14 休戦協定
翌日の早朝の事だった。イリスは久々に廊下を歩いていたのだ。背後に付き従う衛兵も、戸惑いながら小走りで付いてきている。少しだけ、すっきりした気分だ。何故なら。
「イリス様、お戻りになりませんと」
「放っておけ。どうせ一人で食べるのだ、私がいなくても構うまい」
そう。イリスは朝食の時間だというのに、部屋を出ていたのだ。衛兵が戸惑っているのも当然だった。
ずっと引き篭もっていたイリスが、部屋にいるはずの時間にいないのだ。せいぜい驚いていれば良い。奴の思い通りになどなるものか。
「ふん」
鼻で笑って、今頃部屋で顔をしかめているだろうアミヴァを想像して、胸がすく心地になっていた。その時だ。
「イリス殿ーぉ!」
がつん、と背後に引っ張られて、イリスはたたらを踏んだ。その甲高い声色に、イリスの頰も久々に上がる。
「リヴ!」
「酷いです! 僕の事を急に見捨てるなんて! 一言あっても良いではないですか!」
「見捨てた訳ではない。……し、所用があったのだ。すまないな」
「そうなのですか? ユシリア様に尋ねても顔をしかめなさるだけなので、てっきり見捨てられたとばかり……」
「大丈夫だ、また始めよう。ユシリアから借りた銃も置いたままだからな」
「良かった! ありがとうございます!」
ぱっと顔を輝かせるリヴを見遣って、イリスは思わず笑いを漏らした。
何故自分は部屋から出なかったのだろう、と。外に出れば、こんなにも可愛いらしい子が自分を待っていたのに。イリスは微笑みながら、リヴが次から次へと話す事を聞いていた。リヴはイリスに会わない暫くの間、ユシリアに少しだけ鍛錬を見てもらっていたらしい。
「ユシリア様は、無言で見て溜め息をつくだけでしたけどね」
「はは、想像がつく」
本当に彼には感謝が絶えない、そう思った時だ。リヴはとんでもない事を言い出したのだ。
「もう少ししたら、バルクとの休戦協定も明けますからね。しごいてもらわなくては」
「……何だと」
イリスは廊下の窓から外を窺う。この国はつい最近まで、吹雪に閉ざされていたのではなかったか。だが今は。
「太陽が見える……」
黒い空はどこだ、覆い尽くすほどの雪は。
もう暦の上では春なのだ。自分はどれほど長く閉じ篭っていたというのだ。帰るべき日が迫っているというのに。
「大丈夫、ですか。イリス殿」
「ああ、大丈夫だ。そうか、もうそんなになるのだな」
──ルシアナに来て。
様々な事があった。惑う事ばかりだった様な気がするが、それでも。今改めてバルクの名を聞けば、心から帰るのだと思えた。
「悪い、リヴ。私は一旦自室に戻る。少し用ができた」
「わかりました」
「後で、調練場で会おう」
「はい!」
軽い足取りで歩いていくリヴの後ろ姿を見送りながら、イリスは強い目をしていた。
アミヴァに会わねば、と。
自室に帰ると、やはり彼はイリスの想像した通りの顔で食事をしていた。帰ってきたイリスを見て、その目は更に呆れて細められたが。
「まさか部屋から出ているとは思わなかった」
「ふん。予想通りにいかなくて面白くないか」
「ほざけ」
アミヴァは口にバゲットのかけらを放り込むと、イリスを見遣った。
「で、何を嬉々としている。話したい事でもあるのだろう」
「そうだ」
イリスはつかつかとアミヴァに歩み寄る。椅子に腰を下ろすアミヴァを見下ろす様に立って口を開いた。
「休戦協定が明けると聞いた」
「そうだな。まさか忘れている訳ではあるまい」
「戦をするのか」
端的にそう問えば、アミヴァはふん、と鼻を鳴らして、そんな事か、と呟いた。
「我らが一方的にの様な言い方をするが、此度好戦的なのはあちらの気がするがな」
「何だと」
「えらく高圧的な書状を送ってきたものだ。休戦の間にあちらは大幅な軍備拡張を行ったようだな」
「では、まさか」
「売られた喧嘩は買う。当然だろう」
戦が起こる、と。アミヴァは淡々と言う。ではイリスは。
「私はどうすれば」
「何も変わらない。今まで通りに暮らせば良い」
「貴方に聞いた私が馬鹿だった」
イリスは溜め息を吐くと、頭を振った。アミヴァにまともな返答は望むべきでなかったのだ。
「私も戦に連れて行け」
「無論、そのつもりだ」
イリスが言った事は、かなり突拍子もない事だったろう。が彼の返答もまた、突拍子もないものだった。
イリスは逃げる為に戦に出たい。相手は自分の国なのだから、うってつけだ。であれば何故アミヴァは、イリスを戦に出すというのか。
「まさか、私がルシアナの為に戦うとは思っていないな」
「お前こそ、私がお前をおいそれと逃がすと思うか」
かたん、と食器の音を立てて、アミヴァは立ち上がった。彼の冷たい笑みを顔に張り付けて。
「私に敵う兵が何人いるか」
「ふ、お前にはもう枷が沢山付いているではないか」
「何が、枷か。私はずっと帰ると!」
ゆっくりと、アミヴァは口を開いた。そして、
「エイレス」
「リヴ」
「あと、ユシリア」
と、三人の名を呼んで、そして流し目で嗤った。この顔を見るとイリスの頭は揺れる。まるで洗脳されているようだと思った。
「私が促しもしないのに、よくもまあ自ら枷を作ったものだ」
「三人が、どうした」
「お前はどうやら情が深い。ならばお前の弟や親しくしていた二人を質とすれば、お前は動けまい」
「はっ。馬鹿な。エイレスは皇帝の息子、ユシリアは腹心、リヴは名のある軍師だ。簡単にどうにか出来はしないだろう」
イリスは笑って吐き捨てた。
交渉にしたって無茶苦茶過ぎる、と。だが彼は酷薄な笑みを湛え続ける。間違っているのはイリスの方だという様に。
「私はな、イリス。次期皇帝なのだよ。そして今の皇帝がどういう治世をしているか、お前も知っているだろう」
「……恐怖、政治か?」
「正解だ。それが、我らには許される」
がくん、と身体から力が抜けるのを、イリスには止められなかった。床に崩折れるように手を突くと、頭上でくつくつと笑い声が聞こえる。
まるで跪いて赦しを請うているような格好だ、と思ったが、イリスは立ち上がれなかった。そんな彼女にもアミヴァはまだ追い打ちをかけてくる。
「ユシリアは気に入らないのだ。私が何も言わない所為か、最近の彼奴は遠慮がなくなってきた様だからな」
「馬鹿なっ!」
思わず声を上げると、アミヴァは満足げに嗤う。イリスが打ちひしがれるのがとても楽しい、という様だ。床に着いた手をぎゅっと握って、屈辱に耐える。
「狂っている、この国は」
「それが父の教えだ」
唇をきつく噛んで、鉄の味が広がっても強く噛んで、イリスは渦巻く感情に耐えていた。




