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憎し、今は愛しき者たちを。  作者:
砂漠の王国 バルク
31/82

30 出国

 あれから幾日たっただろう。一日だけか、それとも五日程か、数えることもしなかった。今イリスは使者に連れられて、ルシアナの陣までの道程にいた。遥か背中には今までいたバルクの陣営が小さく見える。

 見送りなどある筈もない、自分自身がそれを望まなかったのだ。未だビルディアやその他の兵たちはイリスが人質になっている事を知らない。だから休戦を結ぼうかというのに、バルクの陣営はいつもの雰囲気のままだった。


「見えました、あそこです」

 ぼんやりとしていると使者が指差した。そこにはルシアナの陣営が広がっている。もうここは敵陣なのだと自覚すると、サミーアに預けられた書状を持つ手がぴりりと震えた。

 暫く歩き続けると、陣営の中に一際目立つ天幕が確認できるようになってきた。天幕の前にあるものを見留めたとき、思わずイリスは足を止めてしまっていた。周りを囲う兵達が訝しげにイリスを見遣る。


 天幕の前には煌めくのは、白銀の鎧。重々しい兜こそ身に付けてはいないが、鋭く冷たい目は兜の隙間から覗いていたそれのままだった。見間違う筈もない、それを確認すると緩く握った掌が小さくぶるぶるとわなないた。

 一つ、大きく深呼吸して、イリスはゆっくり足を運ぶ。迷いなどない、だが緊張に胸がうるさく暴れている。

「来たな」

小馬鹿にしたような笑いに、イリスは小さく息を吐いて目を閉じた。

 線の細い神経質そうな風貌のアミヴァは、一層その酷薄な笑みを深くして、使者とイリスを天幕の中へと招き入れた。


 今の自分は人質だ。自分の行動でバルクの運命は決まる。

 イリスは決心するように息を吐くと、ゆっくりとその場にひざまずいた。屈辱を抑えるように唇を強く強く噛んで、両手を地につける。その様をアミヴァは、満足げに見ている。

「イリスと申します。

 我が君アルヴァ・バルより書状を預かってまいりました」

「渡せ」

 アミヴァのその言葉を合図に、彼の側仕えがイリスの書状を取りに来た。イリスは黙ったまま側仕えに書状を託す。アミヴァはそれを手にすると、ばらりと広げ暫しの間無言で目を落としていた。そしてイリスを見遣り、にやりと嗤う。その顔が心底楽しそうで、イリスは表情を歪めそうになるのを必死で抑えた。

「どうやらお前は国に見放されたらしい。バルクはお前と引き換えに休戦を欲したようだな」

「はい」

 アミヴァは笑みを口の端に湛えたまま、イリスに言った。やはり初めて会ったあの時の彼の様子は何かの間違いだったのだ。そうとしか思えない程、彼の物言いは冷たく挑発的だ。

 だがそんなアミヴァの言葉にも、イリスは動じずにそこへ立っていた。何と言われても例えどんな辱めを受けようと、いつか帰る日の為に耐え忍ぶ覚悟なのだ。

 そんな気概を感じとったのか、アミヴァは笑みを消しイリスの傍まで歩み寄ってきた。

「どんなに操を立てようと、戻れぬのだ。骨を埋める覚悟がないのなら今からでも遅くはない」

「はい」

立場を弁えよと言いたげなアミヴァの言葉。それに僅かに苛立ちが混じっている。だがイリスは眉一つ動かさず頷いて見せた。先程までの口惜しそうな様子も今は一切なく、能面のような無表情を顔に貼り付けているだけだった。

「勿論弁えております。私は人質だ。その通りだろう」

アミヴァの目を真っ直ぐに見て、イリスは凛と言い切った。アミヴァは一瞬だけ虚をつかれたように眉宇を寄せたが、直ぐに笑みを浮かべた。

「それでなくてはこちらも面白くない。せいぜい、足掻け」

「はい」

 端から見れば的外れな言葉の応酬。だがアミヴァとイリスには、腹の探り合いをする様な感じるものがあった。


 冷ややかな空気の中、アミヴァはイリスにある衣服を渡した。その意図が見えずイリスは衣服を持ったままの状態で暫し戸惑っていた。顎で促され、それを広げてみると。

「なっ……?」

嫌悪感を露に、イリスはそれを地面へと投げ捨てた。

 床に投げ出されたのは、渇いた雰囲気にはそぐわない婚礼衣装だった。さすがのイリスもこれには激昂し、アミヴァを睨みつける。

「どういうつもりだ。どれだけ私を馬鹿にするんだ」

今にも掴みかからんばかりのイリスに、アミヴァの側仕えたちが一様に武器に手をやった。アミヴァはそれを手で収めて、にやりと嗤う。

「さすがにそれは冗談だ。だがいくら人質とはいえ戦装束のまま本国に連れていく訳にもいくまい。着替えを用意してある」

そして今度渡されたのは何の変哲も無いローブだった。


 渡されたローブに袖を通したイリスは、今馬車に揺られていた。周りには仰々しい程の護衛。いや護衛というよりは見張りだろう。まるで輿入れのような雰囲気に、イリスは一人嘲笑を零していた。


 アミヴァに対する事で、彼の人となりの片鱗を見た。冷酷で狡猾であるという彼の父の血を、彼も引いているのだと感じた。

 だが未だ解らぬ事がある。何故ルシアナが己を欲したのか。いくらアミヴァが君主の嫡子といえども、休戦と引き換えなどと勝手が許されるとも思わない。また自分自身にそれ程までの価値があるとも考えられない。

 そこまで考えて、イリスははたと先程の事を思い返していた。冗談だと言われた婚礼衣装、もしあれが企図だとしたら。でもまさか、と緒李はかぶりを振った。先程も考えた通り、そこまでの価値が自分にはないのだ。

 そうは考えながらも以前サミーアに言われた言葉が反響する。

『男が女を無条件に欲する。根底にあるのは愛に他ならないではありませんか』

一笑に伏したあの言葉。いや、でも、しかし……。

 元来考える事の苦手なイリスがいくら考えた所で真意は解らず。ただただイリスは馬車の中で一人頭を抱え込んでいた。そう、考えるだけ無駄なのだ。どんな意図があれど、いつかはその立場を逆手に取って帰るだけの話なのだから。


 イリスはぎゅっと両手を握った。混乱はしているものの、その瞳の奥には悲壮感が宿っていた。

 馬車はがたがたと道を行く。バルクの陣営は疾っくに見えなくなっていた。


□□□□


「おい、野営だ」

 馬車の外から声を掛けられて、イリスは外を窺った。日は傾き、薄暗がりの中にその場に立っていた人物にイリスは目を見開く。

「貴方様直々にどうなさいました」

慇懃無礼にそう言ってやれば、そこに立っていたアミヴァは不機嫌そうに眉を寄せた。腕を組みイリスを見据えている。

「食事も摂らず閉じこもるか。人質らしいが本意ではないのでな」

 どうやら食事をしろとの事らしい。思ったよりもまともな待遇にイリスは戸惑いながらも馬車から下りた。おおよそ人質らしくない待遇だ。まして次期皇帝でもあるアミヴァが、直々に人質の元を訪れるなど異様なのだ。


「野営での食事まで与えられるのか、破格の待遇だな」

「ほう、要らぬなら無理にとは言うまい。限りある貴重な食糧だ」

「そう言うな。人質とて腹は減るものだ」

 仇敵でありイリスを要求した元凶を前に、思ったより冷静でいる自分に内心驚きながらも、イリスはぞんざいに言い放った。だがアミヴァも別段気を悪くした様子はない。いやそれどころか、彼の平常なのであろう仏頂面には、薄く笑みが浮かんでいた。

「お前はそうでなくてはな」

独りでに零れた様な呟きに、イリスは眉を上げた。尋ねるならば今しかないだろう。

「えらく私を知った様な口振りだな」

「……気の所為だ」

そうは言っても、アミヴァの表情は苦しげに歪んでいた。聞いてくれとも聞かないでくれとも思えるその表情に、イリスは口を噤む。

 すると躊躇いがちに、アミヴァが口を開いた。

「一つ、尋ねても良いか」

次期皇帝が人質に、尋ねても良いかと伺いを立てる。その状況が余りに滑稽で、イリスは深く考えずに頷いた。


「お前は、ルシアナの事をどう考えている」

「よくもそんな質問が出来るものだな」

 これもまた挑発なのだろうか。そう思って睨み付けるが、当のアミヴァは真剣な顔でイリスを見つめていた。答えなど一つしかない質問が、彼にとっては重要なものなのだろうか。

「状況など覚えていないが、郷里を滅ぼした仇国だ。怨まぬ筈がないだろう」

「覚えて、いない?」

イリスの返答に、アミヴァはキョトンと目を瞬かせた。それを見てイリスもまた首を傾げる。

「何だ? 貴方の事も悪いが覚えていない。そう言っただろう」

「覚えて、いない」

「だからそう言った。私には記憶が無いのだからな」

 もう察しは付いているのだと思っていたが、違ったらしい。だったら彼が覚えている事をイリスが覚えていない今の状況を何だと思っていたのかと、逆に聞きたくなった。だが告げられた当のアミヴァは、ぽかんと惚けた様にイリスを見つめている。その表情は冷笑を浮かべている平常よりも、余程彼らしく思えた。

「だが何も教えてくれるな。仇敵から与えられる情報を鵜呑みにする程愚かではないつもりだ」

 イリスはきっぱりと告げる。たとえアミヴァが真実をもたらしたとしても、それがどんな情報でもイリスは疑ってかかる。だったら始めから、混乱する様な事をするつもりはなかった。知りたい事は己で探れば良いのだ。

「分かった」

小さくアミヴァが呟く。その声が僅かに震えるのを、イリスは知らないふりをした。


□□□□


 次の日も、一日中がたがたと馬車に揺られ続けていた。本来武人であるイリスは移動に馬を利用することはあれど、馬車に乗る事などないのだ。だからずっと馬車にいるというのは。

「……退屈だ」

溜め息を吐きながら、イリスは小さく独りごちた。

 退屈でいていられない。だが少し身体を動かすだけで、見張りの兵が身体を強張らせるのだ。身じろぎするのにも気を使ってしまう。

「……退屈だ」

もう一度だけそう呟いて、イリスは時間を浪費しようと眼を閉じた。


「おい、起きろ」

 身体を揺らされてイリスははたと眼を開けた。目の前の呆れたようなアミヴァの顔に、イリスは喉から息をもらす。

「お前自分の置かれている状況が分かっているのか? 何て呑気な顔して寝ている」

「退屈で死にそうだ。寝るくらい許されるだろう」

「人質の言葉とは思えん。普通ならば処刑の日は先延ばしにしたがるものだ」

くつくつと笑いながらアミヴァはイリスを馬車から連れて出た。外はまだ明るい。

「何だ、何かあるのか」

周りには町も何も見えず、此処で足止めする理由もないだろう。勿論食事の時間でもない。きょろきょろと辺りを見回しながらアミヴァの後をついて歩くイリスは、ある場所で足を止めた。

「あれが……」

 遠く遠く岡を越えたずっと向こうに見えるのは、ルシアナの本拠地だ。雪の国ルシアナの名にふさわしく、夏だというのに本拠地は薄く白いものを被っている。その姿はまだ小さいが夜通し歩けば明日には着く距離だ。

「覚悟は出来たか」

冷ややかにアミヴァが尋ねる。イリスがはっとして見遣ると、彼はほんの少しだけ笑っているように見えた。

「覚悟……? そんなもの元から、だ」

 イリスは笑った。それもにっこりと。


 これから自分の身に起こる事は、厳しいばかりに違いない。だが自分は折れない、その自信が彼女にはあった。

 これから戦いが始まる。それは彼女自身の『心の戦い』だった。

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