5 イリスからアミヴァへ
「イリス、入るぞ」
その日の夜、いつもアミヴァが来る刻限は決まっていたから、イリスは簡単に待ち伏せる事が出来た。イリスは軍人だ。だからローブの裾を裂いて、音無く天井に登るくらい訳ない事だった。何日も大人しくしていたイリスだ、見張りも緩んでいたらしい。結果イリスは、何の問題もなく後ろからアミヴァの首筋に大きな鏡の破片を押し当てる事に成功したのだった。
「なんの真似だ」
「声を出したら切れるぞ」
イリスの殺気は明らかだ、それに気付かぬアミヴァではない。なのにアミヴァは悠然と笑んで、首が切れるのも構わずにイリスを振り返ったのだ。ぷつりと感触がして、アミヴァの首筋に血が伝った。
「私がそれで怯むとでも? 悪いが戯れで刃を押し当てる程錆びてはいないのだ」
「ふん、ならばとうとう聞いたか」
アミヴァには、イリスの行動の意味が分かるらしい。さして驚かずに、首から血を流したままイリスを見つめていた。
「ユシリアが説明したのだろう。ならば何故私に刃を向ける? お前が向けるべきは私ではないと分かっているだろう」
だがアミヴァのその言葉で、イリスは少しだけ虚を突かれた。僅かにアミヴァの身体を掴む腕が緩ませてしまったが、アミヴァはそのままじっとイリスを見つめるだけだった。
「まさか、勘違いしている訳ではないだろうな。私がお前の母を攫って来たのだと」
「勘違い、だと? 悪いがユシリアはちゃんと言っていたぞ。将軍の妾となる為だとな」
「お前、私を幾つだと思っているんだ。……ユシリアの言う将軍は父の事だ」
「え、父?」
イリスの間抜けな声に、アミヴァは溜め息を吐きながらイリスを見遣る。これまでに呆れの視線を受けた事などないという程に、アミヴァの視線は痛かった。
「確かに私もアミヴァ将軍と呼ばれているが。この国の者は、父を将軍様、私を後代様と呼び分けている。つまり将軍とは私の事ではない」
息を吐きながらアミヴァがそう説明したのを聞いて、イリスはぱっと破片を投げ捨てた。からん、と間抜けな音を立てて、その破片は床で粉々になる。その一連をアミヴァはずっと呆れながら見ていた。
「全く、呆れてものも言えぬわ。早とちりで殺されかけた」
「ここは謝罪すべきなのか」
「お前、そこまで強気だと逆に天晴だ」
イリスの行動に呆れはすれど、気を悪くした風もない。アミヴァはいつも通り、薄く笑んでいた。だが次には小さくその笑みを歪めると、
「では話を聞いて思い出した訳ではないのか」
と目を伏せた。
イリスが言ったのだ、アミヴァから与えられる情報を鵜呑みにするつもりはない、と。だから情報を与えてくれるな、と。自分で探るのだ、と。
だが今、イリスはそれを破棄した。意を決して、アミヴァへと尋ねたのだ。
「貴方は何故私を求めた。私は何の為にここにいる」
そう、当たり前の事を尋ねただけだ。なのに何故かアミヴァは、とても傷付いた顔をしたのだ。いつも平然と笑みを湛える彼には、珍しい表情だった。
だが彼にも思い至るものがあったのだろう、心を決めた様にイリスを見た。そしておもむろに自分の胸元をまさぐったのだ。そうして出てきたものは。
「ネックレス?」
「ああ。トップを見てみろ」
そう促されて、アミヴァに近寄る。息遣いが感じられる程近付いて、彼の首に下がるネックレスのトップ部分をじっくりと見た。
それは指輪だった。指輪にチェーンを通して首に下げているのだ。その指輪がどうしたというのだろう。
一度アミヴァの顔を見遣ると、彼はいたく真剣な表情でイリスの一挙一動を見つめている。何となく聞き辛くなってイリスは再び指輪に目を落とした。じっくりと指輪を窺う、とその内側に何かが刻印されているのに気付いた。それを目に飛び込むままに口に出すと。
「イリスからアミヴァへ……?」
最後は震えて声にならなかった。茫然とアミヴァを見遣ると、アミヴァはその細い眉をぎゅっと寄せて目を伏せていた。そしてイリスを見ずに指輪の下がったネックレスを服の下に押し込んだ。
「私の結婚相手って……」
「私だ……」
アミヴァの声は震えていた。今初めて彼は、イリスの前で感情を露わにしたのだ。その言葉はどんどんと激しさを増していく。
「……私だったのだ。父が! あの日紅鼠の国を攻めさえしなければ、私とお前は夫婦となっていたのだ!」
「なぜ、結婚相手の父が、私の母を。私の国を」
「父は、私とお前の婚約にあたって公約を結ぶ時に、お前の母に横恋慕したのだ。そして私が婿に行く前に、とあの日に襲撃を行ったらしい」
「公約? 婿?」
アミヴァの言葉には、所々分からない事が混じっている。だからそれを問おうと思っただけなのだが、イリスの問いに何故かアミヴァは睨みつけてきた。
「なんだ、意味が分からないから聞いているのに」
「嫌な事を説明させるものだ、と思っただけだ」
「嫌な事、とは何だ。分かるように言わなければ分からないだろう」
「うるさい。つまり私とお前の結婚は政略結婚だったんだ。アスランの軍事司令だった父の息子、つまり私を充てがって、紅鼠という戦闘種族を御しておきたいというアスラン議会のな」
「それで、私たちの結婚、という事か」
「ほっとしているのか。私が恋人でなくて」
そう言ってアミヴァは笑った。その笑みはもう、いつもの酷薄なものに戻っている。だが一度彼の感情を垣間見たイリスには、貼り付いたようにしか感じられなかった。
「政略結婚でも、嫌なものではなかったんだろう。私にとっても」
「そうだな。あの頃は二人で、努力して歩み寄ろうと誓ったものだ」
──たとえ、愛はなくとも。
指輪を送り、誓い合う程には、イリスとアミヴァはうまくいっていた。将軍の暴走がなければ。
「私もあの日必死でお前を探した。だがお前の姿はどこにもなかった。そのまま紅鼠の国は灰になり、私も帰国を余儀無くされたのだ」
シェコーの話では、イリスは王家の墓に居たという。アミヴァが見つけられなくて当然だったのだろう。そしてイリスは記憶をなくし、バルクへと渡っていたのだ。
「だからハカム川でお前を見た時は、喜んだものだ。死んだと思っていた婚約者が生きていたのだからな。だがお前は、私の呼び掛けに応じなかった」
「私は7年前に記憶を失っていたからな。貴方の事が分からなかった」
「私はそれを知らないが故に、お前が私を恨んでいるのだと思った。婚約者であれど仇の息子だ、当然の事だ」
「そうか。それで人質などに」
そうして、ふ、とイリスは考えついた。それはこの話の流れならば当然で、そしてイリスが一番困惑するものだった。
「まさか、私が此処に呼ばれたのは……」
「私の妻とする為だ」
当たり前だろう、とアミヴァは薄く笑んだ。
イリスとアミヴァは暫し見つめ合った。だがそれは愛し合う者同士の甘いものでは到底無い。少なくともイリスは、アミヴァに対して心の中で罵声を浴びせていたのだから。
「嘘だろう……」
「今の話を聞いて、それ以外の理由があると思える方が不思議だ」
アミヴァはもう平静を取り戻しているのだろうか、憎らしい程にいつもの笑みを口に湛えている。イリスは舌打ちをしながら、思い付く限りの事を口から出任せに喋った。
「私は記憶が戻っていないから急に結婚と言われても無理だ。第一私には祖国が無いから政略結婚の定義も当てはまらない。無駄だ。それに私は子を成せぬから次期皇帝の妻など務まらぬ」
「子を成せぬ、だと?」
「そこは流せ、聞き返すな」
「……まあ、結婚は大袈裟だな」
アミヴァはふむ、と頷きながらそう言った。イリスは胸に手を当ててほ、と息を吐く。その安堵は直ぐに驚愕にとってかわられるのだが。
「記憶を取り戻すまで、此処にいればよい。そうすれば何も問題ない」
「つまり、記憶が戻らなければ……」
「いや、違うな」
アミヴァは嗤う。狂気の塊のような顔で。一瞬彼は味方になるかも知れぬと希望を持った自分が情けなかった。彼は紛れもなく、仇の息子であったのだ。
「記憶が戻ろうが戻るまいが。お前はルシアナに居るのだ」
アミヴァの声が、脳内に残響した。
イリスは、ルシアナの君主であり憎き仇敵であるニキア・ルシアナを見たことはなかった。だが話を聞いていて、ある程度の想像はしていた。だから思う。きっと彼は今目の前で嗤うこの男の顔にそっくりに違いない。今のアミヴァの顔は、酷薄で狂気を孕んでいた。
きっとイリスの言葉は届かないだろう。そう思うが、黙ったままでいられる筈もなかった。
「貴方は7年前、父親を恨んだのではないのか。なのに、その父親と同じ事をするのか」
「父が言ったのだ。手に入れたいものは、奪ってでも手に入れろと。そして離すなと」
「お前も父親と同じではないか」
「そうなれと言われ続けているのだ! 私が次期君主と決まった時から!」
アミヴァは叫んだ。
線の細い、神経質で小綺麗な風貌の彼は今。髪を振り乱して血走った目を見開いている。どう見ても、正気ではなかった。イリスの両の肩を力一杯掴んで、彼はその慟哭を続ける。
「私は7年前まで軍人ではなかった。だが父が紅鼠を攻め、私がお前を失った時から、私は父と同じ様に生きる事を宿命づけられたのだ!」
「父親なのだろう、反抗しろ。嫌だと言えば良いだろう」
「いかに父が間違っていると訴えようと、この国は父で成り立っているのだから私の言葉は反逆となるのだ! お前は知るまい、父の治世がどんなものか! この国で私が生きる為には、私が父の様になるしかないのだ!」
がくんがくん、とイリスの首が揺れるのも構わず、アミヴァは彼女を揺さぶり続ける。
彼も彼なりに、追い詰められて生きているのだ。そんな同情は芽生えたが、それでも、囚われになる事を良しとは思えないのだ。
「それでも私は屈しない。貴方の妻にはならないし、いつかこの国も出る」
冷静なイリスの言葉は、アミヴァにどう刺さったのだろう。彼はぴたりと動きを止めると、ふらりとそのまま東屋を出て行ってしまった。
「あ、夕飯食べ損ねた」
わざわざそんな脳天気な事を口に出す。少しだけ落ち着けた気がして、椅子に座ろうと足を踏み出した時だ。
「っ……て!」
じゃり、と音がして初めて気づく。先程武器代わりに使った鏡の破片を、床に放ったのだった。足を退けてみると、ぽとりと血が滴る。その赤が酷く鮮烈で、イリスは眉をひそめて目を逸らしたのだった。