4 息子
アスランは自然豊かな国、これは前訪れた時にも強く思った事だ。だがこれのお陰でアスランは強国でいられるのだと、イリスは内部に入って初めて分かった。
軍部が弱くても、議会が形骸化していても、民は豊かだった。
「んー……っ」
花に囲まれた庭園の地に腰をおろして、イリスはくぐもった声を上げた。訓練で固まった身体を伸ばして、大きく息を吐く。深呼吸をすれば、甘い樹々の香りが鼻をくすぐった。
花が繁る庭園は、今やイリスのお気に入りの場所となっていた。以前アスランを訪れた時にオーギュストに間者かと詰問された、あの場所だ。あの時は夜でその豊かさを見る事は叶わなかったが、こうして日の元で見れば大変アスランらしく美しかった。
彼女は訓練が終わる度に足繁く庭園に通い、穏やかな一時を過ごしていた。その一因として、監視が解かれたというのもあったかも知れないが。
「んー……」
今一度深呼吸して、イリスが腰を上げた、その時だった。
「お疲れ」
額に光る汗を首に掛けた布で拭いながら、声をかけて来たのはオーギュストだった。
「貴方もお疲れ」
「やっぱりイリスは強いな。体術だったら俺敵わないんじゃない」
「まさか。若くして軍事司令の貴方だ、肩書きは伊達じゃないだろう」
「いやいやそんなそんな」
「そこで照れるのか」
へらへらと笑っておどけているオーギュストを見遣って、イリスは小さく笑った。彼は第一印象もそうだったが、人当たりが良い。イリスの周りには彼の様な質はいなかったから、彼と接する事はとても新鮮で楽しい事だった。
だが急にオーギュストは真剣な表情になり、声を潜めた。
「前に、アスランとバルクの同盟、って言っていたけどさ」
「言った。忘れてくれて良いのだが」
「忘れられないよ。それなんだけど」
一旦言葉を切って、オーギュストは周りを窺った。広い庭園には、二人以外の姿はない。だが彼は更に警戒する様に声量を落として言う。
「どうやって。何か案があるの?」
「ない」
きっぱりと言い切るイリスに、オーギュストはぱたぱたと目をしばたたかせた。
「そんな、はっきり……」
「だが今の所ない。ドルキカ様に会わせても貰えないのだ」
「それは……そうだろうな」
「だから今の所案はない。とりあえず今は信頼を得ることに努めるよ」
そう言って笑うイリスに、オーギュストは困った様に頰を掻いた。
「本当にルシアナを倒せると、思っているんだ?」
「ああ。絶対君主さえ倒せばあの国は瓦解する、筈だ。何故、と問われればわからない。だがそう思う」
「そう、か」
オーギュストは笑う。甘い事を言っている、と嘲る様なものではない。ただ少しだけ、寂しそうに笑ったのだ。
「ニール殿の様な人が同盟を企めば、それはきっと難しい事ではないのだろう。だが私は決して頭が回る者ではない」
「だから、今は動かないのか?」
「私が示せるのは誠意だけだ。人を思いの儘に動かす術など知らないから。だから今はまだ」
「本気、なのか。途方もない話なのに」
「本気だよ。救うと約束したからな」
──一方的な約束であったが、イリスは彼に誓ったのだ。父の支配下で喘ぐ彼に。必ず救うのだ、と。
イリスの顔を見て、そうか、と小さく言うオーギュストだったが。彼の表情はやはり、少しだけ寂しげなものだった。
「どうしたんだ、オーギュスト。何だか暗い雰囲気だなあ」
至近距離の背後で聞き知らぬ声が聞こえ、イリスは咄嗟に身を翻してしまった。声の主は彼女の行動に酷く驚いたらしい。
「うわぁっ! 何だよ?」
「すみません、アーリィ様!」
「……アーリィ様……?」
オーギュストの言葉に、イリスは冷静になった。彼が敬称で呼ぶ程の人物ならば、失礼があってはいけないだろう。
「申し訳ありません。酷く驚いたもので」
頭を深く下げながら、目の前の男を窺う。年の頃は三十足らずか。背の高い男だが、軍人のものとは違いとても派手な格好だ。煌びやかなアクセサリーをじゃらじゃらと身につけている。政務官とも雰囲気か違う、どちらかと言えば。
「王族の方……?」
イリスがぽつりと呟いたのを聞いて、気怠そうにしていた目の前の男は大きく声を上げて笑った。
「王族、だって? この国に王族なんていないだろう」
「イリス。この方はドルキカ様の唯一の御子息、アーリィ様だよ」
そうだ。この国は王政ではないから、王族はいない。だが首席は世襲だと聞いたから、実質王族には違いないだろう。この目の前の彼も、実質は次期アスラン君主なのだ。
「失礼しました。アーリィ様」
「へえ? 女兵士か。珍しいなあ」
アーリィは物珍しげに、イリスの頭の頂から爪先まで舐め回す様に見て、にやりと笑った。
「いいなぁ。うちの軍部も華やかになるんじゃねえ?」
「そう、ですね」
何故か、オーギュストの顔が強張っている。愛想笑いであるのがありありと窺えるのだが、そんな事をアーリィは気にしていなかった。
「そうだな、こんな美人さんが居るなら、軍部視察くらいやってやっても良いかもなあ」
「あはは、アーリィ様ったら」
やはりオーギュストは愛想笑いを崩さない。
先程までは王族──彼らは違うと言うが、それと会えた事で、少しは何かが動くかと期待したのだが。オーギュストの反応を見るに、簡単に事は動かぬのかも知れない。そんなイリスの懸念は、直ぐに現実のものとなった。
「アーリィ様ぁ!」
聞こえてきたのは、弾んだ様な女性の声。それが聞こえた瞬間、気怠げなアーリィの顔が更に緩むのが分かった。
「ああ。待たせたか? 悪いな」
「とんでもございませんわ。アーリィ様とのお出掛け、楽しみでお迎えにあがっただけですの」
「そうか、仕方ない奴だ」
うふふ、あはは、と花でも飛びそうな雰囲気で、アーリィは女性と連れ立って行ってしまった。後に残された二人、特にイリスは唖然とするばかりだった。
アーリィの姿が見えなくなって、オーギュストがちらりとイリスを窺う。
「びっくりした?」
「びっくりした。まさかドルキカ様の御子息とは」
「うん。だよな」
そう言えばアーリィは君主の息子、次期君主であるのに、同盟の時に一度も姿を見た事がなかった。本来ならば祝宴の席くらいには居るべきではないのか。その答えの片鱗を今、見た気がした。
「彼は、優秀なのか?」
答えは分かっているが、わざとそう尋ねる。オーギュストが困った様に眉を寄せるのを見て、イリスは僅かな期待を打ち砕かれたと溜め息を吐くのだった。