11 訓練とそして、
野外は吹雪の所為で、一歩も外に出られない。
だが軍事大国であるルシアナは、そんな冬でも兵の鍛錬を怠らなかった。屋根のあるだだっ広い建築物が王城から渡り廊下で繋がっている、そこが冬季のルシアナ兵の訓練場所だという。
「凄いな、こんなものがあるのだな」
「これがないと冬の間は訓練が出来ませんからね。僕はなかなか使わせてもらえませんけど」
そうリヴは頭を掻いて笑った。暫く共に訓練をした彼は、緊張もとれて冗談を言うくらいにまでなっていた。
「まあ、どちらに矢が飛ぶか分からぬとな」
「あ、まだ言いますか。酷いですよ」
そう言って、リヴは弓を握りしめた。今訓練所にはイリスとリヴしかいない。誰も使っていない時しか許可されていないから、当然なのだが。
「では、始めます」
そう言ってリヴは静かに弓を引いた。始めの頃に比べれば少しは格好がついている、と思いたい。引けている腰を軽く叩いてやれば、また少しましになった。だが。
「おっと」
ひゅん、と風を切る音が聞こえて、イリスは咄嗟に首を捻った。こんな至近距離で矢が掠める事も一度や二度ではない。やはり成長は、窺えなかった。
「的はあっちだぞ」
「は、はい。申し訳ありません」
リヴはまた弓を構える。焦りの所為か切っ先が小さく震えているのが分かって、イリスは腰を落とした。無論避ける為だ。
幸い、矢は真逆の壁へと刺さっている。だがその壁も的とは程遠い場所だった。
「うーん……ある意味芸術的だがな」
「嬉しくないです」
「だろうな」
リヴから弓を受け取り、一度イリスも構えてみる。的へ両の目を遣り、静かに矢を放つ。それは小気味のよい音を立てて、的の端の所に刺さった。
「何が駄目なのだろうな」
「イリス殿ぉ……」
情けない声を出して、リヴは眉を垂らした。無理もない、イリスが彼の訓練を見出してからもう一月近くになる。リヴも見放されやしないか、と不安になっているらしかった。
「弓矢は諦める、か?」
イリスがそう言うと、リヴは更に眉を下げて情けない顔をした。ただイリスも、匙を投げるつもりでそう切り出した訳ではない。
「リヴは、銃を持った事はあるか」
「銃、ですか」
「出来れば小型のものが良い。用意は出来るか」
「どうでしょう。銃は基本精鋭にしか持たされませんから」
やはり、銃事情はどの国も同じらしい。数の流通していない銃は、どこでも貴重らしかった。
「弓矢より、銃のが良いと思う。あれは銃身分の弾の助走があるから、狙った場所に行き易い筈だ。多分」
「ですが、僕が銃を欲しがるなんて恐れ多くてとても……」
「そうか。やはり無理かな」
そうして諦めかけた時だ。
「ん、先客か」
「ユシリア」
大きな槍を片手に訓練所の扉を開けたのは、ユシリアだった。先客のリヴとイリスの姿に、驚いて足を止めている。
「最近リヴの訓練を見ている物好きがいると聞いたが、お前だったのか」
「ああ。矢が掠めるという奇妙な縁だ」
「い、イリス殿!」
「その様子では成果は出ていないみたいだが」
ユシリアの直接的な言葉に、イリスは肩を竦めて見せた。さすがにそれに正直に返答してはリヴが可哀想だ。
「そうだ。ユシリア、銃はないか。出来れば小型のものが良い」
「あるにはある。が、どうするつもりだ」
「一つ、私に貸してもらえないか」
イリスの言葉に、ユシリアは腕を組んで考える仕草をする。だがそれは格好だけのものだろう。ユシリアの目は窺う様にイリスに向けられていた。
「何に使う」
「リヴは、弓矢より銃のがましではないかと思ってな」
「それは……」
窺う様な視線のまま、ユシリアは言葉を切った。
長身の彼が黙って睨みつけている、その状況に慣れているイリスは気にもしていなかったが、隣に立つリヴは気圧されている様だった。
「俺のものを貸す事は可能だ」
「ユシリアのものを?」
「ああ、全く使っていないものだが……」
「ならば構わないか?」
「それは、命令か」
──後代の妻、としての。
ユシリアの目が鋭く光った気がして、イリスも表情を改めた。二人にだけ解る視線の会話だ、リヴは張り詰めた空気に口を噤んで立っている。それを切ったのはイリスの溜め息だった。
「まさか。無理にとは言うまい。ただのお願い、だからな」
「そうか」
そして一瞬の逡巡の後、ユシリアは表情を緩めてゆっくりと頷いた。それが肯定の合図だと分かって、イリスは顔を輝かせる。
「だがイリス、お前がしっかりと監督しろ」
「分かっている」
「今日か明日、部屋に持って行く。怪我をするなよ」
「それはリヴ次第だな。な、リヴ」
と隣のリヴを窺うと、ただでさえ大きな瞳を更に丸くしてユシリアを見つめていた。いちいち反応が大きな子だ。
「何だリヴ。俺の顔ばかり見て」
「いえ……何でも」
「どうした? 喜べ、ユシリアが銃を貸してくれるそうだ」
そう言ってリヴの背中を軽く叩くと、彼の大きな瞳はくるりとイリスに向けられた。聞きたいけどどうしよう、そんな躊躇いがありありと窺える。リヴもまたわかり易い子だった。
「何だ。言いたい事があるなら言えば良いだろう」
「そうですか?……では」
リヴはこほん、と咳払いして顔を上げる。そして意を決した様に口を開いた。
「イリス殿は、ユシリア様の奥方様ですか?」
「はあ?」
顔を真っ赤にして叫んだリヴを、危うく叩く所だった。すんでで止まった右手を誤魔化す様に口元にやって、イリスは笑った。
「何がどうなってその結論なんだ」
「イリス殿がさるお方の奥方様だというのは噂です。で、お二人が余りに気安いのでそうかと。え、違うんですか?」
無邪気とは時に恐ろしいものだ。こんな話題をきらきらとした顔で尋ねられるのだから。
さて、何と説明したものか。ここではアミヴァの妻だ、と言うのが適当なのだろう。だが決して事実ではないだけ、すらりと口にするのは難しかった、のだ。
「私は……アミヴァの妻、だ」
途切れ途切れだが、イリスはそう言えた。
誰が聞いているか、分からない。どこから将軍の耳に入るか分からないのだ。そう言うしかなかった。当然の事だと思うのに、何故か胸が痛んだ。
「ええ! 後代様の奥方様ですか! わあ僕はなんて方に教わっていたのでしょう!」
はしゃぐリヴを、冷めた目で見る。酷く腹の底が冷えていて、不快だ。
ちらりとユシリアを見ると、彼は無表情のままイリスを見ていた。いつもは雄弁な彼の眉も口元も、何も語っていない。ただじっとイリスを見ているだけだ。
イリスはその視線から目を逸らし、リヴをぽんと叩く。
「落ち着け。とりあえず銃の件は後日だからな、今日は弓を続けよう」
そうしてリヴがぎりぎりと弓を引くのを見ながら、イリスは上の空だった。
何故か最近時たま言葉に出来ぬ痛みが胸を刺す事がある。それが何であるか、イリスにはまだ分かっていなかった。
□□□□
ユシリアは約束した通り、その日の夕刻には銃を持ってきてくれた。
拳銃まではいかないが軍で使うには小さいそれは、イリスの要望通りのものだった。明日リヴに渡そうと戸棚に立て掛けておいた銃を、見咎めたのは夕飯にやってきたアミヴァだった。
「ほお、籠絡したか。意外に早かったものだな」
不機嫌そうに眉を寄せたアミヴァは、つかつかとイリスに掴み寄ってきた。茶を注いでいたイリスは咄嗟の事に反応出来ないでいた。
「何だ、落ち着け」
「お前は本当に苛つかせてくれる。私への当て付けか、それで私を殺すか」
何が逆鱗に触れてしまったのか、爪が食い込む程に肩をぎゅっと掴んでいるアミヴァは、いつかのように狂気を孕んでいた。目を血走らせてだがそれでも、嗤っている。
「どうすれば良い、私は何を間違えたというのだ」
「アミヴァ、落ち着け。あれはリヴの訓練に使う為にだな……」
「ユシリアもお前にとって仇には違いないだろう。何故、奴なのだ……」
最後は掠れて声になっていなかった。
彼はイリスの肩を掴んだまま、俯いて震えている。泣いているのか、と思ったが、イリスには触れる事さえ躊躇われた。慰める事が酷く、残酷な事の様に思えたのだ。
「アミヴァ、何を言っているのか分からない。急に激昂するな」
だからわざと冷静にそう言って、身体をよじってアミヴァから逃れる。アミヴァの眉がぎゅっと歪んだ。
「私にそれを言わせるか。本当にお前は忌々しい」
「お前の含んだ様な言い方は、私には難しいのだ」
「ほう、ならば言ってやる。お前も悔やめばよい。己の愚かさを」
歯を見せて酷薄ににたりと。アミヴァは嗤って言ったのだ。
──お前はユシリアを、仇を、想っているのだろう、と。