9 可愛らしい兵
朝食を済ませたイリスは、今は王城の中を歩いていた。
慣れとは恐ろしいものだと思う。今や歩くイリスの後ろには、身軽な軽装をした衛兵が付き従っていた。それが、当たり前になっていた。
始めこそ、時間があればイリスと衛兵たちの攻防が繰り広げられていたが、今ではお互いに距離が測れる様になっていたのだ。彼らも仕事だ、余りに邪険にするのは可哀想だろうと、イリスが思い直した所為でもあるかも知れない。
「今から兵の調練場に行きたいのだが。アミヴァの許可は貰っている」
「ではご案内致します」
イリスが兵の訓練を見にいくのは初めてではない。最初こそアミヴァも渋い顔をしていたが、訓練に参加する訳ではないから、と納得させたのだ。そしてそれは今ではイリスの生活の一部ともなっていた。
やはり種族の血の為か、イリスは戦いから離れて生きていけそうもなかった。
調練場を近くに臨める場所に、一脚の椅子が置かれている。そこがイリスの場所だ。イリスが腰を下ろすと、衛兵は静かに姿を消した。イリスの邪魔にならぬ様にとの配慮なのだろうが、背後にひしひしと気配と視線を感じて、イリスは苦笑した。
そうして兵の訓練を、じりじりとしながら見ていた時だった。
「危ないっ!」
と、甲高い悲鳴が聞こえ、目の端に矢が迫っているのが見えたのだ。
だが、イリスは冷静だった。ローブを翻して椅子から転げると、椅子の脚を蹴り上げて座面で矢を受け止めたのだ。
流れる様なイリスの一連の動きに、飛び出してきた衛兵はあんぐりと口を開けている。彼らだけではない、調練場で訓練をしていた兵たちも皆唖然とイリスを見ていた。
「申し訳ございませんでした!」
兵の一人が進み出し、イリスの前で勢い良く頭を下げる。この高い声は先程悲鳴を上げた者だと気付いたイリスは、座面から矢を引き抜いて座って笑った。
「大丈夫だ。だが何故こちらに矢が飛んで来たのだ。此処は的とは逆方向だが」
責める様な口ぶりに聞こえたのだろうか、目の前で頭を下げる兵はびくりと肩を揺らせて顔を上げた。その顔を見て、イリスはえ、と声を漏らした。
長い栗色の髪を後頭部で一つに纏めている兵。兵にしては小柄で甲高い声の持ち主のこの者は。
「……女か? 子供か?」
イリスの言葉に目の前の兵は、顔を真っ赤にした。大きな目を更に丸くして赤い頰を押さえているその表情は、生娘が照れている様にしか見えない。
「珍しいな。ルシアナにも女兵がいたとは」
「お言葉ですが……僕は、女でも子供でもありません……」
おずおずとそう言う兵に、イリスはしまったと口を押さえた。とんだ失言だ。
「すまない。えらく可愛らしい顔をしていたものだから」
イリスの言い訳は更に墓穴を掘るものだった。
弓の訓練をする兵が、可愛らしいなどと言われて喜ぶ筈がないのだ。現に目の前の兵も困った様に忙しなく目を動かしている。
「は、話を元に戻そうか。何故こちらに矢が飛んできたか、分かるか」
自分の失言を誤魔化す様に咳払いをして、イリスは無理矢理話題を変えた。だがこれは看過出来ない事でもあるのだ。もしかしたら、命を狙われている、という状況かも知れぬのだから。
だが兵の返答は、イリスの予想を大きく裏切るものだった。
「申し訳ございません! 僕、武術が苦手で……特にどうしても弓が……」
なんと、真面目にして的と正反対の方向に飛ぶ程の腕なのだという。笑ってはいけない、とイリスも分かっている。だが目の前で小動物の様に震える兵を見ていると、
「……ふ」
堪えられる筈もなかった。
笑われて更に顔を赤くしている兵を見ていると、何とも言えない庇護欲に駆られる。子供ではない、と彼は言ったが、まだ十代半ばくらいであろう。いやそうであって欲しい。
「名前は?」
「は、え?」
「私はイリス。貴方の名を教えてくれないか」
ゆたりと笑んで、イリスが尋ねると、兵は真っ赤なまま口をもごもごと動かした。惑う様に視線を動かすと、小さな声で答える。
「リヴ、です」
「リヴだな。覚えておこう」
悪い意味で言ったのではないのだが、リヴはびくりと肩を震わせて怯えた表情をした。何だか、いちいち可愛らしい奴だ。
「では、私は行こう。リヴ、励めよ」
出来る限り優しい声色で、イリスはリヴを激励した。
この殺伐とした国で、何だか癒される物を見た気分だ。自室に向かって歩くイリスの頰には、笑みが浮かんでいた。
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「聞いたぞ。大立ち回りを演じたらしいではないか。あまり目立つなといつも言っているだろう」
部屋へ入ってくるなり、アミヴァはそう言って眉を下げていた。言うだけ無駄だろうが、と呟きながら、それでも形だけの注意をする。
「頭に矢が刺さった方が目立ったと思うが」
「そうならぬ様に見張りを付けているのだろう」
「私が避ける方が早い」
きっぱりと言い切ると、アミヴァは呆れた様に笑ってふん、と鼻を鳴らした。
「そう言えば、面白い兵を見た。真っ直ぐ放った筈の矢が後ろに飛ぶというとんでもない奴だ」
「ああ、彼奴か」
「しかも兵の筈が、武術が苦手だと言っていた」
「彼奴は兵ではない。そこそこ名のある軍師なのだぞ」
「は、え、軍師?」
あの子供の様な風貌の彼が、軍師だという。一体いくつだというのだろう。
「子供にしか見えぬが」
「子供には違いない。まだ十六か七、そこらだ。だが軍師となってもう五年になる」
「す、凄い英才なのだな」
「奴の父親も政務官をしている。代々我が家系に仕えているらしい」
「そうなのか。……ならば何故軍師が弓の訓練など。必要なのか」
「我が軍は、軍師といえどある程度の武術は扱えねばならない。だが彼奴は駄目だ。もう指揮官も諦めているだろう」
ふうん、と返事をしながら、朝のリヴの様子を思い出す。赤面しながら震えておろおろする様子はまるで。
「小動物の様だった」
含み笑いでそう呟けば、何故かアミヴァが眉をひそめた。
「何だ、お前。ああいったのが好きなのか」
「下らぬ事を言う口は捻ってやろう」
「冗談だ。むきになると怪しいのだぞ、こういうものは」
そう言って笑う。
近頃のアミヴァは、酷薄な笑みを浮かべながらも、少しだけ優しい。こうしてふざける事も少なくないのだ。それを良しとしている自分は、少し懐柔されかかっているのかも知れない。
そう考えて、イリスは頭を振った。頑としているだけでは状況は良くならないのだ、と思い直して。
「また調練場にいるだろうか」
「何だ、やっぱり好きなのだな」
「口を千切るぞ」
軽口を言いながら、イリスも自身の頰が緩むのを自覚していた。
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数日後、再びイリスは軽装の衛兵を伴って調練場に来ていた。ただ兵の訓練を見るためだけではない、その胸には小さな企図があったのだ。
そこで兵たちに混じって、とりわけ小柄な兵が槍を振るっているのを見つけて、イリスは薄く笑んだ。やはり彼は武術が苦手なのだろう、腰も引けて酷く不恰好だった。
「リヴ」
訓練が終わった頃を見計らって、イリスはかの可愛らしい軍師の名を呼んだ。
「あっ……イリス様」
「様、なんてやめてくれ。私はそんな立場の者ではないよ」
「え、では何とお呼びすれば」
「イリス、と。私自身は立場のないただの女人なのだから」
イリスが極めて優しくそう言うと、リヴは困った様に手をもじもじと弄んだ。全く、いちいち行動があどけないのだ。
「そうだ、リヴ。訓練の調子はどうだ」
「あは、僕はてんで駄目なのですよ。いくら教えられても、どうしても出来なくて。上官にも呆れられてしまっています」
そうして俯くリヴ。さらりと絹糸の様な滑らかな栗色の髪が、彼の頰にかかった。しめた、とイリスの口は歪んでいる事だろう。それにリヴは気付かないでいる。
「私が見てやろうか」
「え、貴女が?」
「ああ。武術は君の上官たちには負けぬ自信があるのだが、どうだろう」
リヴは、ぱたぱたと大きな目をしばたたいた。意外だと、その表情が語っている。
イリスは何としても、この約をつけねばならないのだ。更に言い募る。
「一人でするよりはずっと建設的だと思うぞ」
「ですが、きっと失望させます……」
「大丈夫だ。最初にあれを見せられているからな」
そう言って、イリスは手で弓矢を放つ真似をして笑った。冗談めかしたつもりだが、リヴは申し訳なさそうに眉を寄せてしまった。
「無理に、とは言わない。だが私は君を育ててみたいと思ったが」
まるで、彼の可能性を見出した様な言い草だ、とイリスは思った。だがイリスは決してリヴの為にそれを言い出したのではないのだ。彼の鍛錬を見る、そんな名目があれば武に触れられるだろう。イリスにはそんな企図があっただけだ。
「では……よろしくお願いします」
そう言って恥ずかしそうに笑うリヴは、イリスの考えなど露ほども知らないのだ。思った通りに事が進んで満足な筈なのに、リヴの真っ直ぐな笑顔を見せられたイリスの表情は、少し強張っていたのだった。