17 決意と策謀
「イリス」
今日もイリスはリヴの訓練に行こう、と廊下を歩いていた。すると背後から甲高い声が名を呼ぶ。振り返ると、そこでぴょこと揺れる紅い髪。そして隣に控えるギルだった。
「エイレス様ではないですか。如何なさいました」
そう笑顔をもって尋ねると、エイレスはぱっと表情を弾けさせて笑った。先日の件で随分と懐かれてしまったものだ。
「何処に行くのだ」
「今からリヴの鍛錬なのです。訓練所へ参ります」
「ならば、僕も行く」
子供らしくそう言って、エイレスはイリスの袂を掴んだ。良いだろう、と下から見上げながら。
「ですが……申し訳ありません、エイレス様。リヴの訓練は誰も居らぬ所でないと出来ぬのです」
「何故だ?」
「ええっと……」
言葉に窮して、助けを請う視線を隣のギルに投げかける。リヴはギルの息子だから、彼も事情は知っている事だろう。
するとギルは、イリスの言葉を継いで優しくエイレスを諭しに掛かった。
「申し訳ありません。我が愚息は武術がてんで駄目でして、エイレス様に危険が及ぶやも……」
「何かあれば、リヴを処せ」
ぎょっと、顔が歪むのを抑えられなかった。可愛らしい子供の口から出たとは思えぬ程残酷な言葉だ。だがこれがこの国の王家なのだろう、とイリスは辛うじてその嫌悪感を堪えた。
「いえいえ、エイレス様。何かあってからでは遅いのです」
ギルは慣れているのだろう。息子を処するという言葉にも、反応を示さなかった。ただただ優しくエイレスをなだめ続ける。
それに、突然エイレスが癇癪を起こし出した。
「リヴばかりずるいではないか!」
「エイレス様?」
「あいつばかり、イリスに構われ父親に大切にされ!」
エイレスは顔を真っ赤にして怒っている。イリスやギルが、リヴを大切にするのが気に入らない、と。
エイレスも寂しいのだとは思うが、急に激昂されては宥めようがなかった。イリスやギルは、エイレスの親ではないのだから。
そうしている間にも、エイレスの興奮はどんどんと増していく。子供の癇癪ならば可愛らしいものだが、エイレスはただの子供ではない。何でも許される、子供なのだ。それがとても恐ろしい。
「リヴは何処だ! 彼奴には言っておきたい」
「お収め下さいエイレス様。私から言っておきます故」
「リヴを連れてこい!」
「エイレス様!」
ぎゅっと、思わずなのだろう、ギルがエイレスのスカーフを掴んだ。ぴたりとエイレスが動きを止める。
「え、エイレス様……?」
先程まで激昂して叫んでいたエイレスだったが、今の彼は嗤っている。その顔をイリスは知っていた。彼の兄がイリスに狂ってしまえ、と嗤う、あの顔だ。
──やばい、と。イリスは足を踏み出した、が遅かったのだ。それは一瞬の事だった。いつ出したのかエイレスの手には懐剣が握られて、それがざくりとギルの腹に刺さる。うぐ、とギルの口から呻きが漏れた。
動きだけ見れば子供が大人の腹にぽかりと殴りかかっただけのような格好だった。だが今膝から崩折れるギルは、口からおびただしい量の血を吐いている。
「ぎ、ギル殿!」
駆け寄ると、ギルの口から噴き出す血が顔に飛沫く。だが構わずその身体を支え、廊下の壁にもたれさせた。
「しっかりしろ、ギル殿!」
がくがくと身体を痙攣させて尚も血を吐き続けるギルを押さえつけ、誰か呼ぼうと振り返った。すると。
「ち、父上……?」
愕然とそこに立ち尽くすリヴと目が合った。
「り、リヴ! 誰か呼んでこい! 早く!」
「は、はい!」
イリスの声にリヴがびくりと反応して、一歩踏み出した時だった。
「リヴ」
小さく呼び止めたのは、未だ笑みを浮かべ続けるエイレスだった。
「な、何でしょう」
「ギルが死ぬのは、お前の所為だ」
と、言葉を這わす。リヴの心を揺らすようにわざと酷薄に。子供には思えぬ表情だった。
「リヴの身代わりで死んだのだ」
「え……?」
「リヴ、良いから早く誰かを!」
「リヴ。僕に何か言う事はある?」
子供らしく首を傾げて。だがその手は血塗れで、彼の紅い髪にも白い頬にも血がはねているというのに嗤って。リヴに求むるのだ、
「謝る事がある?」
と。
ギルの身体は未だびくびくと跳ねて、時折腹を押さえるイリスの顔に血を飛ばす。その隣で、息子であるリヴは跪くのだ。絶対君主に許しを乞うために。それを満足気に見つめて、嗤うのは子供。
間違いなく狂っている、この王家は。
異様な状況の中でイリスは、それだけを強く思った。
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その日から、リヴの訓練はなくなった。だがリヴは強かった。イリスの様に部屋にこもる事も、己の職務を放棄する事もなかった。ただあれ程表情豊かで可愛らしい風貌であったのに、今や見る影もないのだ。げっそりと窶れ、色のない瞳で笑う、まるで人生を諦めた浮浪者の様になってしまっていた。
そしてあの一件は、イリスにとっても大きな切っ掛けとなった。
思い出したのだ、ユシリアの言葉を。
──エイレス様は後代よりも将軍の血を色濃く受け継いでいる。お前が心を砕く必要はない。
彼はそう言っていた。それを実感出来た。思い残す事は、何もないのだ。何も。
「リヴ、私と共に行かないか」
半ば無理矢理自室にリヴを招き入れたイリスは、部屋の扉を閉めるなりそう言った。リヴはつい、と色のない瞳を向けてくる。この前までは様々な表情に潤んでいた筈の目を見遣って、イリスはゆっくりと頷いた。この子をこのままにはしておけなかった。
「行くって……何処へですか。僕には行く場所なんてありません」
「楽しい事は楽しいと、悲しい事は悲しいと、言える場所だ」
だがイリスの言葉に、リヴは笑った。馬鹿にしたように小さく。そんな笑い方をする子ではなかったのに。
「気遣って下さるんですか。でも大丈夫ですよ」
「何が大丈夫か。そんな顔をして」
「いえ、今の方がいいんです。以前の僕は無知で無想過ぎたのですから」
「馬鹿だな、貴方は」
イリスは笑う。もうイリスは迷っていなかった。どうにかしてこの哀れな子と共にルシアナを出る、と決めていたのだ。
「親を殺されれば、悲しいし憎くも思う筈だ。その当たり前の感情をどうして持たない」
「仕方ないでしょう、エイレス様ですから」
「それがおかしいのだ。子供の戯れで殺されて、貴方は納得するのか」
リヴは黙る。少しは揺れてくれれば良いと、イリスは更に言い募った。
「当たり前の感情を封されて、それでもここで生きていくのか。正せる場に立って正そうとは思わぬのか」
リヴは黙って聞いている。瞳にじわじわと涙が浮かぶのを見て、イリスは嬉しく思った。感情を取り戻して欲しいと、強く願った。
「私は貴方をこのまま殺してしまいたくないのだ。人は心を殺しては、生きて行けないだろう」
ぽろり、とリヴは涙を流した。そしてくしゃくしゃに顔を歪めて、小さくイリス殿、と声に出したのだ。
「辛いです、悔しいです、イリス殿ぉ……っ」
「ああ、そうだろう。当然だ、それが当たり前だ、我慢するな」
わぁっと、まるで子供の様に、リヴは泣いた。彼は今初めて父の死を悼んだのだ。
しゃくりあげる彼の背を撫でながら、イリスも唇を噛んで堪える。もらい泣きをしてしまいそうだった。
「悲しいに決まっている、あんな最期。だから、私は貴方を連れて行きたいのだ」
「何処へ行くというのですか」
真っ赤な目を見開いて、リヴはイリスに問う。そうしてイリスは笑うのだ。
「私に考えがある」
と。