10 手を取れ
イリスはアスランの城の廊下を足早に歩いていた。戦場から帰ったばかりだ、右腕の治療もまだだったが、それよりも大切な事があった。
左手で掴むのは、オーギュストの首根っこ。いつもならそんな事をしないが、今彼女はとんでもなく怒っていた。だからイリスは、彼を引きずる様にして自室に向かっていたのだ。
そして自室の扉を開けるなり、力任せにオーギュストを部屋に投げ入れる。彼はくぐもった声をだしながら床に転がった。
「一応上官の貴方に不敬なのは分かっているが、今は気にしていられない。分かるな」
「……分かっているよ。その反応は尤もだと思う」
「これを見ろ」
イリスが彼の前に叩きつけたのは、此度の戦の概要だった。先程帰ったばかりだが、ある程度の被害報告は為されていた。それを纏めたものだ。
「よく見ろ。貴方の指示で、命を失った者たちだ。あのまま私たちも兵を退いていれば、救えた者たちの名だ!」
吠えながら広げて見せるその書類には、ずらりと名が並ぶ。オーギュストは肩を震わせて、それを見ていた。彼自身は冷淡でも腹黒でもない、それが分かっているからこそ、歯痒かった。
「どうして……あんな指示を出した」
「だから、言ったよ。負け続きで鬱積していた。何かしらの戦果がなくては、軍内部で問題が起こってもおかしくなかったんだ」
「それが、現状だ。目を逸らしてはいけないんだ、貴方も、諸侯らも」
イリスがきっぱり告げれば、オーギュストは更に肩を落とした。彼も彼なりに苦肉の策を弄したのだろう。それだけは窺えた。
「全く、貴方も勝てぬ戦に出ねばならぬ事を心苦しく思っていたのではなかったのか」
「それは本心だ……でも」
「でももだってもない。貴方の指示は間違っていた、それは事実だ」
言って、じっとオーギュストを見つめる。彼は目を合わせない。合わせられないだけだろうが。
暫くそのままオーギュストは書類をめくっていたが、意を決した様に顔を上げた。部屋に入って初めて、目が合う。
「君の同盟話を不可能な事だと嘲りながら、俺の方が現実を見ていなかったんだ」
「そうだな。私も夢物語を語っているが、貴方程短慮にではない筈だ」
「……どうすればいい。今のままじゃ軍部はいずれ崩れてしまう。軍部が崩れれば、アスランも終わりだ」
「だから、同盟だろう。躊躇する理由がない」
イリスはきっぱりと言い切った。アスラン軍部も今の状況に鬱積しているのならば、何故そう動けないのか。
「……何が貴方を躊躇わせているんだ」
「本当に、同盟で皆が救われるのか……?」
イリスの顔を真っ直ぐ見つめるオーギュストの顔は、いつになく真剣なものだった。イリスは溜め息を吐きながら、彼の向かいにしゃがみ込む。
「救いを求める者ならば、救われる筈だ。バルクも、アスランも……ルシアナも」
「ルシアナも? まさか」
「ああ……上手くいくかは分からない。だが先ずは同盟だ、それがなくては話が進まない」
イリスはオーギュストの前にしゃがんだまま、手を差し伸べる。その手を見て、彼はぱちぱちと目を瞬かせた。
「協力、してくれないか。貴方が手を貸してくれれば、私も動ける」
「君、怒っていたじゃないか。俺が君を裏切ったから」
「そうだな。また利用するか? しないだろう。貴方にも同盟が利なる事と分かっているんだ」
イリスが言うと、オーギュストは俯いた。
イリスの手を取る事は、彼にとって国を裏切る事にも等しいのだろう。だが彼はそうするしかない。長い目で見れば、同盟こそがアスランの為になるのだから。
「君はきっと、俺を信用しないだろう」
「しないな。当たり前だろう」
「それでも俺に協力しろ、って言うのか」
「ああ。貴方を利用し返してやる。でも忘れるな、私は貴方に不義は為さない」
その言葉に、オーギュストは顔をくしゃくしゃにしかめてイリスの手を握った。ぎゅっと、痛いくらい強く。
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イリスはある扉を叩いて、大きく深呼吸をした。オーギュストから受けたある情報を手に、今一度交渉する為だ。
オーギュストがもたらした情報はとても大きなものだった。それは確かに、イリスの背を押したのだ。
がちゃりと部屋の扉が開く。顔を出したのは、部屋の主ではなく、彼の弟子であった。
「イリス殿! 何か御用でしょうか?」
「ニール殿は居られるか? 大事な話があるのだ」
「今少し席を外しています。あ、でも直ぐに帰ってきますよ。どうぞ中で待ってて下さい」
リヴに促されて部屋へと入る。ニールの執務室は相変わらず潔癖な程に片付いていた。
「久しぶりだな、リヴ。ニール殿とは上手くやっているのか」
「はい! 学ぶ事が多くて充実しています。仕事も多いですが」
「良い事だな。ニール殿もお変わりなさそうか」
リヴが出してくれた茶に口を付け、イリスは微笑む。リヴは日々本当に楽しそうだ。彼をこの地に連れて良かったと、心から思った。
話ついでにニールの事を尋ねてみれば、リヴの口からは思いもよらぬ事が飛び出す。
「はい。相変わらず仕事が多い様で、苛々しておられます。もうすぐお子が生まれるというのに……」
「何と、お子が! それはめでたい事だな」
「はい。奥方様のお腹はもうこんなに大きくて! ニール殿もそわそわして居られます」
「ふふ、あのニール殿が。見てみたいものだ」
噂をすれば影。がちゃりと扉が開き、両手に書類を抱えたニールが部屋へ入って来た。茶を啜るイリスを見て、ぎゅっと眉を寄せる。
「何だイリス。何か用があるのか」
「お忙しい所申し訳ありません。大切な用件が」
「話せ。余り時間は取れぬから手短にな」
「分かりました」
イリスは洋杯を置くと、ニールの座る机の前に立った。
緊張に指が震える。今回の交渉で少しは何かを引き出さねばならないのだ。今までと違う、情報を手に入れたのだから。
「では単刀直入に。ドルキカ様にお会いしたい」
ニールはまたか、と言いたげに溜め息を吐いた。今まで何度も素気無く断られたそれを、イリスはまた口にしたのだ。
「何度目だ。無理だと言っただろう。ドルキカ様はお忙しい……」
「病に臥せって居られる、でしょう」
一瞬ニールの目が鋭くなる。それは言葉よりも雄弁に事実だと語っていた。やはり、間違っていないのだ。
「誰から聞いた。オーギュストか」
「いえ、予想していた事です。以前祝宴でお会いした時、咳き込んで中座なさっていた。その時にサミーア殿が言っていたのです、『噂は本当だった』と」
ニールは苛立たしげに頭を抱えた。長く艶やかな彼の髪がさらりと机に散る。それを見ながら、イリスは言葉を続けた。
「その時は何の事か分かりませんでしたが、今なら分かる。お会い出来ぬ程、議会に出られぬ程、お加減が悪いのでしょう」
ニールは頭を抱えたまま、髪の隙間からイリスを睨んで来る。彼は心労ばかりだな、とイリスはぼんやり思った。
「お前の言う通り、ドルキカ様は病に臥せっていらっしゃる。もうあのお年だ、致し方ない」
「それでも、お会いしたい」
「何故だ。病のお方に会って、何がしたい」
「バルクとアスランの同盟を進言します。
オーギュスト殿に聞きました。病に臥せる前、ドルキカ様はバルクとの同盟を画した事があったのでしょう!」
あいつ、とニールが舌打ちしたのが聞こえる。余計な事を、とニールは言うだろうが、イリスにとってその事実は僥倖だった。一筋の光明だったのだ。
「お前の狙いか。その為にアスランに入ったのだな」
「同盟はアスランにとっても利ある事と考えますが。ドルキカ様もそうお考えだからこそ、画したのでしょう」
「何故実現しなかったか、分かるだろう」
ニールは長い髪を手で払って、椅子に身を預ける。そして煩わしげに腕を組んだ。
今まではにべもなかったが、初めて彼は交渉に応じてくれているのだ。苛立たしげながらもイリスをじっと見ている。
「……議会の、反対ですか」
「いかにドルキカ様といえど、議会で否決されれば動けぬ。諸侯らは自らの立場を守る事には躍起になって動くのでな」
「国の利より、己の利を取っているのですか……」
「言っただろう。議会は形骸化している。あそこにいるのは、国で甘い汁を吸う者だけだ。
例えお前がドルキカ様を説き伏せ、もう一度議会に議題を出しても何も変わらない」
「では、議会を納得させるしかないでしょう! このままでは再び8年前と同じ事が起こります。軍部の不満を貴方が知らぬ筈はないでしょう」
「分かっている。だがどう動くと言うのだ。諸侯らを納得させる為に何が出来る」
ニールは腕を組んだまま、静かに目を閉じて考え込んでいる。
少し話して分かった。ニールは同盟に関して反対はしていない。そうであれば、少しの力添えは期待出来るかも知れない。
イリスは口を開いた。自分の出来る、唯一最大の事をする為に。
「ニール殿、出国の許可を下さい。私がバルクに渡り、アルヴァ・バル国王の親書を持ち帰ります」