18 哀れな仇国
「先に謝っておく。私は貴方を利用する。だが決して見捨てはしない。信じてくれ」
イリスはそう前置きした。正直に話す事が、今はリヴの信用を得る為に一番の事だと思ったのだ。そしてリヴも馬鹿ではない、イリスの覚悟を感じ取ってか小さく頷いた。彼の大きな目がじっとイリスを捕らえていた。
視線でお互いを理解したかの様な暫しのしじまの後、イリスは二つの約束事を告げた。
──次の戦の軍師に名乗りを上げる事。
──その戦にイリスを伴って出る事。
さして難しい話ではない、リヴは頷いて、
「仰る通りに」
と言った。
そしてリヴは大きな目をじっとイリスへ向ける。怯えた様な、窺う様な、そんな目だ。もう傷付きたくないのだとその目が切に訴えている。だからイリスは、小さく言うのだ。
「必ずこの国を出るぞ、その為にも貴方が必要だ」
そう言いながらイリスも、全てをリヴに任せてしまうつもりなどなかった。確実にそれを行う為に、ある人の元へと行く決心を付けていた。
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「まさか、そなたの方から謁見の申し出があるとは思わなんだ」
玉座の君はそう言ってにたりと笑んだ。三日月に口を歪め、薄眼で人を見る表情は、彼の息子とよく似ている。
決定的に違う所は、アミヴァの笑みは、彼の様に冷淡ではない。アミヴァの笑みの本質は、確かな執着や関心に裏付けられた熱だ。目の前の王は違う。冷たく僅かな関心も感じられない、羽虫に向けるかの様なそんな笑みだ。
決定的に違う、と思った。やはりこの王だけが、イリスの仇なのだと。全ての元凶は、この王が狂ってしまった為なのだと。
「で、何の用だ。息子にも内密に来た理由があるのだろう」
ふつふつと湧く怒りに思考を費やしていたイリスは、将軍のその声ではたと正気に戻った。今すぐにでも飛び掛かりたい衝動を押さえ、イリスは跪く。
「将軍様にお願いがあって参りました」
「ほう、息子でなく私にか。申してみよ」
「はい」
イリスは首を垂れたまま、緊張にこくりと喉を動かす。ここでしくじる訳にはいかないのだ。
「次の戦、私を参陣させて頂けないでしょうか」
「ははは。成る程、そういう事か」
合点がいった、と言う様に将軍は笑った。
「戦闘種族紅鼠の血が、やはり疼くか」
「はい。ですが彼の方は、私を戦場になど出さないでしょう。過保護ですもの」
口元を押さえ、品をつくって笑う。愛する夫の愚痴を零す妻を演じるのだ。
だが相手は国王。酸いも甘いも嚙み分けた、絶対君主なのだ。
「あれの側から、逃げるのだな」
心を読んだかの様にイリスの本懐を言い当てて、にたりと笑う。さして興味もないと言いたげな冷たい笑みで。
暑くもないのに、背中に汗が伝う。喉がからからに乾いて、言葉が上手く出てこない。
「まさか、そんな筈がないでしょう」
辛うじてそれだけ言って、イリスは口元を隠しながら笑って見せた。口元を覆う指先が、震えている。
失敗したか、と歯噛みしかけたその時だった。
「構わん。次の戦、そなたの参陣を認めよう」
え、と言葉が漏れた。イリスの企みに気付きながら何故認めるのか、理由がわからない。イリスは呆然として、将軍を見つめていた。
すると将軍は笑って言ったのだ。冷淡な笑みで、それでも目の奥に小さな感情を籠らせて、
「あれだけが幸せになるなど認めない」
と。
謁見の間を出たイリスは回廊を歩きながら、ずっと考えていた。
母は何故病んだのか、この国は何故狂ってしまったのか。
きっとそれはひとえに、将軍が母を愛しすぎた所為なのだろう。母は幽閉され、将軍は何をしてでも母の心を手に入れようとした。だが子を成しても、母は将軍に心を傾ける事などなかったのだ。そして心を病んで、己の命を絶った。
母を失った将軍は、虚無感に耐え切れなかったのだろう。感情に身を任せたまま教えたのだ、彼の息子に。欲しい物は奪え、そして離すなと。そうして将軍の歪みは確かに息子たちに受け継がれたのだ。恐らく。
今も、将軍は母を求めているのだ。だからイリスを手にしたアミヴァが気に入らない。いやむしろ壊してやれとさえ考えたのだろう。
「哀れなものだ」
小さく呟く。
あれ程に憎かったこの国だが、一人の男の歪みでこれ程まで壊れられるのかと思うと、同情心さえ感じられた。憎き仇国に向けるには、不思議な感情だった。
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その日の夕飯の時だ。時間になっても、アミヴァは来なかった。連絡もなしにそんな事は一度もなかったから、イリスはずっと首を傾げながら待っている。腹の虫がうるさく空腹を訴えていた。
やがていつもの時間から一刻程経った頃、がちゃりと扉が開く音がした。
「遅い! 連絡くらいしろ、食べ損ねてしまうだろう」
扉が開くなりそう言ったイリスだったが、アミヴァの顔を見て言葉を切った。どうやらまだ食事にありつけそうにない。
アミヴァは顔を真っ青にして、ゆらりとイリスの側へと歩いてくる。細身の彼の身体がそう動けば、まるで物の怪のようであった。
「聞いたのか」
イリスが小さく言うと、アミヴァは顔を歪めた。その表情が是と言っている。イリスは大きく息を吐いた。
「少し、話をしよう」
「何を話すと言うのだ。お前は私の側から、逃げるのだろう。憎い筈の父に頼んでまで」
「いいから、落ち着け。今なら、腹を割って話ができる」
イリスがそう言って促すと、アミヴァは渋々と言った様子で向かいに腰掛けた。
「単刀直入に言う、私はこの国を出る。戦の日に」
「……切っ掛けはあれか。エイレスがギルを斬った場に居合わせた。それで弟を見限ったな」
「半分合っている」
イリスは頷く。確かに大きな切っ掛けはあれであった。庇護すべき母の子に、仇の教えが根付いていると深く感じた、あれだ。
「半分、だと」
「私があれで気付いたのは、エイレスの異常さよりも、これ以上この王家を存続させてはいけない、という事だ」
イリスは真面目な顔できっぱりと言い切る。王家を存続させてはいけない、つまりそれは目の前の彼もだ。
「ふ。私もエイレスも殺して国を出る、という事か」
「最後まで話を聞け。私がいうのは王家だ、貴方たちの存在ではない」
「それの、何が違う」
アミヴァが忙しなく、机を指先で叩いた。どうやら苛々し始めたらしい。激昂されては敵わない、とイリスはわざと明るい声を出した。
「話は変わるが。貴方の言葉を信じるならば、私と貴方は昔は仲睦まじかった。そうだな」
「……何だ藪から棒に」
「昔の私を信じるならば、貴方はまともだった筈だ。貴方もきっと狂ってしまったのだ。8年前から」
「は、だから何だ。狂ってしまえば良いと、さすれば楽なのだとそう思って……」
「一種の洗脳だ。父親のな」
ぴしり、とアミヴァは固まった。
「貴方は将軍とは違う。無理矢理に私を連れたが、その後貴方は無体を働いたか。乱暴したか」
「だが私は、」
「確かに呪いの言葉を吐かれた様な気はするが、それはこの際忘れてやる」
「だから、何が言いたいのだ。私に甘い言葉を吐いて何がしたい、今更!」
頭を掻きむしって、アミヴァは吠えた。聞きたくないと、もう何も言うなと身体中で訴えていた。
だがイリスは止めない。厳しい言葉も甘い言葉も、全ては今のイリスの本心だ。イリスはアミヴァに全てをぶつけて、最後にどうしても伝えたい事があるのだ。
「貴方は、暴君でも何でもない。ただの臆病な男だ。父の教えに縋り、まともな感情を捨てるしかなかった哀れな、な」
イリスの言葉に、アミヴァは俯いた。だが落ち込んでいる訳ではない、彼の顔に浮かぶのは、あの嗤いだ。
「それが何だ。その哀れな男を捨て、お前は出て行く。それは変わらない」
「そうだな、やはりこれだけはしっかり言っておく。私は貴方の妻にはならない。この先も絶対に……」
イリスが言うと、アミヴァは嗤う。涙を溜めて、面白くもないのにくつくつと。
「だが私は貴方の友となろう。貴方がその狂気を捨てられる様に力添えはする」
だが続いた言葉に、虚をつかれた様に表情を緩め、イリスを見た。信じられない、と目を瞬かせて。
「友、だと。お前を捕らえていた私と、友になるというのか」
「次に会う時、私は必ず貴方に問うだろう。私の友となり、父の支配から抜け出せと。考えておけ」
「お前は、まさか……」
「私が決心したのは、国を脱する事だけではない。いずれ武器をもってルシアナ王家を滅ぼす。その時に、貴方は私の手を取れ」
「だがルシアナ王家を滅ぼすというならば、私やエイレスをも殺さねばならないだろう」
「貴方たちは、父親の支配から抜け出せさえすれば良い。さすればきっと、その狂気も消えよう」
そう言って笑う。
イリスはまるで夢を語っているかの様だった。将軍を倒せば、彼らもその支配から抜け出せる。そんな願望は。
「甘いかな」
語り過ぎた羞恥に笑えば、向かいからも苦笑が漏れ聞こえる。
「甘いな、甘すぎる。途方もない夢物語だ」
「だがな、これが一年迷った結果だ。ただ感情に身を任せて動くのでいけない。私は、亡紅鼠の王家なのだから」
「ふ。私の一年の説得は、どうやら好ましくない方に働いたらしい」
「一年は無駄ではなかったよ。己を知り、己の無力を知り、そして何が大切か知った。
私はやはり武人なのだ。貴方たちを救うには、私にはこれしか考えつかない。側に寄り添い癒すなど、柄ではないのだ」
「私を、救うというのか。この私を」
「一年前ならばそうは思わなかった。貴方は仇敵なのだと、そう思い続けていた。
だが私が一年見た貴方は、好ましいよ。勿論友としてだが」
イリスが言うと、アミヴァは笑った。もうあの嗤いではない。小さく自嘲するようにではあるが、それでも執着や狂気は窺えない。
イリスの言葉は確かに届いているのだと思えた。
「残酷な言葉だ」
「だが本心だ。言ったろう、腹を割って話そうと」
「お前は馬鹿だ。父を滅ぼすなど出来よう筈がないのを分かっている。それでも……お前は本心から、私を救うと言っているのだろうな」
アミヴァは顔を覆った。肩を震わせ、だが静かにそうしている。声を上げぬのは男の矜持故だろうか、静かに静かに肩を震わせていた。
暫くそうしていて、やがてアミヴァは顔を上げた。表情はいつもと変わらない、だが僅かに目が濡れている。それが自分の言葉が届いた証かも知れないと、イリスは満足して見つめていた。
「お前は本当に、それをするつもりなのか。父を討つ、と」
「肉親の貴方にする話ではないか、貴方にとって私は仇となるのだものな」
「そうだな……。少し混乱している、考えた事もないのだからな。だが……」
「すまない。私も他人の事を言えないな。自分の欲求の為に人を討つのだから」
イリスが黙ると、暫しの沈黙がおりた。気まずい思いでアミヴァを見るが、アミヴァはじっと目を閉じているだけだ。彼からは未だ何の感情も窺えなかった。
イリスの言った事は、彼には押し付けだったかも知れない。彼は全くそんな事を望まないかも知れない。だが。
「私は決めたからな」
それだけを告げる。アミヴァは目を開くと、小さく頷いた。それからは未だ何の感情も窺えなかった。