1 二人の覚悟
指令室で相対したオーギュストは、ぽかんと口を開けてイリスを見ていた。彼は恐らく、ルシアナの兵が書状を持って来たと聞かされていたのだろう。状況を把握出来ていない、といった表情だった。
彼がいかに表情豊かな男だといっても、彼はアスラン軍の軍事司令だった。直ぐにその表情を正し、凛とした声で話し出す。
「書状を持って来たと聞いている」
「ええ、確かに。こちらです」
そう言って、イリスは胸元からリヴに頼んでしたためてもらったその書状を渡す。それを受け取ったオーギュストは、それを広げて目を落とし、即座にイリスの顔を見た。
「亡命、だって……」
「は。その通りです。私イリスとこの者リヴは、ルシアナを撤退させる案を手に、我らの身柄の保護を嘆願に参りました」
俄かに部屋中が騒がしくなる。亡命という言葉に、ではない。ルシアナを撤退させる案、とイリスは言ったのだ。それが、アスランが何よりも欲しているものだという事を、イリスはしっかり分かっていた。
「ルシアナを撤退させる、と。どの様にして?」
オーギュストも同じく、その申し出に驚いたらしく目を瞬かせている。だが、まだそれを明かす訳にはいかない。イリスは心持ち強気な表情をして、口を歪めた。これは交渉なのだ、余りに下手に出過ぎてもいけない。こちらにはその材料があるのだから。
「私たちの身柄を保護して頂けると、約して頂けるのであれば」
「あ、ああ」
きっとこの場で即座に答えを出す事は出来ないのだろう。オーギュストは周りに立つアスランの兵を一度見遣った。
「その案とやらは、必ず成功するのか」
「必ずなんてものはありません。ですが少なくともルシアナの戦意は削げますし、何より指揮系統が大きく乱れます」
イリスの言葉に、オーギュストはじっと考えている。イリスの申し出は決して無下に出来るものではない筈だが、オーギュストが躊躇う程度には怪訝な事なのだろう。暫くの沈黙の後、彼は思い切った様に声を上げた。
「暫くこの者たちと話がしたい。皆出て行ってくれるか」
「オーギュスト様、危険では」
「大丈夫だ。不安なら部屋の外で待っていれば良い」
「……了解しました」
オーギュストが有無を言わせずにぴしゃりと言い放つと、兵たちは皆不満そうに部屋を出て行く。後には跪くイリスとリヴ、そしてそれに向かい立つオーギュストが残された。
「久し振り、イリス」
「ああ。急な申し出ですまないな」
親しげな挨拶。それにリヴは驚いた様にイリスを見たが、口を噤んだまま大人しくしている。
「まさかこんな再会の仕方をするとは思わなかったね。ルシアナの者じゃないって言っていたのに」
「それは違いないよ」
イリスは事情を説明した。オーギュストはイリスの記憶がない事までは知っている。その為かイリスの信じがたいであろう話でも、真剣に聞いてくれていた。
「じゃあ何か、君は本当はアミヴァの婚約者だったって事?」
「まあ、昔は、だな。だがあの国で過ごしてはいけない、とそう思って抜け出して来た訳だ」
「成る程、次期君主の妻は家出のスケールも大きいね」
「からかわないでくれ。命懸けなのだから」
溜め息を吐きながらオーギュストを見遣ると、彼は暫く考えた後、分かったと大きく手を打った。
「分かった! 君たちの言うルシアナを撤退させる案、それは君たち自身だ」
「ふふ。約を頂く前に分かられてしまった」
「分かるように言ったくせに」
オーギュストの呆れた様な視線を受け流して、イリスは笑って見せた。これが今イリスが見せられる、最大限の誠意だった。
「なんだか……変わったね、イリス」
「そうかな」
「うん、以前一緒に戦った時はもっと……何ていうかな、表情がなかった」
「それ、誰かにも言われた事があるな。朴念仁だと」
「ああそんな感じ。でも今は、違うね。何だか強い意志がある。何かあった?」
オーギュストはこくん、と首を傾げて見せた。
何か──勿論あった。言葉には出来ないくらい悩み、惑い、そして初めて自分で進む道を決めた。思えば今まで、何かを自分で成した事などなかった。決められた道ばかりを進んでいたのだ。だから、これは何としてでも為さねばならぬのだ。
「色々あった」
イリスは笑った。そしてすぐに表情を正して、跪いたまま額を床に付けた。
「オーギュスト殿、頼む。私たちをアスランに入れてくれ。必ず貴方たちに不義はなさぬと約束する」
プライドなどない、これを成す事こそ、イリスのプライドだった。それをオーギュストは分かったのだろうか、表情を緩めて歩み寄って来た。彼の手が、イリスの肩に触れる。
「君の覚悟は理解出来たよ。分かった、君たちの申し出を受けよう。他の者には俺から言う」
「本当か!」
「ああ。君の事を信じよう。強い意志で、俺たちに不義はしないと言う君を」
オーギュストは手を差し伸べてくれた。その手を握っても良い、と。イリスは、安堵に浮かびそうになる涙を堪えながら、彼の手を取るのだ。これは彼女にとってとても大きな一歩だった。
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「で、どの様にしてルシアナを退けると?」
軍議の始まった部屋の中央に、イリスとリヴは立たされている。その場にいる将校らの目には、焦りとイリスたちへの期待がありありと見えた。
「私とリヴの身を捕らえたと。退けば命だけは助けると、それだけで構いません」
イリスはきっぱりと言う。
下々の兵ならまだしも、ルシアナの陣には地位のある者も沢山いるのだ。イリスがアミヴァの妻であるという話を知っている者もいる。そしてリヴも、此度の戦の軍師であった。二人を失えない理由が、ルシアナにはあるのだ。
「戯言といなされるかも知れない、それなりのものを見せねば。お主らの首とか、な」
その場にいた軍師の一人が、にやりと笑って言う。無理からぬことだが、オーギュストはこれを止めた。
「止めろ。もうこの者たちはアスランの者だと言っただろ」
「ですがオーギュスト様……」
「いえ。大丈夫ですオーギュスト殿」
イリスが軍師の言葉を遮って、声を上げた。皆の目が一斉にイリスに向けられる。
「何が、大丈夫なんだ」
「方法はあります、と。ナイフをお貸しください」
「……分かった」
「オーギュスト様!」
諌める周りを無視して、オーギュストはイリスに自分の懐剣を手渡す。イリスの覚悟を確かめる様に。
それは一瞬だった。イリスは左耳辺りで纏めた紅い髪を手で掴み、それを懐剣で切ったのだ。
掴み切れなかった髪が、ひらひらとその場に散る。それと共に用を成さなくなった結紐が地に落ちた。
「これを、書状に同封すれば良い。この紅い髪こそ、私である何よりの証拠です」
短くなった紅い髪を頬に散らし、イリスはそう声を上げる。周りは誰も声を出さなかった。
武人として生きてはいても、女の髪というものは無用なものではない。それが自分の血を示す、紅い髪であれば尚更だ。周りの者たちは戸惑いにざわめいているが、そんな事でイリスは迷わなかった。
「分かった。ありがとう、イリス」
礼を言って、オーギュストはイリスの紅い髪の束を大切そうに紙で包む。
「皆の者、彼女の覚悟を見ただろう。この者はこれより紛れもなくアスランの者だ」
オーギュストは、イリスの髪の包みを掲げて大きく声を上げた。周りの兵たちは誰も反論の声を上げなかった。
イリスはここでやっと、アスランに入る事が出来る様になったのだった。