9 誠実な男
傷を負ってアスラン陣に帰ったイリスを、オーギュストは気遣わしげに迎え入れた。重症でもないその傷に、薄布を縛り付けている。
「有り難う。だが自分で出来る」
「まさか一騎打ちしてくるなんてな。拳で語り合うなんて青春ごっこじゃないんだから」
「そのお陰で約定が貰えた。……いてっ、もう少し緩めてくれないか」
イリスが顔をしかめて訴えれば、オーギュストは止血だよ、と更にきつく縛った。
「どんな方法を使ったのかと思ったよ。また魔法の様に兵が退いていった」
そう言ってオーギュストはバルクの関所を見遣る。そこにはもう、装甲兵も投石機もなかった。セスタは約束を守ったのだ。
誇らしい気持ちだった。彼の様な誠実な男はなかなかいまい。丸裸になった関所を見て、イリスは微笑んだ。オーギュストもきっと喜びを分かち合ってくれるに違いない、と。
そこへ将校が一人、オーギュストへと歩み寄る。敬礼をしながら口にしたのは、思いもよらぬ言葉だった。
「オーギュスト様、進軍準備が整いまして御座います」
「分かった。直ぐに出撃だ。決して相手に気取られるな」
交わされた言葉に、イリスは信じられない思いでオーギュストを見る。真面目な顔で出撃を指示する彼を。
将校に指示を出し終えた彼は、くるりとイリスを向いた。
「ごめんな、イリス」
「……どういう事だ」
地を這う様な声に、オーギュストはぎゅっと眉を寄せた。どうやら罪悪感は抱いているらしい。
「これ以上、無駄な出陣は出来ないんだ。戦の負け続きで、アスラン軍は今士気が低い。ここでどうしても勝ちが欲しいんだ」
言い終わる前に、イリスはオーギュストに馬乗りになっていた。彼の胸倉を掴み、顔を寄せて吠える。
「それで私を利用したか! 私の本懐を知りながら! 必死に兵を退かせた私はさぞ滑稽だったろうな!」
「イリス、ごめん」
「はっ。謝罪に意味などない。貴方の真意はこれだったのだ」
イリスが手で示したのは、丸裸の関所に向かって進軍するアスラン軍だ。足早に進んでゆくそれは、きっと撤退途中のバルク軍を後方から急襲する事だろう。
「これでアスラン軍が劇的に強くなる訳ではないだろう。貴方がやった事はアスラン軍の為でも何でもない! 直視すべき現状を先延ばしにしただけだ! 諸侯らを調子付かせるだけだ!」
馬乗りのまま、イリスはオーギュストに吠え続ける。怒りが収まらぬといった様に。だが彼女が一番許せぬのは別の事であった。
「私は貴方に、不義は為さぬと誓った。その相手にこの仕打ちか!」
「イリス……」
「うるさい! 謝罪など受け入れぬ! まさか貴方が此れ程短慮とは思わなかった」
イリスは側にあった槍を掴むと、近くにあった馬に跨った。
「イリス、無駄だ。今から行っても間に合わない」
「うるさい! ならば貴方は此処で見ていれば良い! 貴方の短慮が招く結果をな」
イリスは吐き捨てると、手綱を強く引いた。右腕が痛みを訴えるが、関係なかった。
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もうアスラン先陣は、関所の前まで来ていた。静まり返るそこを前にして、アスラン兵たちは久方ぶりの勝戦に足が地に着いていなかった。
本来であれば、関所の上部からの攻撃に警戒せねばならない。だが関所は無人と思い込むアスラン兵らは、それを怠ったのだ。
轟音と共に地が揺れる。
異変に気付いた時にはもう遅かった。慢心の結果が、大量の石がアスラン兵に降り注ぐ。
何故、バルクの兵は退いたのではなかったのか。投石を身に受けて、それでも棒立ちになるアスランの兵の頭に過るのは、その疑問のみ。急な空からの攻撃にはなす術などなく、アスラン軍はただただ動揺に騒ぐだけだった。
やがて地に倒れ空を仰ぐ兵が目に写したもの、それは無人と思われた関所の曲輪に立つ先程まではなかった投石機。そしてその隣には大声で指示を飛ばすセスタだった。
ばらばらと瓦礫の音がする。アスランの運んだ兵器が、使われる事なく崩れる音だ。大小の投石を止め処なく受け、アスランの一手は瓦解する。
混乱する兵の悲鳴と怒号だけを伴って。
必死に馬を駆っていたイリスだったが、直ぐに関所の異変に気付いた。静まり返っていた関所が悲鳴と轟音に包まれれば、気付くに決まっている。
イリス自身も何が何だか分からない。セスタは約した事を反故にする男ではないから、アスランが攻撃を受けている事になど思い至らなかった。彼女が危惧したのは、全く逆の事態だ。
「はあっ!」
刺す痛みに耐えながら、イリスは手綱を握る。何とか、事が大きくならぬ内に止めなくては。そうしなくてはアスランとバルクの同盟は成らない。
目の前にある関所がこんなにも遠いのかと思った時だ、イリスは異変を感じて思わず馬を止めた。
何故かバルクの関所には投石機が立ち並び、アスランの兵の接近をことごとく防いでいる。誰も、そう誰一人として関所に近付ける者はいなかった。
アスランの、オーギュストの目論見は見抜かれていたのだ。バルクの方が一枚上手だった。
でも何故。一瞬浮かんだ疑問だが、直ぐにその答えをイリスは知る。
関所の頂上に立ち、大声を上げて何らかの指示を出しているのはセスタだった。兵を退くとイリスと約した筈の彼が、曲輪で容赦なく石を降らす。
何が何だか分からないイリスが唯一思ったのは、彼の機転のお陰で助かったという事だった。
雨粒かの様に降り注いだ石と矢。慢心していたアスラン兵はひとたまりもなかった。関所の前には大量の石つぶてと共に先陣の兵の亡骸が散らばっている。
次陣以降は遥か後方に後退してまごついている。咄嗟に有用な手が浮かばぬのだろう。足を止め、ただ混乱だけを広げていた。
だから今関所に近付くのはイリス以外にいなかった。痛ましい光景に眉を寄せながら、イリスは関所に向かって大きな声で叫んだ。
「セスタ殿!」
曲輪に立つ彼は、ついとイリスに顔を向ける。その表情は遠過ぎてはっきり見えない、だが何故か彼の顔が満足そうに笑った様にイリスには見えた。
眼下のイリスにじっと視線を遣っていた彼は、やがて一言大きな声で言った。
「部下の不手際に備えるのが、上官の役目だ」
イリスはそれで悟る。
何故、彼は投石機を用いた投石などという回りくどい手を使ったのか。そして何故今少し後退した次陣に弓などを射掛けないのか。全てはイリスを尊重しての事だったのだ。
アスランの奇襲を手酷く返す事も出来ただろうに、それをしなかったのは、すれば禍根を残す事になりかねないから。追撃をかけぬのもそう、彼の目的はアスランを撤退させる事のみだったのだから。
彼は全てを見透かし準備した上で、更にイリスの願いをも慮ったのだ。
何時の間にか関所から石は降らなくなっていた。もうアスラン軍に襲撃の意思がないと感じ取ったのか。曲輪のセスタは一度だけイリスを見て、姿を消す。
彼の視線を受け、イリスは口を開いた。誠実で度量ある彼の上官の心遣いに少しでも応えなくては。
「後退だ! 退け!」
動揺し混乱するアスラン兵らは、イリスの指示を天の助けとばかりに聞き、慌ただしく撤退を始めた。折り重なる先陣の骸をその場に残し、彼らは関所を離れる。
きっと真正面から刃を交えていれば、これ程度の犠牲では済まなかっただろう。イリスにとってだけでなくアスランにとっても、この結果は悪くないものであった。
だが策を弄した上での奇襲であった為か、軽くいなされたアスラン軍の空気は酷く重い。彼らは一様に渋い顔で首都へと帰還したのだった。