7 バルクを退けよ1
此度の戦は、完全なる負戦。そのイリスの予想は歴然たる事実として、今目の前にあった。
攻め入るアスランの軍勢を足留めする様な、バルクの関所の布陣。関所の上には弓兵と多数の投石機の姿が見える。堅牢な門の前には、近付く事すら許さぬと、重々しい装甲兵がずらりと並んでいた。
この戦力の差を、持って帰って諸侯達に見せてやりたいとイリスは思った。つまらぬ見栄や意地の為に、凄まじい戦力差に相対す兵の姿を突き付けてやりたい気分だった。
だが隣に立つオーギュストが、小さな包みをそっと差し出してきた事で、彼女は僅かに冷静になる。自分の仕事は今回は戦う事ではないのだから。
「用意してくれたのだな。有り難う」
「いくら俺の署名入りでも、大した効果はないよ。上手く立ち回らないと」
「ああ。分かっている」
イリスはその包みを大切に、胸元に入れた。そして槍をぎゅっと握って馬に跨る。気遣わしげな視線が投げかけられて、イリスは笑った。
「骨は拾ってくれるだろう?」
「よしてくれ、縁起でもない」
「はは、冗談だ。では行って参る」
手綱を強く引き、馬の腹を蹴る。あっという間にオーギュストの姿は遥か後方へと消えていった。
敵陣に突っ込むには奇襲の如く瞬時に。以前の戦で学んだそれを、今回もイリスは遵守していた。此度は誰かを守る訳でもないのだ、もっと早く、早くとイリスは馬を駆り続けた。馬の鼻が異様な鳴き声を発し、口元から涎がだらりと垂れる。それでもまだ、腹を蹴り続けた。
だが直ぐに、イリスは馬の手綱を強く引いてその動きを止める。彼女が足を止めたのは、決してバルクの陣に着いたからではなかった。彼女のいる場所は、周りに何もないだだっ広い平原だったのだ。
「久し振りだね。イリス」
馬に跨り笑う彼を見て、イリスは懐かしさに胸が掴まれる心地がした。甘い彼の──イリスの上官の笑顔は、一年前と何も変わっていなかった。
「セスタ殿、お久し振りでございます」
「やっと帰って来たんだね。全く、報告を聞いて驚いたよ。アスランから君に似た兵が単独で突っ込んで来る、なんて」
「ご迷惑ばかりおかけして」
「いいよ、何があったかは後で聞く。さあ来るんだ」
笑顔を浮かべてはいるものの、彼の言葉は有無を言わせぬ程尖ったもので。イリスは思わず、頭を下げた。長く離れていても、やはりイリスにとって彼は上官だった。
「申し訳ありません、セスタ殿。行けません」
「何を馬鹿な事を」
「私は此度、アスランの者として書状を持って参りましたので」
イリスは馬から降り、胸元から包みを取り出してセスタに差し出す。だが彼は受け取ろうとしなかった。眉を寄せ、イリスの書状を睨み付けている。
「セスタ殿。正式なものです。アスラン軍事司令の署名も……」
「君の今の立ち位置は。まさかアスランに忠誠を誓った訳ではないんだろう」
「ですが、今直ぐにバルクに帰る訳にもいかぬのです。私にはまだせねばならぬ事が山ほど……」
「ならば、君はアスランの兵だと。その認識で良いのだね」
イリスの言葉を遮って、セスタは静かに言う。表情も声色も、彼の人柄通り穏やかなまま──だが微かに窺えるのは、静かな憤怒。
だがイリスとて、生半可な覚悟でバルクと対してはいないのだ。上官に敵と認識されても、しなくてはならない事があった。だからイリスは小さく頷く。心を許した上官に、敵兵と見なせ、と。
「今の私は、アスランの者です」
「分かった」
セスタは小さく言うと、イリスの手から書状を受け取った。そしてゆっくり開いて目を通すと、ついとイリスに目を向けた。
「ふざけた事と思わないかい。攻めて来たそちらが、何故此方に兵を退けと言える」
「アスランも攻めたくて攻めたのではないのです。一枚岩ではないと申しましょうか……」
「ふむ。戦の格好だけはしておきたい、と。そういう事だろう」
優秀な軍人であるセスタは、イリスが何を言わないでもある程度を把握した様だった。冷静な視線をイリスに寄越して、呆れた様に笑う。
だがその表情は見せかけだ、とイリスには分かった。ぐらぐらと煮え滾る程の怒りが目の奥に感じられる。セスタは震えた指先で書状を二つに破ると、それを弾いた。風が破れた書状を連れて行く。
「セスタ殿」
「交渉にもならないよ。私たちに何の利がある?」
「ですが、戦う訳にはいかぬのです!」
「ならば攻めて来ない事だ。侵攻したのは君たちだろう」
理路整然と、セスタは縋る事すら許してくれない。当然だ、今の二人は敵同士なのだから。
だがイリスも未だ諦めない。
「セスタ殿! 貴方はいかがお考えですか、今の大陸の状況を」
「政治談議かな。君はそういった事に興味がないと思っていたけれど」
「私は、アスランとバルクの同盟を結びたいと考えているのです!」
ぴたりと、セスタの動きが止まった。少しは話が出来るかと、イリスは更に言い縋る。
「ルシアナに渡り、やはり彼の国は倒すべきと知りました。ですがルシアナに対抗出来る国などない」
「だから……同盟を」
「そうです! 前回の様な仮初ではなく、心から手を結べば彼の国に負けぬ強固な軍になりましょう」
「だから、今は戦いたくないと。そういう事なんだろう」
セスタは合点がいったという様に、小さく頷いた。目の奥の燻りは、若干鳴りを潜めている。
「協力しては下さいませんか! 同盟を結ぶ事は、両国にとって不利はない筈です。意地さえなければ」
「成る程、アスランの上層部は意地の為に同盟に消極的だという事だね」
イリスが何かを言えば、セスタはそれ以上の事実を言葉から掬い上げる。少し面食らってセスタの顔を見れば、彼の方こそ驚いてイリスを見ていた。
「君は愚直過ぎるよ。交渉には向いていない」
「ですが、私がやらねば」
「何があった。ただ直向きに武だけを追っていた君が、其れ程考えを変える何かがあったんだろう」
「そうですね。色々、ありました」
イリスは微笑む。その表情で、声で、何も言わなくても彼に伝わるであろう事がイリスには分かっていた。そしてやはりセスタも、僅かながら彼女の心持ちの変化を感じ取ったのだ。
「……そうか」
「ですから、貴方には退いて頂かなくてはならぬのです。何としても」
イリスはじっと、強い瞳でセスタを見遣る。槍を持つ手が、妙に冷えて震えるのを感じていた。それを見留めてセスタが眉を寄せる。
先程からイリスは一つの主張しかしていない筈だが、セスタの表情が変わったのは、彼女の本懐を知った故だろうか。何かに迷う様に、セスタは顎に手を当てて考え続けていた。