務官でありながら、自ら武器をもって戦場にも参じるらしい。彼の雅な容姿には似付かない厳しい鎧を身につけて、ニールは地図を示して声を上げた。
「皆の者よく聞け。此度はルシアナとの国境に流れる川、ハカム川の下流域に布陣する。察しの通り、此度の合戦の要となるのはハカム川の水を用いた水攻めである。
敵将は此度の戦が初めての総指揮となる、アミヴァ将軍だ。奴が指揮をするのであれば、ハカム川の水計も有用と考える。
だが油断は禁物だ。ここで肝要なのは水門を警備する部隊である。布陣するのはアスランより私ニール部隊、そしてバルクよりイリス部隊だ。何があってもルシアナを追い返せ」
両軍から部隊の声が上がる。両国手を取り合っての戦とあって、兵たちは皆気迫に満ちていた。
「そして下流域に布陣する者も、ルシアナの目を川に向けぬ様、名うての将を数多く配置した。
出来るだけ前面に出て戦え。攻め手を緩めるな」
ニールの鼓舞する声に、下流域に布陣する兵達も気合い漲った声を上げていた。
ひとつ、不気味であったのはルシアナの静けさだ。宣戦して以来国境付近に陣を敷いているだけで、ふたつの国の同盟にも反応を示さない。焦って対談を申し来るでもなく、戦を仕掛けてくるでもなく、ただ悠然とそこにいる。まるでこちらの準備を待っているかの様に。
手を取り合ったふたつの国と、本気になった軍事大国。どちらが有利かなど今は誰にも分からなかった。
バルク、アスラン連合軍が布陣する、その時までは。
*エストック……突き刺して使うタイプの細身剣の事。レイピアとは違い、両手で用いるものを指す。