13 理性と狂気
その日の夜、夕飯に来るアミヴァを待つイリスの表情は険しいものだった。当たり前だ、アミヴァの見せた面白いものとやらは、イリスにとっても興味深いものだったのだから。
扉を開ける音と共に彼の神経質な顔が覗いた瞬間、イリスは危うく近くに置いてあった本を投げ付けそうになった。何故なら彼が、イリスの顔を見るなり満足そうに笑ったからだ。
「思った通りの反応だな」
「は。性格の悪い事だ、今頃になって母の息子の存在を明かすとはな」
「私の性格が良いと思っていたのか? 面白い事を言う」
「貴方を性格が良い奴だと思った事などない。更に実感しただけだ」
「そうか。それに、母の息子、ではない。お前の弟だ、血の繋がったな」
満足そうに笑うアミヴァに、思わず水をぶっかけてしまった事は致し方ないだろう。冷静に見せかけていても、今イリスは酷く怒っていた。
「確かに、血の繋がった弟だ。だがな、同時に仇の血の繋がった息子でもある。確かに庇護すべき者なのだろうが、忌々しい者でもあるのだ」
「それはその通りだろう」
彼の細い髪の先から、ぽとりと雫が滴っている。濡れた髪を掻き上げて、それでもアミヴァは笑う。イリスが戸惑っている事がとても楽しい、という様に。
水をかけられた事など、彼には取るに足らない事だったのだ。
「だが彼奴自身に罪はあるのか。奴も哀れな子なのだぞ」
イリスの心の隙を突く様な言葉だ。耳を塞ぎたくなって、イリスは彼を睨んだ。だがそれで口を噤むアミヴァではない。
「母に疎まれ、兄に蔑まれ。愛情を知らずに育った。だが彼奴も君主の息子だ、利用せんとする輩もいる。其奴らの甘言をまともに受けて、次期皇帝に成り代われると思っている。哀れな子供だ」
にたりと笑いながら話す内容は、果たして血の繋がった弟に対するものなのだろうか。言葉の端々に嫌悪を露わにして、アミヴァは吐き捨てる様に話す。
「お前はいずれ見捨てられなくなるだろう」
「貴方たちの問題だ。私の知った事ではない」
「だが彼奴はじきにお前に懐く。断言してやろう」
「どうして言い切れる」
「お前が、母に似ているからだ」
くつくつと笑いながら、アミヴァはイリスの神経を逆撫でする事ばかりを言う。
思わずアミヴァに飛び掛ったイリスは、その掌で彼の喉元を掴んだ。がしゃん、と机の上の食器が音を立てた。
いくらアミヴァにも武の心得があったとて、イリスのそれには敵わない。ぐう、と声を漏らしながら苦しそうに眉を寄せている。
「お前を殺しても、私には不利にしかならない。国を脱する事が出来ぬまま処されるだけだろう」
イリスは、青い顔で薄く目を開くアミヴァに顔を近づける。煮え滾る憎悪を口から吐き出すようにして、アミヴァの耳に口を寄せた。
「だがな、そんな理性もいつまで続くか分からぬ。私は狂えばきっと後先考えずにお前を殺す。攻め方を間違えるなよ」
そう怒りに掠れた声で囁いた。直情型の彼女には珍しい、脅しだった。
アミヴァの喉を掴んでいた手を離すと、ひゅうと呼吸音が漏れて、彼は膝をついた。赤く痣になった首を押さえて咳き込んでいる。だが彼は苦しそうな顔のまま、笑って言ったのだ。
「お前も、順調に病んでいっている」
と。
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次第にイリスは部屋に閉じ籠るようになっていった。それが自分の心を殺す事になってしまうと分かっていても、イリスにはもう気力が湧いてこなかった。
夕刻になって日が沈むのを見て、ああ今日もリヴの訓練をすっぽかしてしまった、と思うのだ。ユシリアから借りた銃も渡せぬまま、未だに戸棚に立て掛けてある。それを触る事すら怖くて出来なかった。
アミヴァはやはり毎日、食事の時にやって来ている。今となっては食べているのは彼だけで、イリスは彼の顔を見ながら何かを口にする心境ではなかった。アミヴァはそれを満足そうに見つめて、呪文の様にイリスの心を揺さぶって帰って行く。
彼の言うとおり、順調に病んでしまっているのかも知れなかった。
だがそんな暮らしの中で唯一、イリスが正気を保っている時間があった。
「また何も食べていないのか」
ユシリアは溜め息を吐きながら、イリスの前に切った果物らしきものを置いた。瑞々しい雫を湛えたそれは、今日初めてイリスの食欲を刺激する。
いつも彼が持って来ていた手土産が、食べ物に変わってどれくらいだろう。もうわからないくらい長い間、イリスはユシリアの持って来る手土産だけを口にしていた。隔日で来ていた彼も、今では毎日イリスの様子を見に来るようになっている。
彼女が果物を口に運んだのを見て、ユシリアはイリスの向かいに腰を下ろした。
「リヴも心配している。俺にお前を連れて来いと煩いんだ」
「彼には悪い事をしていると思っているよ。だがな」
イリスは自嘲しながら口に果物を頬張った。味など分からない。ただ食べねば死ぬ、その危惧の為にだけ口に運んでいた。
「ついこの前まで、笑っていたと思っていたがな」
ユシリアはイリスの顔を見ながら、ぽつりと言う。いつかと同じ後悔に再び表情を歪ませながら。
「笑っている。今はまだ」
だがその顔に生気がないだろう事は、鏡を見なくても分かる。
「まだ大丈夫だ」
「だがお前、このままでは悪くなるばかりだろう」
「外に出るのが、嫌、なのかも知れないな」
「何があった」
今まで一度たりとも、ユシリアは自らイリスの内面に踏み込んで来る事などなかった。いつでも一線をひいて、当たり障りのない話をしていた。だが今初めて、ユシリアは尋ねてきたのだ。それが何故か嬉しくて、イリスは口に出すのも忌々しいその話を、ユシリアに言った。
「エイレスに会った」
「会ったのか」
「ふ、そうだな。皆知らぬ筈がないな。私は驚いたよ」
「そうだろうが……それが何故」
イリスは口を開きかけて、僅かに戸惑った。それをユシリアに口にするのは、大きな羞恥心を伴ったのだ。だがそれを告げねば、イリスのエイレスへの複雑な心境を説明出来そうになかった。
「エイレスさえいれば、紅鼠の血は途絶えない。私には子が成せぬから、エイレスの血を見捨てられない」
「は、え?」
「二度言わす気か。こういうのは上手く流すものだろう」
「あ、すまん」
ユシリアは気まずそうにイリスから目を逸らしてしまう。言わなければ良かったと、イリスは後悔した。少しでも心を傾けている相手にする話ではなかったかも知れない。
「まあ、そういう理由でだ。エイレスの存在をアミヴァはちらつかせる訳だ。この国に残れ、とな」
「なるほど、な。やはりアリスと同じだな」
「何だって」
「アリスもエイレス様を産んだ事で病んでしまった。紅鼠の血を引く子が、仇の子でもある事実にな」
ユシリアは伏し目がちに小さく言った。母の話をする時の決まった表情だ。イリスはユシリアの顔を見ながら、じっと聞いていた。
「ひとつ俺から忠告だ。血など関係ない。エイレス様は紛れもなく将軍の子だ」
「どういう、事だ」
「言葉通りだ。エイレス様は後代よりも将軍の血を色濃く受け継いでいる。お前が心を砕く必要はない」
きっぱりと言い切って、ユシリアは気遣わしげにイリスを見た。そして机の上に手を伸ばして、まだ果物の乗っている皿を突く。
「こうなってしまう前に、忘れた方が良い。母親のようになる前に」
そう簡単に思えたら、どんなにか楽だろう。だがやはりちらつくのは、母の血を受け継ぐ証の紅い髪だ。仇の子だからといって易易と見捨てられる程簡単な問題ではないはずだ、血の繋がりというものは。
「出来るだけ心に留めておく」
イリスは小さく笑って果物を口にする。少しだけ、甘味を感じた気がした。
「明日も来る。明日は無理矢理部屋から出してやろう」
「え」
腰を上げながら、ユシリアは軽口を言って微かに笑った。もう行ってしまうのか、と思わず少しだけ人恋しい顔になってしまった自覚がある。それにユシリアは気付いたのか、ユシリアは目を瞬かせた。
「お前、何て顔をする」
「え、な、何が」
「無意識か。恐ろしいものだな」
ユシリアはそう言って笑って、不意に手を伸ばしてきた。一瞬だけ身体を固くしてイリスは戸惑う。
だがユシリアの手はイリスに触れる事なく、目の前を下りていった。何事かと思ってユシリアを見遣ると。何故か彼は自分の伸ばしていた手を見つめ、酷く驚いている。
「本当に、無意識とは恐ろしいものだ」
微かに聞こえた彼の呟きは、何故か震えた声色で。イリスは胸を鷲掴まれた様に苦しくなった。鼓動の度に、つきんつきん、と痛みが走る。
ユシリアの方も暫く茫然と自分の掌を見つめていたが、やがて誤魔化す様に手を叩いてイリスを見た。
「さて。イリス、また明日」
そう言ってユシリアは部屋の扉を開けて出て行く。閉まってしまって動かない扉を、イリスは暫くじっと見つめていた。
「厄介な事ばかりだ」
と、小さく自嘲しながら。
明日になればイリスはユシリアに無理矢理外に出されるらしい。ならば、どうせならば、思い切って出てみれば良い。そう思った。
やはりユシリアの存在が唯一自分を保つ要因だったのだと、イリスは実感していた。もうどうにも、自分を誤魔化せそうになかった。