4 襲撃の真実
「7年前、お前と同じ紅鼠の女を連れて来た事があった。俺は命令でその女の護衛をしていた」
沈黙の中、ひっくり返された半球のガラス駒がゆらゆらと揺れていた。先程まであれほど幻想的だったガラス盤も、今は光を失って冷たく在るだけだった。
聞き間違いではないか、と思った。自分に7年前の記憶はないが、生き残りは自分以外いないと、ずっと聞かされていたのだ。だからそれに反するユシリアの言葉は、イリスの意識を酷く揺さぶるものだった。
「生き残りが、いるのか。7年前の襲撃の」
イリスの呟きに、ユシリアは眉を寄せて目を伏せた。彼の表情が悔恨のものである事は尋ねなくても分かっていた。だが続いた彼の言葉は、イリスの予想を大きく裏切るものだったのだ。
「生き残り、というのは少し違う。7年前の襲撃は……あの女を連れて来る為のものだったからだ」
がつん、と。頭を殴られた様だった。
唯一蘇った記憶が頭を掠め、イリスは再び嘔吐感に教われる。母と自分の記憶を失ったそれは、ただ一人の女性の為に行われたのだという。ただその襲撃の様子は、女性の為とは思えない程凄惨なものだった筈だ。口から漏れそうな咽びを押し殺して、イリスは声を上げた。
「なんの為に、その女性を……?」
「将軍が、その女を求めたからだ。今のお前の様に」
そうしてユシリアはイリスを見た。淀んだ瞳は、雄弁に彼の後悔を物語っていた。
「お前はあの女によく似ている。勝ち気に将軍に挑み、心を折るまいと気丈に振る舞い続けた。
さすがは女王だ、と内心思ったものだ」
「え?」
今、ユシリアはなんと言った。
さすがは女王と、そう言わなかったか。
「攫ってきた女性は……女王、なのか?」
イリスは辛うじて、それだけを口にした。酷い嘔吐感だ。気を抜けば今此処で吐いてしまいそうだ。だが、確かめねばならない。
何故紅鼠が滅ぼされなくてはならなかったのか。
女王が──イリスの母が、あの日どうなったのか。
たとえその現実が、どれだけ惨たらしく冷酷なものであっても。
「そうだ。紅鼠の国の君主である女王、アリスだ」
ユシリアから語られているのは、果たして真実なのだろうか。だが今、彼が偽りを言う意味もない事をイリスも薄々感じている。そして何よりユシリアも、その表情を後悔の念に歪ませて話をしているのだ。母に良く似たイリスによって、その過去を呼び起こされて。
綱を渡るようだった。少し突けば、イリスの正気はがらがらと崩れるだろう。だがまだ、イリスは保っていた。だからアミヴァに言われた事を守って、言葉を紡いだ。自分が何者かを明かさぬように。
「女王は、今は……」
「……死んだ。もう三年になる」
ぽろりと、涙が流れるのは抑えようもなかった。そのくらいは許されても良いだろう。前触れもなく母が生きていたと知らされ、そして死んだと聞かされたのだから。そんなイリスを、ユシリアはくしゃくしゃの顔で見つめていた。襲った側の彼まで何故辛そうな顔をしているのか、少しは疑問に感じたが今はどうでも良かった。
「そうか……」
「言った様に、俺はアリスの護衛を任されていた。だからだろう、お前といるとその時の事を思い出す」
「思い出して、後悔に駆られるとでもいうのか? 攫った貴方たちが?」
「仕方ないだろう。最期が、あれでは」
そう言って、ユシリアは口を噤んだ。もうここまできて、聞きたくないなどとは言えない。ユシリアが口にする事すら躊躇う程の最期を、イリスは意を決して尋ねた。
「長い長い幽閉生活の末に、アリスは狂ってしまった。俺が目を離した隙に、腹を切って死んだんだ」
自分を断ずるように、ユシリアは言った。少し予想が出来た最期だが、それでも衝撃にイリスの口からはひゅう、と悲鳴代わりの息が漏れた。
「アリスも、最初は気丈だった。将軍におもねる事などないと、ずっと言っていた。だが奥に入ったあたりからだ、おかしくなっていった」
「前も言っていたが、奥、って何だ」
「将軍の妾たちが入る城の一角だ。アリスもそこへ入った」
「つまりこういう事か。紅鼠の女王は、将軍の妾になる為に連れて来られた。紅鼠の国はその為に滅ぼされた、と」
イリスの言葉はきっと怒りに充ち満ちている事だろう。イリスには、感情を押し殺すのはもう無理だった。唯一今堪えられているのは、ユシリアの懺悔する様な物言いの為だった。だから、ユシリアがそっと言った事に、イリスは再び涙を流す事になる。
「お前も、同じ運命を辿るのかも知れない。お前もきっと、奥に入って気を違えるのだろう」
「私は違う」
「アリスもそう言っていた。だがあの女は……。だから少しでもお前の気が紛れば良い、そう思った」
つまり彼は、母の死を後悔して、母に似たイリスに手を差し伸べてくれていたのだ。初対面の女にあれほどまで心を砕いてくれていたのはその為だったのだ。
アミヴァは言っていた。
『彼奴は父上の腹心だ。父上の命のみで動き、父上の心には決して背かぬ。お前がいかに動こうと、奴を動かす事など出来ぬぞ』
だが今ユシリアは、それにはそぐわぬ事をしている。目の前にいるこの軍人は紛れもなく仇国の者だが、母の死を悼み、イリスを気にかけている。それは僅かでもイリスにとって救いだったのだ。
涙を流すイリスを見て、ユシリアは眉尻を下げながら気遣わしげに尋ねてきた。
「何故泣く。お前の国はそこまで愛国心があったのか」
彼の質問は的外れだ。だが彼は、イリスが襲撃の記憶をなくしている事も、女王の娘である事も知らないのだから仕方なかった。
「祖国の死が、お前に少しでも楔を残しているならそれで良い。せいぜい後悔しろ」
涙を流しながら、イリスはそう吐き捨てた。複雑な感情が渦巻いて、正気を保つので精一杯だ。だからユシリアが彼女の言葉で顔を歪めるのを、イリスは見ないふりしたのだった。