13 陛下の親書
数日後、イリスは再び王に呼ばれていた。用件は同盟の事、それ以外ない。彼女は再び緊張に汗を流しながら、謁見の間の扉を開けたのだった。
「貴女の言う、同盟の話ですが」
玉座の前で跪くイリスに投げかけられた言葉は、やはりサミーアのものだった。そして彼の優し過ぎる声色で、イリスは続く言葉を予想する。
「陛下の親書があれば、きっと同盟は成るのでしょうね。アスランの現状が貴女が言う通りならば余計に。ですが……」
そこでサミーアは言葉を切り、じっとイリスを見る。表情では彼の真意は窺えず、緊張感だけが募る。
「何でしょう」
「同盟を結べば、必ず起こるであろう大陸大戦。それに勝つ自信が、貴女にはあるのですか?」
サミーアが一番重要視する部分、いや、この同盟を繋ぐ上で一番大切な部分だ。──必ず、勝てるのか。
根性論でない部分で、イリスはそれを証明しなくてはならない。軍事大国であるルシアナに、必ず勝てるのだ、と。
確かな要素ではない。だが、イリスには一つだけ手があった。
「……内応を取ります」
「ルシアナの内部から? 何か手があるとでも言うのですか」
「ルシアナを出る時に、その者に提案しました。絶対君主の支配から抜け出せ、と」
「それで。それは確かに取れるのですか」
「分かりません。ですが私はその者も救いたい。必ず内応させます」
イリスは真面目に言ったつもりだったが、サミーアは呆れた様に首を振った。また何か言われるだろうか、と身構える。
「精神論を話したいのではないですよ。私は確かか尋ねたのです」
「ですから必ずさせます、と申していますでしょう! 私とて、その者がいなくてはルシアナを倒そうとは思いません」
ぴたりとサミーアの動きが止まる。イリスの言葉に何か引っかかりを感じたのだろう、彼の表情が少し訝しげなものに変わる。
「因みに、その者の名を伺っても宜しいですか?」
「……アミヴァ・ルシアナ。絶対君主ニキア将軍の息子です」
謁見の間に、彼の名前が響く。それは印象的で、状況を変える有効な一手であった。サミーアの驚いた顔を、イリスは初めて見たのだ。
「次期君主が国を裏切ると、そう言うのですか?」
「彼は、父の支配下で喘いでいました。それを救ってやりたいと思ったのです」
「それで。彼の者は何と」
「宣言はしましたが、返事は貰っていません。ですが私の言葉は届いた筈です」
イリスはきっぱりと言い切る。少し風呂敷を広げた気もするが、嘘にはすまい。彼を救う事こそイリスの目的の一つであり、勝ちにつながる一手なのだから。
「成る程。ルシアナに渡って、何やら人脈でも作って来たのですかね」
「まあ……そんな所です」
イリスは目を細めて言葉を濁す。何があったかなど、説明して分かって貰えるものではないのだ。告げる気もなかった。
サミーアは苦笑を浮かべながらイリスを見遣る。その表情は、呆れとも忌々しさともいえそうな何とも言えないものだった。
「全く。人心を掌握出来る様な人柄でもなし、心の機微に敏いでもなし。どうして皆貴女に協力するのでしょうね」
「皆、ですか……」
「貴女は知らないのですか。昨夜セスタ殿とビルディアが私の元に来たのですよ。直談判にね」
「お二人が……」
「ビルディアはともかく、セスタ殿には驚きましたよ。彼は深慮ですから、利のない事には動きませんからね。アミヴァ・ルシアナを内応させられる、と見せ付ける如きです。有効な手でした」
「いえ。そんな意図はありません」
「そうですか。まあ貴女の真意はどうでも良いです。
陛下、これで良いですか?」
サミーアが玉座にいる王を振り返る。今までずっと黙って二人のやり取りを聞いていた王だったが、サミーアの呼び掛けでゆっくりと腰を上げた。
「イリスよ。私は、サミーアの疑問に答えられる気がする。何故皆がそなたに協力するのか。それは偏にお前の生き様だ」
そう言って王はにこりと笑う。以前イリスを娘と言った彼の表情は、その言葉に違わぬ程に穏やかなものだ。泣きたくなるくらい温かな笑顔で、王は言葉を続ける。
「嘘偽りないそなたの行動と信念は、人心を動かすに値する。サミーアの様な黒い人間には真似出来ぬ事だ」
「陛下、あんまりなお言葉ですね」
「ははは、良いではないか」
王は楽しげに呵呵と笑った。そして言葉を続ける。イリスが何よりも欲した、その言葉を。
「私もそなたに心を動かされた一人だ。一年前身を呈してこの国を守ったそなたの願い、聞き届けぬ訳にいくまい」
がくん、と。膝の力が抜ける。跪く事も出来ずにへたり込むイリスを、王は穏やかに見遣っている。その顔を見ていたら、イリスの頬には再び熱いものが伝っていた。
バルクに帰って来てからというもの、泣き過ぎだ。弱い自分は嫌いだが、国に帰り無意識に緩む自分は許してやりたい、そんな矛盾がせめいでいた。
片やサミーアは呆れた様に頭を振りながら、イリスに歩み寄る。
「私は甘いと思いますよ。ですが陛下は甘いのが良い所ですので仕方ありません。まあここでアスランに懐の深さを見せるのも手かも知れませんしね」
「サミーア殿……」
「誤解がない様に言っておきますが、私とて貴女には感謝しています。ですが陛下がお優し過ぎるので、疑うのは私の役目なのですよ」
零す様に言ってサミーアは眉を下げて笑った。仕方がない、と言いながらもきっと彼はそれが良いと思っているのだ。
イリスは姿勢を正して二人に頭を下げる。涙が次から次へと溢れ、言葉にならなかった。胸の内に溢れる感情も、言葉になど出来なかった。
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「もう行くのかい」
「はい。ここからが正念場ですから」
馬に跨り、イリスは胸をぽんと叩いた。胸元にあるのはアルヴァ・バル国王の印入りの親書だ。イリスはそれを手にするなりバルクを出ようとしていた。
赤い西日の中、彼女を見送るのはセスタとビルディアだった。
「そうか。ここから力添え出来ないのが残念だが」
「お前だけに任せるのも心配だが仕方ない。陛下の親書、無駄にするなよ」
「当然だ。ここまで来て失敗などするものか」
「くれぐれも、上手く立ち回る様にね」
二人は馬上のイリスを見上げながら、口々に激励の言葉を発する。そんな彼らをイリスは目を細めて見ていた。
友、というより家族の様だ。
そう感じてしまうのは、やはり、此処が帰るべき場所だからだろう。
「直ぐに戻ります。同盟を結んで」
最後ににっこりと笑って、手綱を引こうとする、その時だ。
「イリス、渡しそびれていた物があるんだ」
セスタが差し出したのは布の包み。イリスにはそれが何であるか、直ぐに分かった。
「本当は戦で対した時に渡そうと思ったんだが……遅くなってしまった」
「良いのですか。私はまだ、バルクに帰ったとは言えませんが」
「これから正念場なんだろう。ならば持っていかなくては。……それに、君は志しを同じくする同志だ。バルクにいなくても」
セスタの言葉は、何よりの激励だった。
イリスは深く頷き、差し出された布包みを開ける。顔を出したのは、懐かしい鉄の双鞭だ。それを腰に差し、顔を前に向ける。
「有り難う御座います。では、行って参ります」
馬の高いいななきと共に、砂埃が舞う。彼らが目を細めて見た先には、もう既に小さくなったイリスの後ろ姿があった。
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「それは、渡さんで良かったのか」
ビルディアが指差したのは、セスタの手の中にある玉虫色のものだった。副将である彼は、セスタが日頃から大切にしていた事を知っていたのだ。そしてその理由にも薄々感付いていた。
セスタは玉虫色のものをぎゅっと握りしめ、小さく笑う。
「きっと、今の彼女にこれは必要ないものだ」
「……そうか」
直情径行のビルディアには、セスタの深遠な心遣いなど分からない。だが彼の言わんとしている事にだけは気付けた。
イリスは成長したのだ。かつての迷い戸惑いなど、今の彼女には感じない。
砂塵に目を細め、赤く染まる砂漠に目を向ける。もう彼女の姿は見えなかった。