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憎し、今は愛しき者たちを。  作者:
砂漠の王国 バルク
30/82

29 惜別

 寝床としている天幕まで帰ってきて初めて、イリスはがくんと膝から崩折れた。


 先程皆の前で宣言した事は、決して嘘偽りではない。だが少しでも記憶を取り戻した今ではやはり、仇国に渡る事をとても屈辱的な事だと思うのだ。それにルシアナからすれば、イリスは根絶やしにしたい程の国の生き残りだ。まともな待遇など望める筈もない。

「帰れる、だろうか」

 ぽつりと零れた、不安。殺されるくらいならばまだ良いかも知れない。望まぬままにバルクを敵として戦わねばならぬ事になりはしないだろうか。

「今から考えていても、仕方がないか」

ふ、と小さく自嘲する。イリスが心掛けるべき事、それは唯一心を、誇りを強く持つ事だけなのだから。


 へたり込んで暫くそうしていると、天幕の向こうから小さく声がかかった。それは酷く優しい、イリスの上官の声だった。

「セスタ殿ではないですか。いかがなさいました」

そう言って幕を開けると、セスタはその綺麗な眉をきゅっと寄せた。それだけで分かる。きっと聞いたのだ、イリスがルシアナへ行く事を。

「全く。言わないでくれとあれ程申し上げておいたのに」

「私は上官だよ。サミーア殿も良かれと思って教えて下さったんだ」

「そうですね……。申し訳ありません」

「いや。とりあえず、入っても?」

 イリスはこくりと頷いて、セスタを招き入れた。陣中の天幕だ、椅子などもない。剥き出しの地面に上官を座らせる訳にもいかず、イリスはセスタに寝台に座るよう促す。

「いや、少し話をしたいだけだから」

そう言ってセスタは立ったまま、イリスに向き直った。その表情は、哀しそうにも、怒っているようにも見える。

「ルシアナに渡る、んだね」

「それが彼の国の要求ですから」

「戦えば良いよ。休戦なんてせずに、今まで通り戦えば。

 私も司令も君もビルディアもいる。私たちは守られる為に軍人でいるのではないよ」

セスタは言った。

 穏やかなにこやかな筈の彼は、その目に静かな怒りを滾らせて、イリスの肩を掴んだ。

「将を一人人質にせねばならぬ程、我が軍は脆弱ではないよ。それは君だって分かっている筈だ」

「では三倍もの兵差の戦に臨むというのですか。あれ程の犠牲を出した前哨戦よりも、尚苦しい戦に!」

 後半は叫びだった。だからセスタに知られたくなかったのだ。彼は絶対に、イリスがルシアナに渡る事を良しとしない事が分かっていたから。信頼のおける上官に止められる事が、今のイリスには辛かった。迷いが生じてしまいそうで嫌だった。どろどろに甘やかしてくれるセスタに、泣きついてしまいそうだった。

 だがそうしてはならないのだ。そうしてしまえば、イリスは武人として二度と生きられぬだろうから。


「私は行かねばならぬのです。行って探らねばならぬ事があるのです」

 アミヴァの真意、郷里が滅ぼされた理由。相手が招き入れるのならば、望み通り飛び込んでやろうではないか。そして探ってやるのだ。己の知りたい事も、彼の国が隠したい事も全てを。

「私はこの国が好きです。だから必ず帰ってきます。どんな事をしてでも」

 イリスは決めてしまっていた。それが覆せないのは、セスタにも分かる。だが彼女が言う事は、空論にしか思えなかった。休戦と引合いに出す程に要求されているイリスを、あの狡猾な彼の国が易易と手放す筈がないのだ。


「行かないで、くれないか」

 だから、ぽつりと。セスタは本音を漏らした。

 彼はいつも冷静で分別のつく人間だった。

イリスへの想いも、決して彼のすべき行動を捻じ曲げる事はなかった。今初めてセスタは、すべき行動よりも感情を優先したのだ。

「君を、失くしたくないんだ」

それは、とても熱烈な愛の告白に聞こえた。事実セスタの表情は、真剣で熱っぽいものだった。いかに色恋に頓着無いイリスといえど、セスタの言葉に篭る感情に気付かぬ訳がなかったのだ。

「セスタ殿……?」

 だがイリスには信じられない。何故ならセスタは、とても分別のある人間だから。部下の自分を好きになどなる筈がないのだから。

「イリス、共に戦おう」

セスタの言は、言葉だけ見れば殺伐としているものの、イリスにはとても甘い言葉に聞こえた。

 だがイリスは。

「もう決めたのです、セスタ殿」

武人の顔をして、セスタに敬礼をした。それは言葉よりも明確に、イリスの決意を表していた。止める術などないと、彼女は武人として生きるのだと、セスタに分からせたのだ。


「ならば、私とも約束をしてくれないか。必ず帰ると」

「ええ、勿論です」

 泣き笑いの表情になりながらも、肩を竦めておどけて見せたセスタに、イリスも笑みを浮かべる。そしておもむろに腰に提げていた双鞭を抜き取った。

「人質として渡るのです。これは持って行けませんから、貴方が預かっていて下さい」

「この双鞭を?」

「ええ。記憶を失くしたあの日から大切に握っていたそうなので、失くさないで下さいね」

「分かっているよ」

「それから、これも」

 そう言ってイリスは耳元から、それを外した。始めこそ違和感があったものの、今では当たり前の様に彼女の耳朶にあったそれを、イリスは大切そうにセスタに託す。

「イヤリング、かい」

「ええ。アクセサリーなど付けた事のない私が、初めて買った物です」

セスタは渡された掌の小さなそれに目を移した。女性が付けるには酷く地味な、丸い玉虫色の石。だがその小さな石は、何故か彼女の心の一部のようだった。

「失くさない様にするよ」

「当たり前です。帰った時に失くしていたら、買って頂きます」


 それも悪くない、そうセスタが思った事は彼だけの秘密だ。

 だが失くす筈などない。彼女の心の一部とも思えるその石を、セスタは大切そうに掌で包み込んだのだった。

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