5 国を亡くしても
アーリィと会った事で、イリスはやはりドルキカと会わねばという思いを膨らませていた。だがそれは叶わない。頑な過ぎるという程に、ニールはイリスの申し出を却下し続けていた。
急ぎはしない、今はまだ信頼を得る事を第一にと思っているイリスだが、何も動かぬ今の状況には、些か苛立っていた。そんな折だ。
「おや。そこにいるのはいつぞやの女兵士?」
廊下を歩くイリスの姿に気付いて声を上げたのは、アーリィだった。彼は今日も派手なアクセサリーを身に付け、気怠そうに頭を掻いている。隣には、先日とは違う女性が、彼の腕に枝垂れかかっていた。
「アーリィ様、ご機嫌麗しゅう」
「ああ、良い良いそんなに堅くならねえで」
「は。有り難う御座います」
頭を下げるイリスを見遣って、アーリィは真面目だな、と笑っている。そしておもむろにイリスの紅い髪に手を伸ばした。
「珍しい髪だな。こんなに短くしちまって勿体無い。伸ばせば良いのに、美人が引き立つぜ」
「い、いえ。私は武人ですので」
強張る頰を必死で持ち上げながら、イリスは無理矢理笑ってみせた。オーギュストの様な接し方なら良いが、こんな風に酷く馴れ馴れしいのは好かない。どうやらアーリィは、いたく女慣れしているらしかった。
「そんな事言いながら、こんな物を付けているじゃねえか」
彼が伸ばした指先で弾いたのは、イリスの耳に光る紅いイヤリングだった。
「武人だと言いながら。どうせ男だろ」
「いえ!」
イリスは慌てて身を捩らせて、その手から離れた。
これはユシリアに貰ったイヤリングだ。貰った時は暗くて色も形も分からなかったが、光の元で見ると、イリスの紅い髪と良く似た色だった。華美ではない形もイリス好みだ。だから付けている。決して、ユシリア恋しの想いで付けている訳ではないのだ。そんな気持ちは全て、ルシアナに置いてきたのだから。
それが自分に言い聞かせているだけだと、実は自分で分かってもいた。だがアーリィに触れられて、突かれた事で、イリスは自分の弱さを指摘されている気分になってしまった。
「わ、私鍛錬場に行かなくては」
この場を辞しようと、イリスが頭を下げかけた時だ。
「お前、紅鼠の王女なんだってな」
アーリィの声色が急に変わり、イリスの頭に投げかけられたのは唐突な言葉。一瞬イリスが固まったのは当然の事だろう。はっとして見上げたアーリィの表情は、とても真剣なものだった。
「紅鼠の国は滅んだらしいな。お前今幸せか?」
「な、何故でしょう」
「国を亡くしたってのに、お前は笑い、そうして贈り物をする男もいるんだろ。国がなくても、幸せなのか?」
堅い表情で、アーリィは小さく口にした。先日見た気怠げな様子は今は少しもない。
「……申し訳ありません、私には答えかねます」
「どうしてだ」
「私は、国があった頃の幸せを知りませんので」
イリスの言葉に、一瞬アーリィは怪訝そうに眉を寄せた。だがイリスの記憶の話も聞き及んでいたのだろう、直ぐに表情を改める。
「そう、か」
「ですが……」
イリスは真っ直ぐアーリィを見る。彼がイリスの答えに何を求めているかは分からない。だが、自分の決意が少しでも伝われば良いと、そう思った。
「過去はどうあれ、幸せになる為に動かなくては。私はこれから、幸せになるのです」
──元凶を倒し、仇敵らを赦せた時こそ、自分の幸せなのだから。
イリスが笑うと、アーリィは虚を突かれたのか、暫く呆然としていた。不審に思ったのか、彼の隣の女性が腕を引っ張った事で、彼の時間は戻ったらしい。気怠げな表情をして、イリスの言葉を笑い飛ばしたのだ。
だがアーリィを余り知らぬイリスにも、彼の表情が見せかけである事は分かった。
「真面目くさって。くせえ奴」
「ですが、貴方は私に何か求めていらっしゃったのでしょう。参考になりましたか」
アーリィは忌々しい、と口の中だけで呟いて踵を返した。その反応が、イリスの言った通りだと如実に語っている事を彼は分かっているのだろうか。
放蕩息子の様に見えるアーリィだが、彼も何か、考えながら生きているのだ。でなければイリスに『国を亡くしても幸せか』などと尋ねる筈がない。
気怠げに頭を掻きながら、女性と連れ立って行く彼の後ろ姿を見遣る。彼のおびただしい程のアクセサリーが、やけに光って見えた。
そんなアーリィを見送って、イリスも再び足を動かし始めた。特段行く場所があった訳ではないが、恐らく鍛錬場に行く事になるのだろう、と歩いていた。
見張りがいないとは良いものだ。何処に行っても見咎めらないのだから。イリスの足取りは軽かった、だからだろう、足を踏み入れた事のない城の外れの位置まで来ていたのだ。そこにあったのは、白亜の巨大な建物だった。
「おや……」
思わず声が漏れる。その白亜の建物は、城とは雰囲気が違い荘厳で静穏な佇まいだ。イリスが興味を持つのも無理なかった。中に入ってみようと足を踏み出しかけて、イリスはぴたりと動きを止める。その建物から、人が数人出てきたのだ。
「全く……またアーリィ様はおられませんでしたな」
「ドルキカ様も甘い。遅くにやっとできたお子だ、可愛くて仕方がないのでしょうが」
「そのドルキカ様も最近お忙しいとかで姿をお見せになっていない。首席家が嘆かわしい事です」
イリスは物陰に隠れながら、出てきた者たちの様子を窺う。壮年、いや老年と言って差し支えない人たちばかりが、建物からぞろぞろ出て来た。聞こえてくる話の内容から察するに此処は。
「アスラン議会……」
アスラン連邦の政治の中枢、議会が行われている場所なのではないか。
今一度、厳かにそびえる白亜の建物を見上げる、と。
「何をしている。こんな所で」
後ろから投げかけられたのは、冷たい声。厄介な人物に見つかった、とイリスは内心舌打ちした。別にやましい事などしていたつもりもないが。
「ニール殿」
「何故こんな場所にいる。お前の生活範囲では訪れる筈もない場所だが?」
「気分が乗ったので、歩き回っていました」
寸分の嘘偽りもないイリスの返答だったが、ニールはふざけた事を、と吐き捨てて、睨み付けている。ニールの信を得た等と思っていない。だが彼の冷たい視線は純粋に苦手だと思った。
「此処は、議堂ですか」
「だったら何だ」
「議会が、開かれていたという事でしょう」
身分の高そうな老年の人物が大勢出てきた。つまり何がしかの話し合いが行われていたという事だ。
イリスの断定した物言いに、ニールは顔をしかめた。顔に書いてある、厄介な奴に見つかってしまった、と。
「何か……決まったのですか」
イリスの杞憂ならば良い。彼の表情で急速に膨れ上がった不安が、間違いであれば良いと。イリスは願ったが、ニールはその表情を更に渋くした。
「良くない事ですか……」
「ああ。私にとっても、お前にとっても」
ごくり、と唾を飲む。想像出来た気はしたが、それの前にニールはきっぱりとイリスに告げる。
「バルクに攻める事が決まった」