8 バルクを退けよ2
何もない、だだっ広い平原だった。匂い立つ様な木々や草花もなければ、砂塵の舞う藤黄の砂漠もない。アスランでもバルクでもない景色の中、イリスとセスタは向かい合って立っていた。
「セスタ殿。無理は重々承知です。ですが兵を退いて頂けませんか」
イリスの言葉に、顎に手を当てて考え込んでいたセスタがはたと顔を上げた。
「君の志しは分かった。だが此度の戦の事は別問題だ。戦をしたくなければ、アスラン国内で話をつけるべきだった」
セスタの言は尤もだ。イリスには反論材料などある筈もなかった。
ぎゅっと手にある槍を握る。やはり振るわねばなるまい、と腹が冷えてゆくのを感じた。
「セスタ殿、貴方の仰る通り、私は愚直です。交渉など領分でない」
「だから、何だ。諦めた訳でもないだろう」
「ええ。戦って下さい、私と」
唐突なイリスの言い分に、セスタは呆気にとられた様に表情を崩していた。だが彼女は真剣な顔つきのまま槍を構えて腰を落とすのだ、武器を振るうのだと。
「貴方の部下の本懐の為に、どうか武人の情けを。私が勝ったならば兵を退いて下さいませんか」
わざとセスタの心を突く言い方をする。部下思いの彼は、イリスの言動に僅かにたじろいだ様だった。
「本当に、君は愚直過ぎて考えものだ」
「それが、私ですので」
セスタも腰を屈めて剣を抜いた。それがイリスの頼みを聞き届けた証だった。
「分かっているとは思うが。剣を交えるからには情けなどかけないよ」
そう凛と言って、セスタは地面を蹴った。
両の手で支えた槍に衝撃が走る。セスタの剣戟はとても重いものだった。今までに感じた事のない剣捌きに彼の本気が窺える。
イリスが攻撃に転じる間なく、更に上段に剣が払われる。剣の間合いから離れようと地面を蹴るが、彼がそれを簡単に許す筈もなかった。
「くっ……!」
「防戦一方じゃ兵を退かせるなど無理だよ」
セスタの言う通りだ。今イリスの手にある槍は唯の盾となっている。長い槍では懐にいる彼を突けないのだ。
「鉄鞭のない君はその程度か」
吐き捨てる様な言い方に、イリスは苛立った。決して自分の弱さを武器の所為にしたくなかった。
「まさか」
そう言って、剣を受ける為に横にしていた槍を払ったのだ。
受け流した剣先がイリスの右腕を薙ぎ、地面に血が散る。痛みに眉をひそめながらも、イリスは払った槍をそのまま突き出した。
間合いが近過ぎるのであれば、短い柄の方で突けば良い。それは功を奏した。イリスの槍の柄は、勢い良く剣を薙いでいたセスタの顎を的確に突いたのだ。
彼が怯んだ隙に地面を蹴って間合いを取る。槍には有用で剣には遠過ぎるその間合いで、イリスはもう一度、今度は切先をセスタの腹目掛けて突き出した。
彼は地を蹴って離れる。顎を突いた所為か、彼の口元には血が流れていた。イリスの腕からも、赤い滴が止めどなく地に落つる。
暫し睨み合うだけのしじまの後、二人は同時に地を蹴った。がつん、と甲高い音を立て、切先同士がぶつかる。お互いに強い衝撃なのだ、どちらも顔をしかめていた。
「……だから、行くな、と言ったんだ」
剣を合わせながら、セスタは小さく零した。がりがりと刀身に体重を乗せ、彼はイリスを押さえにかかっている。至近距離に見える彼の顔が、何故か酷く苦しそうだった。
「ですが! 私は、知るべきでした。庇護され甘やかされ、ぬるま湯に浸かっていてはいけなかった!」
イリスも叫びながら、槍で彼を押し返す。力を込めれば込める程、腕からおびただしい量の血が流れた。
長い力比べを破ったのはイリスの方だった。セスタの剣が再びイリスの腕を薙ぐのも構わず、セスタの横腹を脛で蹴り上げたのだ。
どちらもが声にならない息を飲み、二人の身体が離れる。それをイリスは狙っていた。
地を蹴って槍を突き出す。体当たりよろしくセスタの身体を突き飛ばせば、突き出した槍は仰向けに倒れた彼の顔の直ぐ隣の地に刺さった。彼の手から離れた剣を弾いて、イリスはセスタの腹の上で微笑んだ。
「勝負ありました、セスタ殿!」
セスタの身体を跨ぎながら喜色満面で笑うイリスを見て、セスタは諦めた様に目を閉じた。
「そう、だね。君の勝ちだ」
「兵を……退いて下さいますか」
今度は窺う様にセスタを見つめる。誠実な彼だが、どうしても言葉で約定が欲しかった。
「二言はないよ。分かっているだろう」
目を閉じたまま、セスタは大きな息と共にそう吐き出した。
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右腕をだらりと垂らしながら、イリスは馬に跨ってアスランの陣へと帰って行く。
その後ろ姿を、セスタはじっと見続けていた。
「本当に、だから行くなと言ったんだ」
先程も零したそれをもう一度呟いて、彼は馬に括り付けた荷物を開いた。そこにあったのは、一年前彼女から預かった鉄の双鞭。そして──。
「色々、あったんだな」
ぽつりと呟いて、セスタは玉虫色のイヤリングをぎゅっと握った。
イリスの耳に光る紅い石に、セスタは気付いていた。それが少なからず彼女を変えた要因である事も分かっていた。だからだろうか。鉄の双鞭も、玉虫色のそれも、渡せなかった。
「全く。馬鹿らしい」
自嘲して、セスタは玉虫色のそれを乱暴に包みに入れる。自分は武人だ、戦場に立ってまで下らぬ感傷に浸るべきでない。
セスタは馬に跨り、一度アスランの陣を見た。自国よりも明らかに脆弱なその陣を強く睨み、そして関所に向かって馬を走らせたのだった。