3 初陣
長い行軍を続ける事三晩、王城から遠く離れた東のルシアナとの国境付近の関所に着いたのは、四日目の真昼だった。砂漠の多いバルク国内を行軍するのは酷く体力を消耗し、兵たちはみな一様に疲れた様子を見せていた。
関所に隣接する砦に陣を張り、野営の準備が出来る頃には日が沈み、篝火が灯される。昼間の暑さは消え去り、腰を落ち着けた兵たちは安堵の表情を浮かべていた。
この行軍に参加したのは、軍部でも指折りの騎馬小隊と、セスタ司令補佐の直属の小隊だった。どちらも精鋭で、バルク王国のルシアナ帝国への警戒が窺えるようだ。
そんな話を兵卒仲間と食事をしながらしていると、セスタがやってきた。セスタは軍事司令補佐だ。寒い野外の陣幕などに来ずとも砦の中に居室があり、充分な食事が準備されている筈なのだが。
皆が驚きを露わにしていると、セスタはイリスを見つけて心配そうに駆け寄ってきた。
「本当に大丈夫なのかな」
「は、何がでしょう」
「何がって……シェコー殿が見たら泣くだろう、大事な娘が男に囲まれて野営など」
「御心配には及びません。危険はありません」
そう。早くも兵卒たちの間では、イリスがシェコーの娘だと話が広がっていた。義父の権力を傘に着るようだったが背に腹は変えられぬ、女一人が男だらけの陣幕に入るのだ、何か安心材料が欲しかったのでイリスは幸いと思っていた。国王の覚えめでたい薬師の娘だ、兵卒たちが手を出せよう筈もない。
現に今や兵卒仲間たちは、イリスに普通に接してくれていた。
「私も君には少し責任を感じているのだ。私の言葉で君は軍に入った様なものだから、何かあればシェコー殿に申し訳がたたない」
「セスタ殿、貴方の部下をご信頼下さい。貴方の部下は女性に無体を働くような下衆ではありますまい」
「それもそうだが……」
「それに私も軍内では一兵卒。余りの特別扱いは要らぬ嫉みを呼びます」
「もっともだ」
「でしたら、何も御心配には及びません」
「そう、か」
若干言いこめた感はあるが、セスタは納得した様に砦へと帰って行った。
イリスは守られたいとは思わない。何かあればそれは自分が弱い所為だと思う覚悟は既にあったのだ。
だがそんな心配は、軍に余裕があってこそだったと痛感させられる。
ある報せがもたらされたのはバルク王国軍が砦に着いて一日も経たずだった。ルシアナは既に国境付近に絶大な軍備をしいていた。
ルシアナ帝国とは、つい7年前まで大陸の殆どを統治していたアスランの軍部が勝手に独立、建国した国である。
帝国とは名ばかりで、かつてのアスラン軍部総司令が皇帝を名乗り統治している軍事国家である。故に軍部の抜けたアスランや建国して間なしのバルクの中で、その軍事力は群を抜いているのだ。
相手は悠然と待ち構えていたのだ、バルク軍が布陣したその時を。それはまるで軍の力を見せつける如き布陣だった。
そして三国の均衡が崩れる瞬間だったのだ。
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「何故、ルシアナはこんな大掛かりな戦を仕掛け来るのだ!」
砦の中では軍師たちが頭を抱えていた。見通しが甘かったと言わざるを得ない。精鋭を集めたとはいえ、こちらは寡兵でしかも行軍直後だ。兵の士気も高いとは言い難かった。
「籠城して、近くの駐屯地まで伝令を出しましょう。幸いここは築城の名手と名高い政務補佐のサミーア様設計の鉄壁の砦。いくらルシアナが兵力で勝るとしても、簡単に落とせはしません」
「そんな、それでは伝令がよい的になってしまうではないか」
「尤もですな。ですから囮の兵をいくつか出すしかありません」
「ではセスタ殿、ご命令を。伝令兵と囮に指令をお出し下さいませ」
軍議に出ていた軍師たちがそう結論を出し、セスタは渋い顔をして頷いた。
誰も死ぬななどと綺麗事を言う質でもない彼だが、死番の指令を出す事に躊躇いを感じない筈もなかった。
だからその指令を兵士を集めて出した時に、囮に志願する隊があった事にセスタは酷く驚いた。そしてその隊がイリスの属する個隊だと気付き、セスタの目は更に見開かれる。
「志願は有り難い。だが何故そなたらは死番を志願する。理由如何によっては任す事が出来ぬやもしれぬ」
「は。兵の一人が、恐らく伝令を出す事になるだろうからと言い出しまして、皆で話し合いましたところ、我が個隊が出るのが一番良いとの結論に至りました」
「軍師たちが軍議中にか」
「は。砦の兵の配置を鑑みましてその様に至りました」
こんな事は初めてだった。良くも悪くも、兵とは上官の指令にのみ従うものだ。兵達が己の考えだけで何かを決めることなど皆無なのだから、セスタがその可能性を考えたのも無理からぬ事だった。
「上申した兵とは」
「は。我が個隊の兵卒、イリスであります」
やはりかと言いたげに、セスタは溜め息を吐いた。イリスならばやりかねないと、短い付き合いでもセスタは分かっていた。だがそれでも、セスタは否定する気にはならなかったのだ。
「現場のそなたらが話し合い決めたのなら、それが最善なのだろう」
「は。恐縮であります」
「では早々に伝令を出す様に」
「了解しました」
俄かに兵達の動きが慌ただしくなる。
このバルク王国軍にとって、小競り合いと呼べない戦は初めてだ。三国のうちで軍が戦を知らないのはバルクだけ、そんな苦しい状況に兵達が浮き足立つ中で、イリスはひどく落ち着いていた。
彼女はこの空気を知っていたのだ。記憶のある7年で戦に出た事などないから、以前失くした時間の中での事なのだろう。そして記憶にはなくとも、この劣勢で自分のすべき事を肌で感じていたのだ。
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「伝令部隊、陽動部隊出陣」
夜半草木も眠る頃、砦の鉄門扉がゆっくりと開かれる。人目を忍ぶ為に灯りを持たない早馬が駆けていくのを見送って、陽動部隊のイリスたちも馬を駆った。
闇夜の中におびただしい数の天幕が見えて、兵の寡多の差を見せつけられている様で部隊に動揺が走った。ルシアナの陣営に見える動く灯は見張りの兵か、慌ただしく動くそれは恐らく自分達の動きを報せるものだろう。
緊張に震える身体を叱咤しながら、轟音と共に押し寄せるルシアナの騎兵を見遣っていた。
「皆、死ぬな」
伍長が静かに言う。
当たり前だ、死ぬ訳にはいかない。軍に入ったばかりで戦果をあげずに殉じて、強くあると言えるものか。イリスは鉄の双鞭をヒュンと一振りして、声をあげた。
ルシアナの先駆隊と対したのはそれから間も無くだった。伝令部隊を無事に行かせられる、ギリギリまで敵を引きつける。これで一気に砦まで退却すれば、鉄砲隊が待ち受けているはずだ。先駆隊を壊滅させられれば籠城戦も少しは有利に進めらるのだ、そう出来るかはイリスたち陽動部隊にかかっている。
たった二十余人程の小隊が、百人程の先駆隊に対した。
囲まれない様に上手く馬を駆りながら武器を振るう。闇夜の中灯りもなく、敵と味方の区別もつかない。まるで一人きりで敵の大軍と対している様な錯覚を覚えながら夢中で鉄鞭を振るうと、抉れるような手ごたえと共に、生温かい液体が顔に飛沫く。疲労と血の感触で鞭を取り落としそうになりながら、ただただ鞭を振り回していた。
敵と味方が入り乱れ、あがる呻き声がどちらの声か分からない状況で、それが聞こえたのは奇跡だった。
伍長の名を呼ぶ、切羽詰まった声。伍長は確か退却の指示を出す手筈だった。もし伍長が倒れてしまえば、これ以降が総崩れになる恐れがある。
危惧したイリスは双鞭を力一杯振るってしんがりの方へ向かった。辿り着いてみればしんがりは敵の攻勢が激しく、数人の兵が敵に囲まれていた。恐らくここが引き際だろう。イリスは味方を囲む敵兵を双鞭で薙ぎ払いながら、腹の底から叫び声を上げる。
「伍長! 退却のご指示を!」
この喧騒の中イリスの声は届かないのか、伍長の合図の声は聞こえない。このままでは全滅だと考えたイリスは、意を決して声を上げた。
「退却ーーっ!」
イリスの甲高い声は戦の最中でも響き、そこここから生き残っている味方の声が上がる。後は遠くに見える砦の灯りめがけて走り、近くまで敵を引きつけるのみだ。
だがこの時こそ正念場。寡兵の我らが背を向ける、それこそ自殺行為なのだから。退却の指示に味方が動く中、イリスは未だその場に留まり武器を振るっていた。
恐らく、しんがりに配置していた伍長はいない。ならば自分がそれを務め、生き残っている者を無事に退却させよう。そう決意した時だった。
突如高いいななきと共にイリスが跨っていた軍馬のバランスが崩れた。手綱を強く握って耐えようとするが叶わず、意識を失ったらしい馬がどうと音を立てて倒れる。砂混じりの土壌に助けられ、衝撃はそれ程でもなかった。間一髪下敷きになるのは免れたものの、このままでは敵中に取り残されてしまう。
だがこの場でも、イリスは冷静だった。幸い周りは闇夜、イリスは無防備に立っていると数人にしか気付かれていない事を察知し、指示を出されては厄介だとその敵兵向かって鞭を振り上げたのだ。
イリスの武器は彼女の周りを這いながら、敵に向かって蛇の様に伸びた。鞭でありながら殺傷能力を高めた棘をもつそれは、突起で敵にしっかりと絡み付く。そこで力一杯引くと、鞭に縛られた敵兵はくぐもった声を出して馬上から姿を消した。その隙に主を失くした馬へ跨ると、馬は異変を感じて暴れようとしたが、イリスは今度こそ手綱を引いてそれを抑えた。
もう生きた味方は此処には残っていないだろう。味方の撤退が済んだ事を信じて、イリスはじりじりと退却を始めた。両の手で鉄鞭を振るいながら、砦目指して馬を駆る。
「放てーーっ!」
砦が近づくにつれ、曲輪にずらりと並ぶ砲兵の影が見え、薄っすらと合図の声が聞こえた。イリスたちの引きつけたルシアナの先駆隊に向かって、鉄砲が断続して放たれる。
皆に遅れて曲輪の門扉を駆けてくぐったイリスの馬は、その瞬間にいなないて前足を高く上げた。イリスはバランスを崩して石畳に強かに腰を打ち付けてしまった。声にならない呻きと共に上半身を起こすと、共に陽動部隊として出ていた兵卒が駆け寄って来た。
「大丈夫か⁉︎」
「あぁ、大事ない。皆の撤退は済んだのか」
「半分は済んでいる。ただ……」
そこで彼は口を噤んだ。
先は聞かなくても分かる気がする。この任務で、個隊半分の人を失ったのだ。イリスたちが戦っていた時間は僅かであっただろう、だがその熾烈さに生きて帰った皆も満身創痍であった。中にはほっとしたのか涙ぐむ者もいた。
「伍長はやはり……」
「あぁ。帰っていない。俺たちが帰る事が出来たのも、お前のお陰だ。よくぞあそこで退却の指示を出してくれた」
そうだそうだと声が上がる。伍長は早い段階で居なかったのだろう、犠牲を出しながらも何とか任務が達成できたのは、確かにイリスの判断に依るものだった。それがなくてはきっと伝令部隊もが無事ではなかったろうから。
「あぁ。良かった……」
大きな息と共にそう言って、イリスはへたり込んだ。生き残った陽動部隊の兵たちは皆イリスの側に固まって、お互いの無事と健闘を祝ったのだった。
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「何と、生きて帰っただと!」
地図を広げて額を寄せ合っていた軍師たちは、皆一様にその目を見開いた。伝令部隊を無事に出す為に出した目くらましの陽動部隊、それが半数とはいえ、任を終えて帰ったのだ。更に。
「は。伝令部隊は無事、敵の警戒を突破。引きつけた敵先駆隊も、自軍鉄砲隊によりほぼ壊滅、撤退したとの事です」
その朗報に、軍議に参加していた将校たちも俄かにざわめき出す。お通夜の様だった先程までの雰囲気と打って変わって、見えた光明に将校たちの士気は目に見えて上がっていた。そして軍議にて、援軍が到着し次第全軍で打って出ると決まったのだった。
極めて劣勢の状況打破に沸くバルク王国軍と、まさかの先駆隊撤退を喫したルシアナ軍。援軍が加わり兵力が拮抗した時にもの言ったのは兵の士気だった。劣勢に沈んでいたこの戦、蓋を開けてみればバルク王国軍は絶大な軍事力を誇るルシアナを辛くも退けたのだ。
だが喜んでもいられなかった。
ルシアナはこの戦を機に、バルク王国アスラン連邦両国に宣戦を布告したのだ。この先いつまでも、うまくいくとは限らない。バルクが全力で臨んだ此度の戦、ルシアナはアスランの方にも兵力を分散させていた。ルシアナの絶大な軍事力は健在なのだ。バルク王国内はルシアナ帝国の強気な宣言に頭を抱え、沈み込むしかなかった。