8 拠り所
王城へ入って、それだけで何かが変わる訳も無い。いや、一つだけイリスの暮らしの中で大きく変わった事があった。それがなくなって初めて、イリスはそれをとても大切に思っていたのだと気付いた。
かつん。指先で弾いたそれは、滑ってぶつかって高い音を響かせた。打ち手のいないひっくり返されたガラス駒が、盤上でゆらゆらと揺れている。
「退屈だ……」
そう呟いて気付く。鳥籠とも思えた東屋にいた頃こそ、退屈だったのではないか。ならば何故望んで王城に入った今の方が、窮屈に感じているのか。
──認めたくはなかったが。
もう一度、イリスは指先でガラス駒を弾く。やはりそれは高い音を立てて滑るだけだった。
がたりと音を立てて椅子から立ち上がったイリスは、わざと大きな音を立てて部屋の扉を開けた。扉の向こうには、顔を兜で隠した衛兵が二人立っている。口元しか窺えない彼らをイリスは一瞥して部屋を出る、と。
「何処へ行かれますか」
やはり来た、とイリスは眉を寄せる。前にも王城を歩こうとして、断念した事があった。その理由が彼らだ。
「どこという事はない。城の中を見てみたいだけだ」
「不要な外出は控えて頂きますようお願い致します」
「必要だ、私にとっては」
「では、場所をお伝え願います。我らもお供します故」
「だから、どこという事はないと」
先日はこれで負けた。だが今日は屈するものか。イリスは目元の見えない彼らを睨み、強引に部屋を出る。体当たりよろしく押し通ると、彼らの戸惑いがありありと窺えた。
「悪い事をするつもりはない。ただ歩きたいだけだ」
そう言って、イリスは一目散に走った。後ろでは衛兵の驚きの声と、がしゃんがしゃんと甲冑の走る音がする。静かな王城の中を女性と衛兵が走っている、すれ違う者は何事かと目を丸くしていた。
決してイリスは彼らをまこうと思っていた訳ではない。ただ予想外の事をして、無表情の衛兵の鼻を明かしてやりたいと思っただけなのだ。だが回廊を曲がって暫くして、背後に続く筈の甲冑の音が聞こえなくなって焦って振り返る。どうやら意図せずにまいてしまったらしい。
「アミヴァ、怒るのだろうな」
口に出すと酷く憂鬱になった。そして辺りを見回して、もっともっと憂鬱になった。ここが何処か、わからないのだ。だがそれも好機であろう。王城の中を少しでも見ておこうと、イリスは闇雲に足を進めたのだった。
それはイリスにとって幸運だった。灰色の肩までの髪、軍人らしい長身、目元程まである書類を足早に運んでいる後ろ姿を見つけて、イリスは嬉々として彼を追いかけた。
「ユシリア!」
ばさり、と。書類が辺りに散らばる。それ程驚かせてしまっただろうか、と焦って書類に手を伸ばすと、同じく書類に手を伸ばしているユシリアと目が合った。
「お前、こんな所で何をしている」
久々に聞いたユシリアの声は固い。それが何故なのかは分からないが、イリスは拾った書類を渡しながら笑みを浮かべた。悪い事をしている訳ではないのだ。
「散歩だ。王城に入って酷く退屈になった」
「散歩でこの辺りに来る訳がないだろう。供は何処だ、早く連れ帰ってもらえ」
「いなくなってしまった。彼らをもっと鍛えてやった方が良い。女にも追いつけぬとは」
「走ったのか。紅鼠に追いつけとは酷だぞ」
そう言って、ユシリアは仕方がないという様に眉を下げて笑う。口の端を僅かに曲げて笑う彼の顔を見て、イリスは久しぶりだと思った。
「貴方と軍戯が出来なくて、酷く退屈だったぞ」
まるで友にかける様な言葉だ。だがそれで間違いない。少なくともイリスは、ユシリアの顔を見なかった数日を退屈に感じていたのだから。
だがユシリアは、眉をひそめて言うのだ、
「お前は後代の妻だろう。そういう事は後代に言え」
と。
イリスは眉を寄せた。あの場ではそう言うのが最善だった、何せニキア将軍の前だったのだ。だが改まってアミヴァの妻だと言われると。
「ち」
嫌悪感ではない、が少しの苛立ちを感じてイリスは舌を打った。だがこの場で話が出来よう筈もない、誰がいるか分からないのだ。
「そうだ、ユシリア。私は東屋に行きたい」
「は? だから供に連れて行ってもらえ、と」
「迷ったのだ。是非連れて行ってくれないか」
「話を聞け。それに俺は書類を政務官にだな……」
「待つ」
きっぱりとイリスは言い切った。ユシリアが来なければ意味がないのだ。
ユシリアははぁ、と重い息を吐いて頭を掻いた。灰色の髪がわしゃわしゃと揺れてその苛立ちを表している、が。
「分かった。ならば付いて来い」
人の良い彼は折れるのだ。また利用してしまった気もするが、今は仕方がない。イリスが退屈に死んでしまわないかの瀬戸際なのだから。
そうして書類を持って足早に歩くユシリアの後ろを、イリスは付いて歩いたのだった。
「それで、俺を連れて来た理由は何だ」
東屋に着くなりそう尋ねるユシリアを見遣って、イリスは口を噤んだ。話さなければいけない事が沢山ありすぎて、何から話せば良いのか分からないのだ。だからまず始めに口に出したのは、
「すまなかった」
という謝罪の言葉だった。
「何がだ」
「貴方が気を掛けてくれたのは、将軍に娶られる女だと勘違いしていた為だと気付いていて訂正しなかった」
「ああ。あれか」
合点がいった、という風にユシリアは頷いた。特に気分を害している訳ではないが、疑問には感じているようだ。イリスの目を見て、続きを話せと促している。
「私は、バルクの人質だ」
「は、人質……?」
「アミヴァは確かに私を妻にしたいと言っている。だが私は、正しくは休戦協定の人質として連れて来られたのだ」
「……それを、何故俺に言う」
「言えば、貴方は将軍に上申するか。私を牢に入れるか?」
決して楽観したつもりはない。だがユシリアに告げても、そうならないであろう事がイリスには分かった。
ユシリアは甘いだけの人間ではないだろうが、彼は確かに初対面の女に心を砕くくらいのお人好しなのだ。そしてイリスが確信を持つ程には馴れたのだから。
「貴方に気遣われる理由など、私にはない。だが私は貴方との時間を拠り所にはしていた」
「だから、話したと言うのか」
イリスの言葉は、果たして策謀なのか本心なのか、自分でも分からない。だが確かなのは、イリスはこの人の良い彼とこの先も付き合っていきたいという事だ。
「アリスの娘なのだろう。ならば何故俺にそう言う」
──仇なのだろう、と。言外にしてユシリアは俯いた。彼も恐らく揺れているのだ、彼の楔を意識させるイリスの風貌の所為で。ただの哀れな女ではないが、ただの人質でもない、イリスの存在に。
「確かに、貴方は仇だ。だが今私は自分の平穏を優先している、それはいけない事か?」
仇国に一人でいて、帰る術などなくて、そんな生活で僅かでも拠り所を求めるのは。自分に罪悪感を抱いている彼を少しでも好ましく思うのは。
「私は、罪深いのか」
仇である彼に、憎しみだけを抱いていないのは。
母は、郷里の者は、今のイリスを責めるのだろうか。セスタやビルディアは、心の弱い女だと軽蔑するだろうか。
「赦されたいとは思っていない。俺も一人の軍人だ。覚悟を持って戦場に立っている」
「分かっている。弱き者が淘汰されるのは世の常だ」
「確かにお前の言う通りに紅鼠の国に対しては罪悪感がある。それは認めよう。だが……」
一旦そこで言葉を切って、ユシリアはイリスを見た。暫しの沈黙で二人はお互いを窺う。相手の心の底を窺う様に。
だが二人はどちらも、正直で実直なのだ。お互いの迷い戸惑いが窺われるだけだった。
「俺は、将軍に多大な恩がある」
だから将軍の意に添わぬ事はしない、そう念を押された様だった。だがそれは分かりきった事だ、イリスも彼にそこまでを求めていないのだから。
「だから、私と戯れる事も出来ない、と?」
「そうは言っていない。だが……」
「なら問題ないだろう」
きっぱりとイリスが言い切ったのを聞いて、ユシリアは苦笑した。
「お前、それで良いのか」
「アミヴァの勝手で連れてこられたのだ。私とて好きにするさ、怒られぬ程度にな」
「本当に人質なのか、お前」
「ふてぶてしいものだろう」
「自分で言うか」
ユシリアは笑った。イリスも笑った。
はたから見れば二人は紛れもなく友人に見えるだろう。だが二人にはそれぞれ、簡単にはそう認められない小さなしこりの様なものがあった。
イリスはそれを、見ぬふりする事に決めたのだ。この国で彼女が少しでも心穏やかに過ごす為には、必要な事だった。