5 同盟
先の戦勝ムードは、そう長く続かなかった。
一度は大陸を統一支配していたアスランならともかく、共に建国して間なしのバルクに負けを喫したのは、軍事大国ルシアナにとって酷く屈辱的であったのだろう。バルク、アスラン両国に宣戦したものの、ルシアナはバルクにばかり圧力をかけてきていたのだ。
前回の奇襲の様な手はもう通用しまい。ルシアナは気を引き締めて臨んでいるはずなのだ。前回とは比べ物にならない程沈んだ空気で、軍師たちは軍隊配置図を睨みつけていたのだった。
そしてイリスはといえば。
昇任したとはいえまだ軍議に参加する地位ではない彼女の仕事は、軍議で忙しい上官の代わりに書類仕事に励むことだった。恐らく生きてきて今までで一番ペンを握っていただろう、イリスの右手は墨で真黒になっていた。
「ただいま」
執務室の扉を開けて、疲れた顔をしながら入って来たのはセスタだった。ペンを走らせていた手を止め、イリスはセスタに目を向けた。
「お疲れ様です」
「いつもすまない、書類仕事ばかり任せてしまって」
「私の仕事です。軍議は如何でしたか」
「結局のところ自軍だけでどうにかなる訳ではないんだ。アスランに同盟を申し込む事になったよ」
「やはりですか……。アスランが受け入れるでしょうか」
「難しいだろうね。彼の国は勝手に独立したバルクもルシアナも認めてはいないからね。こちらの誠意を見せるためにも、サミーア殿が出向く様だが」
セスタがそう言って新しい書類を机にパサリと投げた時、コンコンコンと几帳面に三回ノックがされた。
「おや、誰だろう」
「私が出ます」
イリスが扉を開けると、立っていたのは先程話にも出たサミーアだった。彼は扉を開けたイリスの顔を見て、薄らと微笑む。
「サミーア殿、如何なさいました。先程の軍議で何か伝え忘れが?」
「貴女もいたのですね。手間が省けました」
「はい……?」
「少し話がありまして。入っても?」
視線でセスタを窺うと彼が頷いたので、扉を大きく開いて招き入れると、サミーアは彼らしい静々とした動作で部屋の中へと入って来た。
「執務中に申し訳ありませんね。セスタ殿とイリスに話がありまして……此度の同盟の事です」
「サミーア殿がアスランに渡られるのでしたね。護衛の任は決まりましたか」
「ええ、セスタ。私は彼女に頼みたいのです」
「はい……。え」
「ですからアスランへの交渉、イリスを連れて行こうと思います」
「……何故彼女を。私ではいけませんか」
「そうですねぇ。確かにセスタ殿ならば肩書きもお有りで相手に誠意を見せるには妥当でしょう。ですが此度の交渉は必ずしも成るものではありません。最悪の場合捕らえられ、処分されるやも」
「ならば余計に、屈強な護衛をお連れにならなくては」
「戦をしに行くのではないのです。こちらが同盟を持ちかけるのに、屈強な兵士など連れては纏まるものも纏まりませんよ」
「だから、私ですか」
「そうです。貴女は女性です。着飾れば将などとは到底見えません。ですが万が一があれば切り抜けられる武を持っている──うってつけでしょう?」
「なる程、そうですね……。どうかなイリス」
「はい。御用命とあらば」
「貴女は機転が利くようですから、何か不測な事態の時は頼みましたよ」
そう言ってサミーアはゆったりと微笑んだ。
武人ではなく政務官の彼は、その柔らかな口調も相まって一見穏やかに見える。にこにこと笑いながら王の側に控える彼だが、両の瞳はいつも鋭く全てを見渡している様だった。一番敵に回したくない人だ。
今も、頼みますと笑っている筈のその目は、イリスの何かを探るように冷たく向けられている。恐らく此度にイリスを指名したのも何か他に理由があるのだろう。今彼が述べた理由も嘘ではないだろうが。
「出来る限り早く出立したいので、早く用意を済ませて下さいね、イリス」
「了解しました」
サミーアが部屋を出て行くと、イリスはふうと大息を吐いた。それを見てセスタは苦笑する。
「大任だね」
「交渉に同行ですか……戦に行くのとは違う様ですが」
「サミーア殿も言っていた通り、一筋縄ではいかないよ。アスランは元々歴史浅い国だが、一度は大陸を統治していた。それは偏に彼の国の外交の上手さ故と聞く。あのサミーア殿が行くのだ。心配はしていないが、あちらにも狸がいるかも知れないからな」
「その言い方だと、サミーア殿は狸なんですね」
「あれ」
「本音を漏らしましたか」
自らの失言を誤魔化すように頬をかくセスタを見遣って、イリスは苦笑した。
イリスの昇進以来、以前にも増してセスタは口調を崩し、その穏やかな人柄を出すようになっていた。そしてそれはイリスも同じだった。
「サミーア殿には内緒にしておいてくれないか」
「言える訳ないでしょう。貴方は狸だ、なんて口にすれば、目で射殺されます」
「君も酷い事言ったよ」
まさかサミーアも軍事司令補佐とその副将がこんな事で笑いあっているとは思わないだろう。あのサミーアに同行する事に若干の不安があったイリスだが、少しだけ気が楽になったのだった。
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イリス達が出立したのは二日後だった。先頭でイリスが馬に乗り、馬車にサミーアが、その周りを四人の兵が固める。
アスランへの道はたった六人でのものだった。サミーア曰く、この少人数が相手に良い印象を与えるらしい。
そんな事をいっても、アスランにとってはバルクもルシアナも勝手に独立した反乱国家であるのだ。サミーアの無事を頼まれているイリスにとっては、心許ない根拠だった。
だから無事にアスランの首都に辿り着き、城に迎え入れられ応接の間に待たされた時には、イリスは安堵の息を吐いた。
対したアスラン議会次席の政務官ニールにサミーアが口を開くまでは。
「アスランの軍備は如何ですか。ルシアナは貴国の軍部が興した国ですから、さぞかし内情に通じておられるのでは?」
開口一番何という事を言っているのだ。まるで挑発している様ではないか、とイリスは黙ってサミーアの隣に控えたまま目を白黒させていた。
「ははは、サミーア殿。この様な書簡を携えておいて惚けるのはやめて頂きたい。我らとてルシアナに手を焼いている事お分かりだろう」
「いえいえ。確かにルシアナの軍事力は強大ですが……彼の国の前身は貴国の軍部。私共とは違って、軍の教育に長けているでしょうからね」
「ふむ。確かに貴国と違って我が国には猶予たるものがある様でな。少しは備えが出来そうではあるのだ」
「それはそれは。結構な事ですね。出来得る限り早く彼の国を落ち着けてもらえると助かりますよ」
「何を仰るか。貴国こそ先だっての戦ではルシアナを追い返したそうではないか。此方にまで気を使わずとも存分に彼の国の相手をなされよ」
何と寒々しい会話だろう。見れば二人とも穏やかに笑っているのに、その実これは腹の探り合いだ。この同盟交渉の場をどちらが主導権を握るのか探っているのだ。
先手を打ったのはニールの方だった。
「本題に入ろうか。貴国の書簡、目を通させて頂いた。早い話が助力の嘆願だな」
「助力などとは。強国のルシアナに共に立ち向かう、言わば同盟です」
「物は言い様だな。貴殿たちの様子が物語っているではないか、供も碌に付けずに。それ程切羽詰まっているのだろう」
「何を仰いますか。貴方も先程仰った通り、我が国は先だっての戦で勝利を収めております。酷い言い掛かりです」
「ほう、自信満々だな。ならば何故我が国と同盟などと」
「おやおや、宜しいのですか。ルシアナは貴国にも宣戦をしていた筈。我が国がルシアナを退ければ、切っ先はいつそちらに向いてもおかしくはない」
「そちらとの戦で疲弊したルシアナなど、敵ではない」
「ご冗談を。ここアスランに向かって布陣する部隊に我らの戦は関係ないのでは?」
サミーアは雄弁だった。今はまだアスランは敵国といって差し支えない、そのアスランを怒らせないギリギリの所を見極めて煽っている。
こちらは何としても同盟が欲しいのだ。隣で聞いているイリスは気が気でないが。
「貴殿は同盟を提案しに来たのではないのか。とてもその態度とは思えないが」
「失礼しました。私はどうしても人と話すのが下手でいけません。国王にも心配されていたのですが……お気を悪くなさらないで下さいね」
嘘をつけ、とイリスは半目になってサミーアを見る。サミーアはアスランに着く前に言っていたのだ、多少怒らせても政務補佐の自分を貶める様に話せば大抵は収まるのだと。本にサミーアの自信の根拠は曖昧だ。
「ふむ。大切な同盟の使者に貴殿の様な者を遣わすとは……バルク国王は浅慮なのだな」
「おやおや、そちらは私共との同盟を大切だとお考え下さるのですね」
言質はとった、とサミーアはニヤリと笑った。
この一言で状況は一変したのだ。ニールが一瞬渋い顔をしたのが分かった。
「有り難いことですね。まさかそちらも私共との同盟を望んで下さっていたとは、話が早い」
「……全く。とんだ食わせ者だった訳だな貴殿は」
ニールは諦めたように目を閉じて、椅子に身を預けた。彼は優位での同盟を目論んでいたのだが今回はサミーアの方が上手だった。
だがニールも大国アスランの政務官。これで黙って引き下がる様な人物ではなかったのだ。
「正直申し上げれば、此方としても貴国の申し出は有り難い訳だが……一つ条件がある」
「何でしょう」
「アスランとしては正式な手順を踏まずに独立した貴国の事も認める訳にはいかないのだ。これは正式な同盟ではない、ルシアナを退ける共闘だ」
「まぁ……それでも有り難いと思わねばならぬのでしょうね」
「同盟ではないのだから、バルクに我が国の軍は出せん。ルシアナに我らが手を組んだと思わせれば良いのだから必ずしもバルクで戦わなくても良い筈だ」
「そうですねぇ。まぁ正論ですが、それは我が国にも言える事なんですが」
「忘れられては困る。切羽詰まっているのは貴国の方のはず。すぐにでもルシアナを退けたいのはそちらの方だろう」
「ふう……そうですね。分かりました」
「話が早くて助かる。では我が国とルシアナの国境付近に陣をしこう。貴国にもその旨の使者を出す」
「おや、私共にはここに留まれと仰いますか」
「当然だろう。この様な決め事、口約束だけで済ます訳にはいかない。貴殿たちには残って戦に参加してもらう」
「私はただの政務補佐なんですがね」
「ならばそこの女武者だ。ここに共するくらいなのだから余程腕利きだろう」
「イリスです。我が国で副将をしております」
「イリスよ、宜しく頼む。
ではバルクからの遠征軍が着き次第アスラン連邦軍に組み込む。詳しくは軍議で話し合おう。サミーア殿よ、幾ら何でも軍議には参加してもらうぞ」
「承知致しました」
「では貴殿らの居室を用意しよう。今日はゆっくりなされよ」
そう言うとニールは立ち上がって、向かいに立つサミーアに歩み寄ってきた。
遠くに座っているときには気付かなかったが、次席を務めるにはひどく若い。長い髪を優雅に揺らして笑んでいる様は穏やかだが、この人も目が笑っていなかった。やはりここにも狸はいたようだとイリスは一人納得していた。
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用意された部屋に入って、イリスは寝台に身を投げ出した。精神的に疲れ切っている筈だが、眠気はやってこない。同盟は成ったが、それはルシアナという強国に対する為の仮初めのもので、安心して眠りにつけるほど安泰な状況ではなかったのだ。
イリスは目を閉じた。自国ではない場所で戦う事になる、次の戦を憂いながら。