20 そして敵国へ
イリスは今、ルシアナが布陣する関所近くの陣幕にいた。目の前に広げられているのはこの辺りの地図、そして隣にいるのはリヴだ。二人で地図を覗き込みながら、こそこそと話し合う。
「とりあえず貴女が戦から離れていた一年間の説明をしますね。
ルシアナとバルクの休戦協定を知って焦ったアスランは、バルクと休戦協定を結びました。これで実質大陸の一年間休戦がなったんです。ですが協定期間が明けてバルクとルシアナがぶつかった事を知るや否や、アスランは、バルクに攻めた様です。結果バルクがアスランを追い返す形で収束しました。
そして今、僕たちはバルクへの侵攻戦に失敗したアスランの背後を狙っている、という訳ですよ」
「丁寧な説明ありがとう。で、戦の詳細は」
「此度の戦は、ルシアナが侵攻する形です。ここの南東にある砦、というか古城ですかね、そこを攻めます」
「ああ、分かった」
「でも良いのですか、敵は……アスランですが」
上目遣いで心配そうな視線を送ってくるリヴを見て、イリスは大丈夫だ、と目を細めて笑って見せた。
リヴには既に全てを話してあった。本当はアミヴァの妻ではなく、バルクの人質であった事。記憶をなくしてはいるが今は亡き紅鼠の王家である事。そしてバルク王国軍に属する副将で、最終的にはバルクに帰る事が目的である事。
だが此度の敵はアスラン連邦だ、バルク王国ではない。此処で逃げたとしても、向かう先はアスランに他ならなかった。
「アスランでしたい事があるんだ。リヴにも付き合ってもらう」
「それは構いませんが……アスランに行くなり捕らえられたら元の木阿弥ですよ」
「そうならない為に、用意してくれたのだろう」
イリスがにやりと尋ねると、リヴはこくりと頷いてローブの合わせ襟からそれを抜き出した。
「危険はないですか。こちらは侵攻側ですし」
「さあ。五分五分だな、あの場に彼がいてくれれば何とかなるだろうが」
イリスはリヴから受け取った書状を手の中で弄びながら、ふうと大きく息を吐いた。かつて共に戦った、彼の姿を思い浮かべながら。
「貴方も大丈夫なのか。後悔はないか」
隣で小さく震えているリヴを見遣って尋ねれば、薄っすら青い唇で彼は頷く。こんな大それた事をするのだ、その反応はとてもまともに思えた。だが彼は大きな目を緊張に潤ませながら言うのだ。
「はい。きっと後悔は、しません」
「ふ、私は悪い大人なのだろうな。貴方を茨の道に引きずり込む、な」
「そんな事はないです! イリス殿は私に言って下さったではないですか! 素直な心を持てる場所に連れて行く、と」
「ああ。そうだ」
「僕にはもう肉親がいませんから、思い残す事はありません。きっと……連れて行って下さいね」
乞う様に、リヴはイリスの装束の袖をぎゅっと握った。
長い付き合いではないが、彼が人生を預ける決意をする程には信頼関係があったのだ。そしてイリスも、それを違える気は無かった。
「では、行こうか。リヴ」
「は、はい」
地図を丸めて、二人は天幕を出た。もう二度と此処には戻ってこない、そんな決意が窺える程に、天幕の中は片付けられている。机の上に丸めて置かれた地図だけが、ゆらゆらと揺れていた。
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アスランは恐らく、三国の中でも一番軍事力の弱い国ではないか、イリスはそう思っている。もちろんルシアナは別格なのだが、敵として対してみた時、バルクとアスランの兵力の差がまざまざと見える。
この戦も、恐らくこのままいけばルシアナの勝ちは固い。それがイリスには都合良かった。
「武器は持ったな、絶対に私から離れるなよ」
「わ、わかりました」
がたがたと震えながら剣を持つリヴを見遣って、イリスは眉を下げる。その震えは武者震いか、と聞きかけて止めた。そんな訳がない。
「大丈夫だ、私に付いて来れば」
そう言って彼の背中を叩いた時だった。
響き渡るのは、出陣の合図の音。イリスは馬に跨り、リヴを見た。そして頷くと、一気に馬の腹を蹴って先陣の先頭に躍り出たのだった。
こんな無茶な布陣も、全ては軍師であるリヴのお陰だ。彼はイリスが望む通りに、ルシアナの軍略を決めていった。勿論怪しまれぬ様に最低限であったが、唯一皆に止められた事がリヴが先陣に参じる事だった。彼を知る者ならば無理からぬ事だ、と考えながらリヴを横目でみる。
今リヴは、イリスに離されぬ様に身体を低くして必死に馬を駆っている。イリスはそれを確認すると、もっとその速度を上げたのだった。
やがて見えてきたのは、そびえ立つ石造りの古城とそれを守る様に並ぶ兵たちだった。イリスは手にした槍をぎゅっと握った。いつもの鉄の双鞭とは違うが、不安はなかった。
ルシアナの一陣は恐らく遥か後方だろう。今イリスの側にいるのはリヴだけだった。だからイリスは遠慮なく、大きな声を上げながら向かい立つアスランの陣に突っ込んで行く。
「そなたらの指揮官に話がある! 押し通る、御免!」
時折突き出てくる刃を槍でいなしながら、イリスはそれでも馬を駆るのを止めない。とてつもない速度で敵の中をただただ駆ける。それが有用である事は、先だってのバルク戦でビルディアが示してくれていた。
アスランの兵を殺してはいけない。それをすればきっと、イリスたちの望みを叶える事は難しくなるだろう。イリスは細心の注意を払って、兵たちの武器だけを薙ぎ払って行った。
そうしてどのくらいだろう。やがてイリスの目の前に、身分あるであろう兵が立ちはだかった。イリスはそれを待っていたのだ。
その兵が走り抜け様にイリスを薙ごうと武器を構えた瞬間、イリスは手綱を強く強く引いて馬を止めた。馬はその急な命令に従いきれず、勢い余ってその場に倒れ込んだ。倒れる間際に馬の背を蹴り、イリスは体勢を整えて何とか地面に足をついた。
「私はルシアナの兵ではない、貴方がたの指揮官に話があって来た」
イリスの大きな口上に、対する兵が低く構えていた身体を一瞬緩めるのが見えた。
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イリスは今リヴと共に、先程の兵の後ろを付いて歩いている。周りには二人を見張るには多すぎる数の兵。古城の中は薄暗く、陰鬱とした雰囲気が漂っていた。
「此処です」
そうして開けられた扉の向こうには、イリスが望んだ、彼の姿があったのだ。
「オーギュスト殿」
「……イリス?」
彼、オーギュストが此度のアスランの指揮官だったのだ。これで少しは話が上手く進めば良いと、イリスは胸元に入れた書状を服の上からゆっくりと押さえた。