16 縁を深め
戦は一週間続いた。だがどちらも、本気で相手を攻め潰そうといった気迫はなかったように感じられる。どちらも守備に重きを置き、所々で小さな衝突が起こる程度だ。休戦協定が明けた事による、開戦の儀式のようなものだったのかも知れない。ルシアナも、恐らくバルクも、大きな被害のないまま停戦が相成ったのだった。
イリスは未だルシアナにいた。だが以前とは彼女の心持ちが違っていた。ビルディアに殴られ、諭された事は僅かながらでもイリスの考えを変えているのだ。彼女は、やはり帰りたいと思っていた。
だがイリスの暮らしは変わらない。心持ちが変われど、やはり日常はそのままに続いていくのだった。
今日もイリスはリヴの訓練を見ていた。何とか銃を扱える様になったリヴだったが、それは弓矢に比べれば程度だ。まだ他の兵と訓練を共に出来はしない。だから今日も他には誰もいない訓練所で、断続的に銃声を響かせていた。
「あ、当たりました!」
何発かを撃った後で、リヴは明るい声を上げた。的をよく見ると、端の方が僅かに煤けている。
「あ、当たったな、確かに」
正しくは掠めた、というが、今までに比べれば大きな成長であった。イリスは嬉しそうに見上げてくるリヴの頭を優しく撫でてやる。犬か猫を撫でている気分だ。
「銃だったらいけるかも知れませんね! ね、イリス殿」
「そうだな。随分とましだ」
笑って言えば、リヴはぷくっと膨れて不満を露わにしている。微笑ましく思って目を細めた時だ。
「うむ? あれは、兄上の奥方か」
「そうですね。イリス様ですよ、エイレス様」
振り返ると、出入り口で鍛錬用の木刀を手にこちらを窺っているのはエイレスだった。付き従うようにギルもいる。
「エイレス様、父上!」
リヴはエイレスに頭を下げながら、ギルに向かって親しげな笑みを浮かべた。
「ち、父上?」
「はい! 僕の父上です! 父上、紹介します。いつも僕の鍛錬を見てくださっているイリス殿です」
「ああ、話には聞いておりました。後代様の奥方様にご教授頂けるとは……息子は何と果報者でしょう」
「そ、そんな大げさな事では……」
親子揃って頭を下げる二人に恐縮して、イリスは両手を振った。そうやって並べば、なるほどリヴとギルはよく似ている。顔形がではない、にこにことした雰囲気がだ。
そうした三人が面白くなかったのだろうか、嫌悪感露わな尖った声でエイレスがギルを呼んだ。
「僕の鍛錬の筈だろう」
「そ、そうでしたね。申し訳ありませんエイレス様」
「もう良い。僕はこの方に教えてもらう」
ぷいっと顔を逸らして、エイレスはイリスのローブの袂を掴んだ。まだ子供の彼は腰の辺りから上目遣いで見つめてくる。
「良いだろう?」
まさかの展開に、イリスは焦った。ちらりとリヴを窺えば、リヴも正直だ。嫌とは言えないながらも、目を伏せている。ギルならばと助け船を期待したが、彼は、
「そうですね。よろしいですかイリス様」
と何故か促してくる。
イリスは戸惑いながらぎこちなく笑って、エイレスに言った。
「私で良ければ、そうしましょう」
その時のエイレスの顔を、イリスは一生忘れられない、と思った。刈り上げた紅い髪を揺らし、うんうんと頷いたエイレスは、頬を赤くして年相応の笑顔をイリスに向けたのだ。
アミヴァの言葉が蘇る。
──だが彼奴はじきにお前に懐く。
──お前が、母に似ているからだ。
だがイリスは頭を振ってそれを追い出した。今はまだ大丈夫だ、と自分に言い聞かせて。
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「お前が良いならば良いが」
そう前置きして、ユシリアは眉を寄せた。
習慣である夕刻の談笑の時だ。一時の事を思えば持ち直したといえるイリスだったが、人の良いユシリアはまだ気に掛けてくれているらしかった。未だに足繁く、イリスの元に通ってくれている。
「余りに心を移すと厄介だぞ」
前置きから暫しの間を置いて、ユシリアはそう言った。エイレスの事だと分かって、その物言いにイリスは目を瞬かせる。
「貴方は、誰の味方なんだ」
「何が」
「アミヴァと真逆の事を言っている」
イリスが言うと、ユシリアはまた眉を寄せた。じっと見つめて返答を促すと、彼はふいと視線を逸らしてしまう。
「なあ、貴方の姿勢が分からない」
「……少なくとも俺は、後代の考えとは違う」
「え」
今、ユシリアは何と言ったのか。ともすれば反逆だと言われかねない言葉に、イリスは唖然と口を開いた。
「狂わせて側になど、誰の為にもならない。真に側にいて欲しいのなら、愛しているのだと口にすれば良い。側にいてくれと乞えば良い」
「あ、愛して?」
「後代はそれもせぬままに、極端なのだ……。だから今のところ、俺はお前が病んでしまわないように、と思っている」
小さく言ってユシリアは目を伏せた。イリスはそれが信じられない。彼は明確に言ったのだ、イリスの味方だと。今のところという制約はつくものの、イリスにとっては喜ぶべき事だ。
「そうか、そうか」
ゆるゆると頬が上がるのを止められない。今とても情けない顔になっているだろうと、イリスは思った。
だがユシリアはイリスの表情に気付かぬままに、俯いて口に出すのだ。とんでもない問いを。
「お前は……後代を愛しているのか」
ぴしりとイリスが固まった事は無理からぬ事だろう。ここで何と返すべきかなど明らかなのだが、心を寄せる相手に尋ねられては戸惑うというものだ。特にイリスは初恋というものを今迎えている程の初心者なのだから。
そんな暫しの躊躇いをどう受け取ったのか、ユシリアがふ、と笑って息を吐き出した。それでやっとイリスは、何か言わなければと口を開いた。
「違うのだ!」
「な、何が」
「私は、アミヴァの事は想っていない。ない!」
「そ、そうか」
イリスの勢いに押されたのか、ユシリアはたじろぎながら笑みを浮かべた。彼独特の小さな笑みだ。いつも見慣れたそれの筈なのに、何故か、今イリスの顔はゆっくりと赤くなっていく。
「は、どうした、イリス」
「み、見るな!」
そう言ってイリスは赤く染まった頬を隠そうと、机に突っ伏した。もうどうすれば良いか分からない。今までは何とか想いを外に出すまいと抑えてきた筈なのに。
「貴方の所為だ、貴方が変な事を聞くから!」
「すまないな」
何故かユシリアは笑う。心底楽しそうに、だ。それがとても悔しくて、イリスは机に顔を押し当てたまま言う。
「酷いな。何故そんなにも楽しそうに笑う」
「ん、何故だろうな」
まだ赤い頬のまま顔を上げると、ユシリアは小さく笑って、不意に手を伸ばしてきた。一瞬だけ身体を固くして、イリスは前にもこんな事があったなとぼんやり思った。
だが以前は目の前を下りていったその手が、恐る恐るイリスの頬に触れる。そして赤くなった部分を辿る様に優しく撫でたのだ。
息が、止まるかと思った。ぎゅっと締め付けられた様に痛む胸を押さえて、イリスは浅く息を吐き出した。初めて触れた彼の手は、無骨で硬かった。だがそれ以上に優しく心地が良かった。
いつまでそうしていただろう。ユシリアは暫しイリスの頬を撫でて、そのまま一言も何も言わずに部屋を出て行った。彼が閉じた扉の音が、やけに大きく響いた。
「な、何だったのだ。今のは」
そう口にして、やっと時が動き出した。イリスは走って行って、鏡に自分の顔を映した。目に飛び込んで来たのは、林檎や夕日に例えて差し支えないほどの赤で。
イリスは撫でられた頬を手で押さえ、暫くの間真っ赤になって悶絶したのだった。