16 彼の賭け
翌日の日も出切らない朝早く、ニールは既に執務室にいた。産後間もない妻に付いていてやりたいのは山々だったが、彼には一つ決心があったのだ。
扉を叩く音に返事をすると、短い紅い髪が顔を出す。遣いの者が叩き起こしたのだろうか、彼女はまだ眠そうに目蓋をこすっていた。
「早朝にすまない。お前が帰ってから一度も話が出来ていないからな」
「いえ構いません。私も話がしたかったので」
「そうか。で、どこまで知っている」
「帰ってすぐから寝ておりましたので何も。ドルキカ様が危篤だ、としか」
紅い頭を振って、イリスはそう答えた。二日近く寝ていた計算になるが、バルクから帰ったばかりだ。疲れていたのだろうと考えて、ニールは頷いた。
そして彼は事細かに説明する。ドルキカの崩御、後継者の認定、アスラン議会の思惑、全てを包み隠さず。
本来ならば、アスランの者でない彼女に話すべき事ではないかも知れない。だが今の立場となってしまっては、誰が敵になり得るか分からぬのだ。そういった意味で言えば、イリスは間違いなく『裏切らない』と思えた。
全てを話し終えて、ニールはじっとイリスを見つめる。彼女もまた表情を引き締めてニールを見ていた。
彼女にとって今の状況は決して悪くない筈だ。同盟を結ぶ為に説得すべきは、目の前にいる自分になるのだから。それをおくびにも出さぬイリスは、利発ではないが愚かでもないと思えた。
「お前は同盟を、と言うのだろうな」
「まあ、私の大義はそれですので。ですが簡単な事ではない、でしょう」
「当然だ。ドルキカ様が計らっても成り得なかった事だ、私が言って変わるべくもない」
「折角、持ち帰ったのですがね」
そう言ってイリスは胸元からある物を取り出す。何か、などと惚けるつもりもない。紛れもなくバルク国王の親書だ。
「ほお、まさか本当に持ち帰るとはな。あの食わせ者が簡単に首を縦に振るとは思えないが」
食わせ者、サミーア。彼が情に絆されるとも思えない。どの様にしてそれを納得させたか興味があった。
だがイリスは困った様に首を振って、運が良かったのです、と呟いていた。
広げてみれば、その親書は上等な羊皮紙で、バルク国王直筆の署名とバル王家の刻印があった。そして文面は簡潔明瞭に、同盟を願う、とある。
国として器の違いを見せ付けられた気分だ。
「なるほど確かに。これがあれば、諸侯らを説得する切っ掛けには出来そうだな」
「そうですか! では……」
「だが、まだだ」
顔を輝かせかけたイリスを、ニールぴしゃりとはねのける。イリスが唖然と口を開けるのを見て、ニールはにやりと笑った。
「悪い様にはすまい。少し考えがあるだけだ」
悪い様にはすまい──イリスにとってではない。アスランにとってだ。一種の賭けではあるが、アスランの膿は取り除ける筈だとニールは考えていた。
今彼が一番に考えなくてはいけない事は、同盟を結ぶ事でも議会を立て直す事でもない。アスランに平穏をもたらす事だ。それがドルキカの遺言でもあった。
その為ならば、売国奴の汚名だって着よう。
ニールは強い瞳でイリスを見て、彼女の口を閉じさせた。真面目で聡明なニールが気持ちを決めてしまえば、覆す事は容易ではないと、彼女も理解しているらしい。
不満を顔に貼り付けながらも、取り敢えずイリスは矛を収めて部屋を出て行った。
一人しか居なくなった執務室で、彼は親書を広げてしげしげと見つめていた。指でその紙を撫で、小さく頷く。
そして部屋に呼びつけたのは、彼がアスランで最も信頼を置く宿臣だった。
ニールは彼にバルク王国の親書を預け、短く指示を出す。長年共にドルキカに仕えていた彼は、ニールの言葉をすぐさま理解し、一言二言話して深く頷いた。
企図を知った彼は、きっと上手くやる筈だ。彼にはニールがそう思うだけの実力と信頼があった。
親書を手に部屋を出て行く宿臣の後ろ姿を見送って、彼は目を閉じた。
これがアスランの存亡を賭けた一手になる。
もう既に、ニールの賭けは始まっていたのだ。
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翌日ニールは、企図を胸に議会を招集していた。立て続けの急な呼び出しだ、集まった諸侯らは不満の表情を隠しもしていない。それどころか、聞えよがしの謗言が其処此処であがる。
彼らは、首席となったニールに敬意など持っていなかった。
だがニールは、そんな事は当然だと言わんばかりに平然としている。彼にとっては、諸侯らの忠誠など当てにならぬものだったのだ。
「急な招集を詫びる。だがそうも言ってられぬ。事態は切迫しているのだ」
凛とニールは声を上げる。前回の首席所信表明の時とは顔付きが違っている。それに何人の諸侯が気付いただろうか。切迫した状況だと言っているのに、諸侯らは煩わしげな視線を送るだけだった。
「此処にバルク国王からの書状がある」
そう言ってニールは、丸められた羊皮紙を高々と掲げた。諸侯らの表情が訝しがるものに変わる。政に興味のない諸侯らには、バルクからの申し出は見当もつかぬものらしい。
込み上げる嘲笑を押し込んで、ニールはその書状を広げて見せる。だがその内容は、イリスが持ち帰ったものとは正反対のものだった。
──正統な王家を擁する我がバルク王国は、かつての叛逆国アスランへ全軍を以って侵攻を開始する。我が国の属国となるか、抗戦するか、選択せよ。
内容を端的にまとめれば、そういう事だった。これにはふてぶてしい態度の諸侯らも色を失くしている。
「ど、どういう態度の変化だ。何故急に全軍を以って侵攻などと。バルクは侵攻をしない国であるとの話はどうなった!」
一人が声高に叫ぶと、皆が口々に戸惑いを言葉にし出す。議堂の中は混乱のざわめきで一杯になった。
「静粛に! 前回の無理な侵攻戦で、彼の国の逆鱗に触れた様であるな」
ニールがちくりと刺す様に言えば、諸侯ら数人がぐ、と言葉を詰まらせていた。確か強硬に侵攻を訴えていた者たちだ、少しは痛む心があるのだろうか。
ニールは書状を掲げたまま、淀みなく言葉を続ける。議会の主導権を握る彼の言葉を、皆縋るような視線で待っていた。
「バルクに対し、我らが取る行動は三つだ。
一つ、バルクの属国となる事を受け入れる事。二つ、徴税と徴兵を行い軍備を至急に整え抗戦する事。三つ、ルシアナに救援を求めバルクに対する事。それ以外にない!」
馬鹿な、と声が上がる。混乱した諸侯らの顔を見ながら、ニールは内心ほくそ笑んでいた。
勿論、今ニールの手にあるのは偽の書状だ。信頼のおける宿臣に指示して用意させた。イリスが持ち帰った見本があったから、その出来映えは見事だ。誰も偽造とは気付くまい。
何故こんな手の込んだ狂言を演じるのか。それは全て、先ほどの三択を諸侯らに迫る為であった。
全ての選択肢が身を削るものだ。彼らがどの様にして選ぶのか、それでニールは議会の膿を見極めようとしていたのだ。
「各人しっかりと考えて頂きたい。アスランの明日を、如何にすれば良いか。
あまりは待てぬので、三日後に再び議会を開く。それまでに答えを用意されよ」
戸惑いに顔を青くする諸侯らを見遣って、彼は議会の閉会を告げた。皆足取り重く議堂を後にする。その後ろ姿を鋭い目で見つめながら、ニールは一人議堂に立っていた。
彼らの選択が、アスランの未来を変える。それを何人が自覚しているだろうか。だが一縷でも、彼らに国を動かす者としての責任感があれば良い。
賽は投げられた。
勝つか負けるか、彼の勝ちが何で何が負けなのか、それさえもまだニールには分からなかった。