15 彼の葛藤
アーリィから預かった書状には、震えた字ながらもはっきりと記されていた。
『次期首席に、現次席ニールを任命する』
そしてそこにはドルキカの署名と印。つまり書状の内容は誰にも覆せぬものであると、明確に示されているのだ。書状の内容が出回り、城の中は大騒ぎになっていた。
君主が逝去しただけでなく、その遺言が今迄の慣わしを破るものであるのだ。人の口に戸は立てられぬとはよく言ったものだ、とニールは頭を抱えていた。
「まだ議会で正式に承認された訳でもないのだがな」
「ですが、否認などされないのでしょう。ドルキカ様のご遺言ですから」
「分からぬぞ。なにせ首席家以外から首席が出るのが初めてだ」
リヴが淹れた茶を、苛々と呷って腰を上げる。熱さに少々舌が痛いが、構っていられない。
「もう行かれるのですか。奥方様について居られないのですか?」
「そうしてやりたいが、今は無理だ。何かあれば直ぐ知らせろ」
足早にニールは部屋を出る。何か言いたげなリヴの視線には気付いていたが、足は止められない。彼にはしなくてはならない事が多過ぎたのだ。
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「急な呼び出しですな。まあ事が事ですが」
「ニール殿も人が悪うございますよ、ドルキカ様のご容態を隠すなんて」
ニールは緊急に議会を招集していた。ドルキカ逝去の報告と、次期首席の承認は早いうちにしておかねばならなかったのだ。
そして集まった諸侯らも、ある程度の事情は既に知るところだったのだろう。皆驚きもせずに議会の成り行きを見つめていた。
「前首席ドルキカ様のご逝去により、私ニールが首席に任じられた。反対の者はご起立願いたい」
ニールが大きく声を上げる。六十年の議会政治において、首席の任命を揉めた事などなかったが、今回は別だ。ニールはごくりと息を呑んだ、その時だ。
「ドルキカ様の指名でしょう。我々が異を唱える事などありませんよ」
口火を切って賛同を表したのは、諸侯らの中でも発言力のある初老の者だった。
もし反対する者が居たならば彼だろうと予想していたニールは、一瞬意表を突かれたと目を瞬いた。だが後に続いた彼の言葉に、その真意を知る。
「ですが首席は家に継がれるもの、という慣習はなくなるのですな」
「そ、うなるだろうな」
「当然です。ニール殿は確かにドルキカ様の右腕でありましたが、由緒正しいお家柄という訳ではないのですし」
つまり彼はいずれの首席の座を狙っているのだ。自分がではなく自分の血を引く者が、アスランの君主になる時を。
ぞっとした、は言い過ぎだろうか。だが国が揺れに揺れているこの時に、そんな事に頭が回る彼に、ニールは腹がすっと冷えてゆくのを感じた。
「貴殿が生きている間にはない事だ」
孕んだ怒りを隠さずに、ニールは断言する。多少怒りを買っても、彼には釘を刺しておきたかった。
彼はニールの言葉に鼻で笑って口を閉じる。彼の頭の中は、いかにしてニールに取り入るか、そればかりであろう。
嫌悪感露わに彼の者を見る。何故かアーリィの言葉が、頭の中に反響した。
──あいつが言ったんだ。『過去がどうであれ、幸せになる為に動く』だってさ。
ニールは諸侯らの顔を見渡し、大きく息を吐いた。
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ニールは、誰もいなくなった議堂の椅子に腰掛けていた。机に肘を立て、組んだ両の手に額を預けて目を閉じている。
荘厳な静寂の空間で身動きしない彼の姿は、その雅な外見も相まってオブジェの様であった。
彼は思い悩んでいた。彼自身に君主になる野心など僅かも無く、図らずもなった今の状況は頭の痛い事だった。家柄も求心力もないニールは、アスランを上手く立て直す妙案を持ち合わせていないのだ。
長い睫毛を伏せ、彼は考える。
何が最善か。どうすれば、この国が傷付かずに済むのか。一番大切な事は何なのか。
そんな彼の頭の中に残響する、彼の女将の言葉。
──では、議会を納得させるしかないでしょう! このままでは再び8年前と同じ事が起こります。軍部の不満を貴方が知らぬ筈はないでしょう。
ニールは、次席の立場としてならば彼女の助力も考えていた。だがアスランの舵を取る立場となってしまっては、容易に動ける話ではない。
首席家の出でない彼がそれを言い出せば、売国奴だと罵られ、議会が紛糾する事だろう。今アスラン内で新たな火種を生み出す訳にはいかない。それは恐らく、アスラン瓦解への一歩となるだろうから。
ニールは目蓋を持ち上げた。普段は自信と意志に満ちている強い瞳が、今は迷いに揺れている。
もう一度だけゆっくりと瞬きをして、立ち上がりかけた、その時だった。
「ニール殿!」
扉を押し退ける様にして飛び込んで来たのは、彼の愛弟子となったリヴであった。だがリヴには議堂の入室を許していない。彼がニールの言いつけを破る筈などないから、それ程の用件なのだ。
思い当たったニールは、慌てて腰を上げる。椅子が倒れる音が議堂に響き渡った。
「まさか──」
「はい! お生まれになりました!」
リヴは大きな目を輝かせて言う。それを聞いた瞬間、ニールはらしくなく走り出した。慌てて倒れた椅子に足を引っ掛けながら。
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自室の扉を恐る恐る開ける。心臓が逸っているのは、走った所為か緊張からか。とにかく落ち着こうと、ニールはゆっくり息を吐きながら一歩一歩足を進める。
薄い帳の向こうには、小さな光源。それが帳に映し出す影。寝台の上で半身を起こしている妻と、そして──。
妻の名を呼びながら、ニールは帳をゆっくりと掻き分ける。その目は僅かに潤んでいた。
「貴方」
「ご苦労だったな」
産気付いてからもう一日半。その間夫の支えなく子を産んだ妻に掛けるには、陳腐過ぎる労いの言葉だ。だが妻は汗に張り付いた己の髪を指で払って、小さく笑った。
「本当、疲れました。ですがほら、ご覧になって。疲れも吹き飛ぶでしょう」
妻の腕の中でもぞもぞと動く小さな布。指先でそっとめくると、びっくりした様に細い指を開いた。
小さい、新しい、命。
愛おしい、と無性に泣きたくなって、ニールは眉を寄せた。
「貴方」
「ああ。吹き飛ぶ。色々な事が」
堪えてそう言うと、妻は嬉しそうに破顔した。そしてゆっくり、赤子をニールへと差し出してくる。ニールも恐る恐る受け取った。
「小さい、な」
「ええ、とても。でも力強く泣きましたわ。男の子らしく」
「そうか、男の子か」
もぞもぞと動き続ける赤子を、恐々覗き込む。目は閉じているが起きているのだろう、口を忙しなく動かしている。それがとても可愛いらしい。指先で頬をつつけば、小さな手がぱっと開いた。
「本当に、ご苦労だったな」
赤子を腕に抱いたまま、ニールは笑顔を妻に向けた。妻は照れた様に笑って、寝台側に座るニールの肩に額を預ける。
「貴方こそ」
「私は何も」
「聞きましたわ。この二日、大変だったのだと。ドルキカ様が……」
「ああ、そうだな」
思わず沈んだ声が出て、ニールは慌てて表情を改めた。めでたいこの時くらい、そんな空気は避けたかった。
だが妻は言葉を続ける。大切な事を話したい、という様に。
「ドルキカ様が、以前一度訪ねていらっしゃった事がありましたの。もう一週間ほど前になるかしら」
「一週間前だと?」
初耳だ。一週間前といえば、もうドルキカは臥していた。近くとはいえ、ここに来られる容体ではなかった筈だ。
「ええ。私の様子を窺いに」
「まさか、その頃はもう」
「確かにお加減が良くなさそうでしたわ。でも大切な話があるから、と」
「それで、ドルキカ様は何と」
ニールが尋ねると、妻は目を潤ませて声を詰まらせた。そして震えた声で言葉を紡ぐ。
「お腹の子の、名前を、下さいました」
「何だって……?」
愕然と、ニールは口を開いた。加減が悪いのを押してまで尋ねた用件が、家臣の子の名付けだという。
有り難くはあっても、何故かと疑問の方が勝っていた。
「名前を……ドルキカ様が」
「ええ。貴方に伝えなさい、と」
その物言いに首を捻る。まるで伝言の様な言い方だ。
だがそれは、名前を聞いて直ぐに分かった。
「サラン。男の子なら、サランはどうか、と」
腕の中の赤子が、きゃ、と小さく声を上げた。
妻はニールの肩に額を乗せたまま、肩を震わせている。そしてニールも。君主を失って初めて、その頬を濡らしていた。
「サラン」
ニールの声に、赤子がまた声を上げる。
やはりドルキカの言葉は、大切な伝言だった。ニールの目はもう揺れてはいない。
──サラン。大陸の古い言語で、それは『平穏』だ。