6 野心と現実
「バルクに攻める事が決まった」
ニールは確かにそう言った。
イリスの本懐など知らぬ彼は、ただ古巣と戦う事を哀れんでいるのだろう。イリスはバルクと剣を合わせる事は必要であれば、と覚悟していた。だが今回は違う。同盟という目的の為に未だ何も行動を起こしていないのに、何故後退せねばならないのか。
そんな事は別にしてもだ、アスランにはバルクを攻めるにあたって問題が山積ではないか。
「何故攻めるのですか。アスランにとっての利点が見当たらぬのですが」
「私とて止めた。だが議会の決定だ、従わねばならぬ」
「お言葉ですが。アスランは、バルクを攻めて勝ちを得られる程の軍事力を有していません」
「分かっている!」
ニールは渋面を一層険しくして、イリスを見ている。優秀なニールがそれを理解していない筈がないのだ。
「であれば何故。議会次席ともなれば、発言力はお有りでしょう」
「議会は議会だ。数が物言う。私の正論など、諸侯の野心の前には無力だ」
「野心、ですか」
イリスが首を傾げるのを見遣って、ニールは大きく溜め息を吐いた。彼自身も頭を抱えたい程の難件なのだろう。息と共に掠れた声で小さく零す。
「アスランは8年前までは、ほぼ大陸を統一していた。その頃の栄光に縋る諸侯たちには、今の現状は耐えられぬものらしい。早く今一度大陸を統治せねば、そう焦っているのだ」
「それで、無理な戦を」
「三竦みに終止符が打たれてから、アスランは負け続きだ。唯一の勝ち戦は、バルクとの共闘の元。そんな現状が諸侯には許せんらしい。早く大陸統一しろと議会で急かす、軍事力、戦況など何もお構いなしだ。全く、軍部の事も考えてもらいたい」
今彼は、愚痴と共に自国の恥部も晒している。真面目なニールには相応しくない言動に、イリスは其れ程参っているのだろうと思った。
「ドルキカ様は何と仰っているのですか」
イリスが尋ねると、ニールははっとした様にイリスを見た。何故かは分かっている。ドルキカは議会にも出ていないと先程諸侯の一人が言っていた。政の中枢の議会にも出られぬ程忙しい用、それにイリスは薄々感付いていた。
だがニールは何事もないように、
「ドルキカ様は別件で今国を出られている。私が一任されているから心配はない」
と言って、その場を離れて行ったのだ。大切な話を途中で切り上げられて、イリスは僅かに眉を寄せた。足早に去って行くニールの後ろ姿を見ながら、彼も苦労しているな、と考えていたら。
「オーギュストに私の執務室に来るように言え」
くるり、と一度だけ振り返ってニールはまた大股で歩いて行く。
忙しなく動く彼を見遣りながら、イリスはこのまま動かないでいれば戦がなくなりはしないか、などと馬鹿な事を考えてしまっていた。愚かな事を、と頭を振ってオーギュストの居室に向かって歩き出す。その足取りはどうしても重くなってしまうのだった。
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「オーギュスト殿!」
「うわぁ! 何だよびっくりしたぁ」
ノックもしないで扉を蹴り開けた所為か、居室で書類仕事をしていたオーギュストは、誇張ではなく飛び上がっていた。少し無礼であっただろうが、大事の前の小事という事にしておいてもらいたい。
「オーギュスト殿、何とかならないか。戦を止められないか」
「は? え、戦?」
ぽかん、とするオーギュストに、イリスは順番を間違えたと天を仰いだ。掻い摘んで説明すると、オーギュストの顔がどんどんと曇ってゆく。
「バルクに戦を挑んでも返り討ちにあうだけだ。今やバルクとアスランの軍事力は、雲泥程に差があるのだぞ」
「議会で決まったなら、無理だよ。俺の力じゃあ」
「何故わざわざ負戦を挑むのだ」
「そもそも、議会は負戦だなんて思っていないんだ」
吐き出す様に言って、オーギュストは目を伏せた。それを見てイリスは苛々と頭を掻く。短い紅い髪がパサパサと頬を触って、やけに苛ついた。
「イリス、苛つくのは分かるけど。アスラン議会の意見も一理あるんだ。
ルシアナやバルクの独立は、言わばアスランの不手際だった。自国の不手際は自国で落とし前をつけるべきだ、それは間違っちゃいない」
「だとしても。今は!」
「いつでも大丈夫、議会は今でもそう思っているよ。だって三竦みが終わって、アスランが一番軍事力が弱かったなんて誰も想像していなかった」
「私は、アスランとバルクには出来るだけ禍根を残して欲しくない。いずれ二国には手を取り合って貰わなくては」
イリスがそう言うと、オーギュストは暫し黙って考えていた。イリスも黙ったままだ。そんな沈黙を破ったのは、オーギュストの小さな呟きだった。
「案は、あるかも知れない」
「何だと」
オーギュストの言葉にイリスが詰め寄ると、彼は腰掛けていた椅子を限界まで下げてイリスを押し返してきた。だがイリスも構っていない、早く言えとばかりに掴みかかる。
「俺だって、これ以上軍部に被害をもたらしたくない。なら戦をしなければ良いんだ」
「どういう事だ?」
険しい顔でオーギュストの服を掴むイリスを見て、彼は落ち着けと穏やかに笑う。雰囲気にはそぐわないが、オーギュストの笑みは僅かにイリスを落ち着かせた。
「布陣した後、少し刃を交えた後でも良い。イリス、君がバルクに赴いてバルク軍を撤退させてくれ」
「私が使者となって、バルクに兵を退かせろと?」
「そうすれば一応の接触はあったんだ、議会も納得する。どちらの兵にも被害は出ないし、君が言う禍根も余り残らない」
「私が、使者となって、兵を退かせる……」
口の中で、もう一度呟く。言葉にすれば簡単な事だが、よくよく考えれば途方もなく無理難題に思えた。
「攻める側の此方が、バルクに兵を退けと言うのか……?」
何を戯言を、と一蹴されるが落ちだ。決してオーギュストも本気ではないのだろう。それくらい難しい事なのだ、との例え話のつもりだったに違いない。だのにイリスは、
「分かった。私に行かせて欲しい」
と頷いたのだ。
「自分で言っておいて何だけど、本気? 無茶だよ」
「無茶は分かっている。でも今、バルクとアスランに戦をさせる訳にはいかない」
「あのさ、古巣だからって甘く見ていない? 昨日の友は今日の仇、戦場では当たり前だ」
オーギュストが、眉を寄せながらイリスを睨み付ける。彼のそういった表情はとても珍しい。本気で怒っている、いや心配させている様だ。
「分かっている。よしみに甘えるつもりはない。差し出せるものは差し出して来る」
「どうしてそこまで出来るんだ。何が君をそこまで変えたのか、俺にはさっぱり分からないよ」
大きな溜め息を吐きながら、オーギュストは天を仰いだ。それをじっとイリスは見つめる。じっと、じっと見つめていれば、自分の中の志しが伝わるのではないかと、期待して。
「俺にも協力しろ、って意味だろ」
イリスの視線を、オーギュストはそう受け取ったらしい。話が早い、とイリスは頷いた。
「私は貴方の副将だ。貴方が書状を準備して命令さえしてくれれば、私はバルク陣まで赴くよ」
「全く。厄介なのを副将にしたなぁ」
「そう言うな。貴方たちに不義はしていないだろう」
イリスが笑えば、オーギュストも呆れた様に笑った。イリスの言に虚偽はないのだ。だから尚更、厄介だった。
「分かったよ」
オーギュストが頷いたのを見て、イリスもまた満足気に小さく首を振ったのだった。
「あ、ニール殿がお呼びだ。伝え忘れていた」
「え! 何で先に言わないんだよ! あの人時間にうるさいんだからな!」
ばたん、と扉を蹴破る様にして、オーギュストは部屋を飛び出して行った。
開きっぱなしの扉を見遣りながら、イリスは拳を握りしめ、来る戦を思っていた。自分がまた戦況を動かす要となるであろう、戦を。