6 変わらぬ日々
すだれの隙間を差す光で、イリスは目蓋をゆるゆると持ち上げた。
昨日はとんでもない一日だった。あれほど衝撃的な話ばかり聞かされる日があって良いのだろうか、いやいけない。イリスは痛む頭を押さえつつ、寝台から身体を起こした。
「やっと起きたのか。もう昼前だ」
声が聞こえ、イリスはばっと身を翻して構えをとる。だが椅子に座って茶をすするアミヴァは、昨夜の形相を露ほども感じさせないもので。
「何をふざけている。早く朝食にしろ」
イリスは戸惑いに目をしばたたかせたのだった。昨夜の様子を思い返せばイリスの疑問は無理からぬものだと思うのだが、アミヴァはそれを煩わしそうに鼻で笑うだけだ。首を傾げるイリスを見遣って、アミヴァは笑みのまま話し始めた。
「まさか、お前あれで何か変わるとでも思ったのか」
「なんだと」
「それ程短絡的な事を考えてはいまいな。お前が昨夜知り得た情報は、お前にとっては大きなものだったろう。だがな」
そこでアミヴァは言葉を切って、にやりと嗤う。やはりこの笑いがイリスには気に入らなかった。そんなイリスの嫌悪感を感じたのか、アミヴァは一層その笑みを深くして、口を開く。
「こちらにしたら、お前に与えた情報は全てお前が持っている筈のものだ。それを与えたからといって何も変わらない」
「何が言いたい」
「お前は私が味方になるとでも思ったか。ユシリアを懐柔できるとでも考えたか。もしそうならば、楽観的過ぎて心配になるな」
「そんな事は考えていない。誰が貴方などを頼るか」
「ならば良い。早く諦めてしまえばよい。楽になる」
「諦めて、いつか病んでしまえと? 母の様に」
「お前は、アリスとは違うだろう。少なくとも一度は、私と共になる事を認めていたのだからな」
「だから! 私はその記憶がないのだと何度言えば……」
「もう良い、その話は昨日もした。これ以上しても平行線だ」
苛立たしげに言ってアミヴァはかちりと音を立ててカップを置いた。そしてゆっくりと立ち上がり、寝台の側のイリスに歩み寄って来る。
「こうして、変わらぬ日々を過ごすのだ。そしていつか、思い出せば良い。死んだと思っていた7年に比ぶれば、今は私にとって、願ってもないものだ」
この言葉こそ、アミヴァの目的であり真意なのだ。それにイリスは今初めて、何故か、僅かな罪悪感を抱いた。しかし。
「そうならぬ様に、私は努める。いつか必ず帰るのだ」
イリスの決意は変わらない。やはりこの話はいつまでも平行線だった。
アミヴァは気を悪くした様子もなくイリスから目を逸らすと、机の上にあるガラス盤に目を移した。
「六道軍戯か。初めてならばユシリアくらいの相手のがやり易いだろうが……。何か、間男の物が増えたような気分だな」
「は……っ、何を馬鹿な」
イリスが嘲ると、アミヴァは冗談だと笑った。
そうだ、真実を知ったとて何も変わらない。イリスが何も動かなければきっと、このまま時が過ぎていく。イリスが知るべきは変わらない過去ではなく、これから選び取れる未来なのだから。
「一戦相手をする気はないか」
言って、イリスはガラス盤の前に座る。そしてじゃらじゃらと駒の巾着を振るってアミヴァの顔を見ると。
「私は負けた事などないぞ」
向かいに座って笑うアミヴァの顔は、ほんの少しだけ優しげに見えたのだった。
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前回、母の話を聞いたイリスは気まずいままにユシリアを見送ったのだ。だからもう二度と彼が顔を見せなくなってもおかしくないと、そう思っていたのだが。
今向かいでガラス盤を見つめながら考え込んでいるユシリアを見て、イリスは首を傾げていた。
「何だ、俺の顔に何かついているか」
「いや何も」
「しかし、たかだか三日でそれ程腕を上げているとは思わなかった」
「しごかれた。彼奴は性格が悪い。掌の上で転がされている気分だ」
イリスが言うと、ユシリアはピクリと眉を上げた。
彼は、イリスが将軍の事を話していると勘違いしているだろう。だがイリスはあえてそれを正さなかった。決して純粋な気持ちで、アミヴァの忠告に従った訳ではない。ただ、将軍が執着したアリスの娘だと知られる事は、イリスにとって不利にしかならないであろうと、僅かながらでも分かったのだ。
「そうか。少しでも将軍に相手をしてもらえるなら、お前は恵まれている。奥には将軍によって娶られながらも、月に一度程しか目通り出来ない女もいる」
「そんなに、か」
「いや、逆だな。そんな女ばかりだ」
「ふうん」
気のない返事をしながら、イリスは母の事を考えていた。
奥に入って病んでいったという母。彼女も、奥で忘れられて病んでしまったのだろうか。一つの国を滅ぼしてまで、手に入れた女性をそんな風に扱えるとは。
「暴君、だ」
イリスの呟きは最もな筈だ。少なくともユシリアも、将軍の行動を苦く思っている口振りだった。それなのに、今。
「今のは聞かなかった事にする。二度はない」
ユシリアは初めて、イリスの言葉を咎めたのだ。そうされて、ようやっと思い出す。アミヴァの二つの言葉を。
『彼奴は父上の腹心だ。父上の命のみで動き、父上の心には決して背かぬ。お前がいかに動こうと、奴を動かす事など出来ぬぞ』
『いかに父が間違っていると訴えようと、この国は父で成り立っているのだから私の言葉は反逆となるのだ!』
酷い国だ。心の底から思った。
「今度は俺の勝ちだな」
ユシリアは掌の上でガラス駒を二三弄んで笑った。彼の切れ長の目を更に細めて、口の端をきゅっと微かに曲げる、彼の笑い方は独特だ。
「これで三勝四敗か。やはりそう簡単に強くなるものでもないか」
「当然だろう。いくら俺でも初心者同然の奴に良い様にされる訳にはいかん」
「でも何となく分かってきた。性格が出るな、これは」
「だろう。だから俺は弱い、らしい」
「そうだな。貴方は──」
正直で真っ直ぐだ。言い掛けて、止めた。
それを言う事はユシリアを認めてしまう事になると、何故かふと思ったのだ。多分彼のその性格を、少なからず好ましく思っているからだろう。だがまだ、無理だ。目の前にいるのはまだ、仇敵に他ならなかった。
「私も、馬鹿正直だ」
「そうだな。だから良い勝負なんだろう」
ユシリアは邪気なく笑う。口の端をきゅっと微かに曲げて。そんなユシリアとのゲームを僅かでも楽しんでしまっている自分に、イリスは気付いていた。だが素知らぬふりで、思うのだ。
──貴方たちは、憎き仇なのだ、と。
変わらぬ日々は続いていく。僅かな変化など飲み込んで。
強く立たねば流されてしまう、そう分かっていても彼女には動く術などない。ただただ自然に囲まれた東屋で過ごす──外の喧騒から離れて。
季節が一つ、過ぎた。涼しげだった緑の葉が、その色を失くしていく。枯れる、とは違って、露を豊かに抱いた木々はゆるりと色を変えていった。
イリスの暮らしに変化が訪れたのは、その頃だった。