2 副将と弟子
戦況はイリスの言っていた通りになった。
アスランの使者が、イリスの髪を同封した書状をルシアナに持って行った途端に、圧倒的優勢のルシアナは兵を引いたのだ。まるでそれは魔法の様だった。古城を取り囲むルシアナ兵は一瞬にして消えてしまっていた。
あの場にアミヴァがいなくて良かった、彼がいればこう上手くはいかなかっただろうから。
そうしてアスラン入りを果たしたイリスたちだったが、緑に囲まれた首都に感嘆する間もなく、到着後直ぐに渋面をした男に呼ばれる事となった。
イリスたちを呼びつけた彼はあいも変わらず、その雅な眉を苛立たしげにひそめていた。
「ご無沙汰しております。ニール殿」
「一体どうなっている。私の記憶が正しければお前はバルクの副将だった筈だが」
とんとん、と机に積み上がる書類を指先で叩いて、彼はその不満を表現する。分からない事が嫌いだ、と言っている様だ。
「オーギュスト殿から聞いておりませんか」
「気いていないから聞いている。魔法の様にルシアナを退けたというし、お前は何者だ。正直に話せ」
「私は、今は亡き紅鼠の王女です、と言えば貴方は理解出来るのではないですか」
イリスの言葉に、ニールは一瞬虚を突かれたという風に目を見開いた。
その驚きは何に対してだろう。紅鼠の王女が生きていた事か、それともイリスが紅鼠の王女であったことか、はたまたそれに気付かなかった自分にか。どれであったとしても、ニールは驚いた自分を恥じる様に咳払いをしてしれっと言うのだ。
「成る程、大体分かった。ルシアナが兵を引かせた理由も」
「貴方はご存知なのですね。8年前の紅鼠の襲撃について」
「忘れもせぬ、あれがきっかけで軍部が独立したのだからな。我々も苦い思いをしたものだ」
ニールは眉を寄せる。その時の事を思い出して、不快になったのだろう。
前回会った時に、彼は狸かと思ったものだが、今こうして面と向かって話してみると彼はなかなかに表情の豊かな男だった。ニールはその渋面のままイリスをじっと見て問う。
「で、何故我々に身柄の保護を頼んだ。逃げるのであればバルクであるべきだろう」
「したい事がありましたので」
「我々がお前たちを捕らえて、ルシアナを脅すとは思わぬか。良い材料ではないか」
「もう、無駄ですよ」
やはりそう来たか、とイリスは笑った。アスランがそう考えるであろう事くらい分かっていた。だが、もうこの手は通用しまい。何故なら。
「あれは兵が、私がアミヴァの妻であると勘違いしていたから出来た事です。二度は通用しません」
「は、良く考えたな、イリス。以前とは見違えるようだ」
「ありがとうございます」
イリスの小さな笑みに、ニールは暫し考え込む。そして表情と姿勢を改めて、イリスを刺すように見た。これからが、本題なのだ。
「何をしに来た。アスランに来た目的は何だ」
イリスは逡巡した。ここで自分の本懐を全て明かしてしまって良いものか。一蹴されるだけならば、まだ良い。だが阻止する為に動かれたら。命を狙われたら。それを考えれば、まだ言うべきではないように思われた。少なくともアスラン議会次席である、彼には。
「ドルキカ様に、お会いしたい」
だから肝心な事は言わずに、イリスは言った。アスラン議会主席、実質のアスラン君主に会いたい、と。その言葉は、話をそらすには大きい筈だと彼女は分かっていた。
「無理だ」
「何故ですか。以前ハカム川合戦の祝宴でご挨拶差し上げました。今一度せぬのは失礼でしょう」
「それでも無理だ。ドルキカ様は大変お忙しい。急に言ってどうにかなるお方ではない」
「では、そうお伝え下さい。いつでも足を運びます故、寸暇の間で良いのです」
「だから無駄だと。私がドルキカ様に取り次ぐ。何かあれば私に言うのだ」
ニールの返答はにべもなく、ぴしりと言い放つ彼の澄まし顔を見て、イリスは内心舌打ちをした。
まあ最初から上手くいくとは思っていないのだが。そう思い直し、イリスは手を叩いて話を変えた。少々わざとらしい気がしないでもない。
「ニール殿、私はどこに配属されますか。もう決まっているのでしょうか」
「本当にアスラン軍部に入る気か。お前はバルクやルシアナを相手に戦えるというのか」
「構いません。覚悟の上です」
イリスはきっぱりと言う。ここで迷っていたら何も進まない、そう何度も自分に言い聞かせたのだ。アスランに入る前に既に、決めたのだ。
「全く、どういった心持ちの変化だ」
「で、私の配属部隊は決まっていますか」
「ああ。オーギュストが是非と言っていた。奴の副将となるがいい」
「本当ですか! 有り難うございます」
「礼なら奴に言え。全く、同盟の時から彼奴はお前を気に入っていたからな」
「有り難いお言葉です」
「籠絡するなよ」
「しません。言ったでしょう、私たちは貴方がたに不義は為さぬと」
イリスはそうきっぱりと言って、敬礼をして見せた。アスラン軍部のものとは型が違ったかも知れない。だが構わない。これはイリスの覚悟を示す為のものだ。それが分かっているからか、ニールも渋面ながら何も言わなかった。
「で、その者だが」
話の矛先が向いて、先程まで大人しく座っていたリヴが肩を揺らした。まるで怒られるのを待つ子の様だが、その視線だけは真っ直ぐにニールを見つめていた。
「お前は何だ。何故アスランに来た」
「は、はい! 僕はルシアナで軍師をしておりました。ですが肉親を亡くしたを切っ掛けにイリス殿の誘いを受け、共に参りました」
「いわば私の協力者です」
リヴの自己紹介にイリスが口添えすれば、ニールが興味深そうに目を瞬かせる。
「軍師、だと。見た所まだ十代前半といったところだが」
「いえ、僕は今年十七になります……」
「ニール殿、彼はこんな風貌ですが、五年も前から軍師として名を馳せていたらしいのですよ」
二人の返答に、流石のニールもあんぐりと口を開けた。彼の風貌で十七という年も、その年齢で五年も経験があるという事も驚きなのだろう。
「そこで、お願いがあります。彼を、リヴを貴方の元で学ばせてやって欲しいのです」
「は……?」
「いわば弟子です。おすすめですよ、十一から軍師をしていた英才ですから」
イリスがそう言うと、ニールは一瞬唖然としたが、すぐにきゅっと顔をしかめた。だが心底嫌がっている訳ではない、と思うのは楽観的だろうか。
「彼もまた、アスランに不義は為しません。それどころか再び学ぶ場所を欲しております」
「だが私は、議会次席としての責務が……」
「弟子はとらぬ主義ですか」
「そうではない!」
「では、あれですか。アスランは外からの者は猛き才能でも採用せぬ、という自国の矜持でもおありでしょうか?」
イリスの挑発的な言葉に、ニールが表情を改めて鋭い目をする。
いつまでも乞うだけではいけないのだ。彼にとって耳に痛い諫言もまた、イリスの誠意なのだから。
「失礼を承知で申します。アスランは軍事力で言えば、ルシアナはおろかバルクにも引けを取ります。それは相対した私たちが良く分かっております」
「何が言いたい」
「であれば、外からであれ、優秀な人材を逃すのは得策ではない。と、私は考えますが」
「だから、リヴの身元を受けろ、と?」
「はい。優秀な方は人を育てるのも上手いらしいので、是非貴方が」
そこでにっこり、イリスは笑って見せた。
ニールが諦めた様に大きく息を吐いたからだろうか、リヴも期待を込めた視線をニールに送っている。
「全く。お前は以前のイリスとは別人だ」
降参だ、という様に苦笑して、ニールは額を押さえた。その一連でイリスたちは、自分の要望が聞き届けられたと知る。
「褒め言葉です」
「何があったのか知らぬが、そのお前が不義を為さぬというなら。私もそれを信ずるしかないだろう」
「決して。誓います」
ニールは跪くイリスに目をやる。イリスの歪んでざんばらになった髪を見て、そして笑った。
「私も、甘くないのでな」
それは何に対してか。リヴを育てる事か、それともイリスに対する牽制か。今は分からないが、それでも。
「有り難うございます」
イリスたちの求む通りに、事はなったのだ。




