3 歴史授業
「最近、調子はどうだ」
「はい! ニール様はとてもお優しい方ですよ。色々と教えて下さっています」
「それは良かった」
今イリスとリヴは、イリスの部屋にいた。つい最近亡命、帰順した将にしては、豪奢な部屋であったが、それには理由があった。
「貴方はニール殿の部屋に間借りしているのだろう?」
「はい。ニール殿の奥方様も良いお方です! お綺麗な方ですよ」
「そうか、良かったな」
「イリス殿はオーギュスト殿の隣の部屋なのですね」
「監視目的だ。貴方もニール殿に見張られているだろう」
イリスが苦笑しながらそう言うと、リヴの方も同じ様に笑っていた。
まだ二人は信用されてはいないのだ。どこに行くにも誰かは付いてくるし、二人で話せる場所と言えばイリスの部屋くらいなものだった。現に今も。
「勉強するの? 二人共偉いんだな」
二人から少し離れた椅子に腰掛け、ブーツを履いた足を机の上に乗せているのはオーギュストだ。興味無さげにぺらぺらと資料をめくっている。
「付き合ってもらってすまないな。貴方が一緒でないと資料は見せられないとニール殿が言うから」
「別にいいよ。どうせする事なんてないし」
そう言ってオーギュストは、本を開いたまま目隠しの様にして顔に置いた。眠る気なのだろうか。
イリスは彼をを一瞥すると、リヴに向かって頭を下げた。
「悪いな、リヴも。私の為に」
「うふふ、今度は僕が先生ですね。しっかり教えますよ」
嬉しそうに笑って、リヴは資料を開く。そして指先でページを押さえ、すらすらと話し始めた。
「イリス殿が知りたいのは、この大陸の歴史ですよね。
まず、この大陸は数百年の間、中立地区を除く全土が旧バルク王国によって統治されていました。ですが六十年前、アスランが諸侯らに蜂起を促して、旧バルク王国を倒しました。それで出来たのが、アスラン連邦です。
アスラン連邦は議会政治で五十余年も大陸を統治していましたが、8年前の軍部の反乱で北の領地を失いました」
「アスラン議会の政治は上手くいっていたのか?」
「えー……と」
リヴは言葉を止め、ちらりとオーギュストを窺う。言っても良いのかと視線を遣る、それだけでも答えは分かったが。
「俺に構わずどうぞー」
と、本を目隠しにしたままオーギュストが声を出した。
「え、と。実は違いまして。最初は機能していた議会も、首席がアスラン君主の世襲であった為に、ほぼ専制であった様です」
「成る程。では今もアスラン連邦とは言っても、アスラン君主の専制である、と」
「耳が痛い話だよね」
「そう、ですね。だから諸侯の不満も溜まっていた様で、隠棲していたバル王家が8年前にバルク王国建国を宣言した時に、バルク王国についた者が多かった様ですよ」
「それであんなにも三国の国力が拮抗していたのか……」
「はい。大陸を一度は統治していたアスランは言うまでもないです。ルシアナは軍部を引き連れて建国し、瞬く間に周りの国を制圧していったので軍事力は絶大です。バルクも国王の人柄か、周りの助けが多かった様ですよ」
「ふむ。それで7年の三竦み、か」
イリスは目を閉じて少し考える仕草をした。暫しの沈黙がおりる。それを破ったのはオーギュストだった。彼は本を顔に乗せたまま、リヴに問うた。
「疑問なんだけどさ、何故ニキア将軍はルシアナ帝国を建国した?」
「それは、紅鼠の女王を欲したのでしょう? その為に戦を起こしたと聞いていますよ」
「そうじゃなくて。国を興した理由さ、ルシアナ国内で学ばなかった?」
「……いえ。建国は形骸化したアスラン議会を見限ったニキア将軍の偉業、としか」
「ふうん……」
自分で聞いた筈なのに興味がなさそうに、オーギュストはそのまま黙ってしまった。
イリスは頭を掻きながら、資料をめくる。知りたい事などこんな資料に書かれている訳がないのだ。誰でも閲覧出来る資料に、何もかもの情報が転がっている訳がない。
「リヴ」
「はい。何ですか?」
「ルシアナの政治は、どうだった」
イリスが静かに言うと、一瞬だけリヴは固まった。もしかすると彼の記憶を掘り起こす質問だったかも知れない。だがこれも、聞いておかなければならない事だった。
「……首都に住まう者には、善政だったでしょう」
リヴもまた、静かに口にする。今までずっと、言論も弾圧されていたのだろう。その言葉にはまだ躊躇いがあった。
「地方の民は重税に苦しんでいたと思います。ですが反乱はありませんでした。全ては……ニキア将軍が有する軍部の力と、潔癖な程の粛清にありました」
「やはり、そうか」
「……はい」
リヴは小さく俯く。大きな目で、固く握った自分の拳を見ていた。やはり口にするには勇気がいたのだろう。
異様な雰囲気に気付いたのか、いつの間にかオーギュストも身体を起こしてリヴを見ていた。
やはり全ての元凶は、ニキア・ルシアナ。それはきっと間違いない。自分がルシアナに入り、中で見て感じた事なのだから。そして長らくルシアナで生きてきたリヴも同じ考えなのだから。
「イリス殿、聞いても良いですか」
「何だ」
窺うように視線を投げかけるリヴを見て、笑んでやれば、彼は決した様に言葉を発した。
「アスランに来た理由、聞いても良いですか」
彼女はまだ誰にも話していなかった。ニールにはまだ絶対に言えないし、決めたのはそれこそ、つい先程だったのだ。
「そうだな……」
オーギュストまでもが、身を乗り出してイリスの言葉を待っている。
「甘い考えだと、笑わないでくれないか」
「分かりました」
リヴが頷くと、イリスは一度大きく息を吸った。そして思い切った様に、
「私はアスランとバルクの同盟を結びたいのだ」
と言ったのだ。
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小脇に書類を抱え忙しなく歩く長い髪が見える。声をかけたならば渋い顔をするんだろうな、と思いながらもイリスは彼を呼び止めた。
「ニール殿」
「……イリス」
だがイリスの予想に反して、彼は丁度良かったと言わんばかりに足を止め、イリスが歩み寄るのを待っている。
「何か私に御用でもお有りですか」
「何を言う、お前が私を呼び止めたのだろう。何か用か」
「あ、そうです。先程資料を繰っていたのですが貴方に聞きたい事が有りまして」
イリスはそう言って資料のページを開く。そのページにはアスランの国の変遷が記されていた。
何故リヴに尋ねなかったのか、理由は簡単でニールの考えも知りたかったからだ。
ニールはイリスが抱える資料の文面を目でさらりと撫で、眉を寄せながら口にする。
「何が聞きたい。先に言っておくが答えぬ事もある」
「分かっております。私が聞きたいのは、アスラン連邦の成り立ちです」
そう言って年表を指差せば、ニールは訝しげに首を傾げた。
「それはお前も知っているだろう。旧バルクの統治に異を唱えたアスラン領が、各領主に呼び掛けて国を倒したのだ、と」
「ええ知っています。つまりアスラン領が旧バルクにした事は、8年前にルシアナやバルクがした事と同じ、という解釈で良いのでしょうか」
きらり、とニールの眼が鋭く光る。どうやらイリスの質問は、痛い所を突くものであったらしい。ニールは分かりやすい程に不機嫌になって、苛立たしげに指を動かした。
「何が言いたい」
「他意はありません。違うのであれば教えて頂きたい」
無知であるとはこういった時に有利だ。ニールは聡いが真面目故に、サミーアの様なのらりくらりとした受け答えをしない。だから無知なイリスの馬鹿げた質問にもこうして激昂する。
「全く違う。アスラン領が旧バルクに起こしたのは、国の崩壊を明確に狙ったクーデターだった。国を分かち自分の場所だけを求めた二国とは違う」
「何故、クーデターを?」
イリスが尋ねれば、ニールは面倒そうに一つ大きく息を吐く。そして長くなるぞ、と口にして丁寧に説明した。
──つまりはこうだ。
旧バルクは善政を敷いていたが、それは全ての国にとってではなかった。広い砂漠や雪に埋もれた地を有する大陸を統治していた旧バルクは、過酷な地を手厚く保護していたという。だがその税を多く払っていたのは、アスラン他土壌の肥沃な地の領主だった。
不満に思ったアスラン領主は、かつて大陸の首都であったジャンナトの地を占拠し、似た境遇の領主に挙兵を呼び掛けたのだという。
アスランはジャンナトから今のアスラン首都へと遷都した。そして二度と同じ轍を踏まぬ様に、各領主にその地を統轄させ議会制を敷いた。だがクーデターの盟主であるアスラン領主が権力を握る議会は、徐々に形骸化していったのだ。
「成る程。ですがやはり私には違いが分かりませんが」
「……分からぬなら分からぬで良い。此処で押し問答をする気は無い」
ニールは未だ苛立たしそうにして指を動かしている。不機嫌ながらもそうして説明しているあたり、彼の真面目さを表している。
「それで? 何故そんな事を調べている。お前の目的は何だ」
「私はこれまでアスランの事を知りませんでしたから。今自分がいる場の歴史くらい気にして当然でしょう」
しれっと言えば、ニールは眉根をきゅっと寄せた。
イリスの言は出任せの嘘では無い。アスランの歴史を知る事は、必ず同盟を結ぶ上で大切な事だ。だがニールは納得がいかない様子で眉を寄せ続けていた。
「お忙しい様ですので、私はこれで」
イリスが小さく頭を下げて踵を返しかけた時だ。
「待て、お前に聞いておきたい事があったのだ」
焦った様にニールがイリスを呼び止める。やはりか、と振り返れば、ニールの視線が何故だか窺う様なものでイリスは内心首を傾げた。
「リヴの事、なのだが」
「はい。彼が何か」
「彼奴は何故ルシアナを抜けた。何かあったのか」
ニールが急にそんな事を尋ねるとは思わなくて、イリスは目を瞬かせた。リヴは何かやらかしたのだろうか。
だが続いたニールの言葉は、イリスの考えが杞憂であったと分からせた。それと同時に、違った心配も生じたのだが。
「リヴは毎夜、夜半になるとうなされている様だ。泣きながら唸る声が漏れ聞こえる」
「うなされている、ですか」
「ああ。酷く苦しそうだ。一晩くらいならば気にせぬのだが、余りに毎夜で。妻がそれとなく尋ねたが、はぐらかされたそうだ」
「……そうでしょうね」
思い至るのはただ一つ。だがそれは決して、イリスが口にして良いものではないだろう。
「気になるとは思いますが」
「ああ、気になる。言えぬのか」
「リヴの為を思うなら、今は堪えて下さい。そして出来ましたら、彼に誠意を持って接してやって下さい」
イリスの言葉に、ニールは虚を突かれたように言葉を無くしている。一瞬の躊躇いの後、やっと一言だけ言ったのだ。
「誠意、だと」
「ええ。彼が一番求めるものです」
イリスはきっぱりと言う。
「さすれば、彼がうなされる事も減ると思います」
「そうか」
納得はしていないが理解はした、そんなニールの返事に、イリスは眉を上げた。
言葉少なで冷淡に見えるニールだが、先程の様子から窺うにもしかして。
「気をつけた方が良いですよ」
「何がだ」
「貴方はどうやら絆されやすそうですので」
「は?」
「他意はありません。ではリヴの事、宜しくお願いします」
そう言って去って行くイリスを見遣って、ニールは狐につままれた心地になるのだった。