28 吐露
その日、イリスは小さな部屋に一人で座していた。発端となった集落の屋敷の部屋から見える景色をぼんやりと見つめていた。
見えるのは小さな畑とぎらぎらとした太陽、そしてそれを受けて煌めく木々だけだ。バルクらしくないその景色を、彼女はひどく寂しいと思った。木々の息吹など感じられない籐黄の砂漠の景色を見たいと、感傷めいた事を考えていた。
その時だった。
「待たせましたね」
そう言って引き戸を開けて入ってきたのはサミーアだった。静かに部屋の中央まで歩を進めると、イリスの向かいにゆっくりと座る。
「いえ、待っておりません」
「……そうですか」
姿勢を正してサミーアに頭を垂れたイリスは、小さく返した。
何となく気まずい雰囲気が漂う。イリスは隠しているつもりだろうが、その憔悴はひどいものだ。
「遅れました、申し訳ありません」
そう言いながら部屋に入ってきたのは、イリスによってバルク王都から呼ばれたシェコーだった。
「御呼び立てして申し訳ありません。遠かった事でしょう」
「いいえ、止められてでも来るところでしたよ」
表面上はにこやかに話すシェコーだったが、震える指や唇が彼の緊張を物語っていた。潤んだ目はしっかりとイリスを捉えており、今にも抱き着かんばかりだ。
初めからシェコーは、イリスが軍部に入る事を良く思っていなかったのだ。それは偏に娘の幸せを願ってのもので、彼にしてみれば今の状況は最悪な展開に違いなかった。
「文にも書きましたが。イリスが話しを聞きたいという事なのです。よろしいですか」
「はい。勿論です」
サミーアの言葉を合図にして、シェコーは姿勢を正した。
「ですがその前に、陛下をお呼びしてもよろしいですか?」
「やはりいらしたのですか? ……危険だから来るなと言っておいたのに」
アルヴァ・バル国王がこの辺境の陣中に来ている。驚くべき事なのに、シェコーもサミーアも平然としている。イリスは一人だけ状況を把握出来ずにきょろきょろと首を動かすだけだった。
「サミーア、私は童子ではないのだ。その様な言い方するでない」
からりと引き戸を開けて入って来たのは、紛れもなく陛下だ。何故此処にいるのか、イリスは茫然としながらも頭を下げて陛下を迎えた。
「イリス、あらましはサミーアから聞いておる。私もそなたに話したい事があったのだ」
「陛下が私に……。何にございましょう」
「まぁまぁ焦るでない。先ずはシェコーの話を聞こうではないか」
シェコーに話を促しながら、陛下はサミーアの隣にどっかりと座した。それだけで小さな部屋の中が厳格な雰囲気になる。
「イリス。貴女が私に尋ねたい事とは貴女の事でしょう。何者であるのか、私が知っていると」
「はい。出来得る限り、自分を知っておきたいのです。仇国に渡る前に」
「私が知っている事はほんの僅かです。貴女のご期待に添えるか……」
「それでも、宜しくお願いします」
「……分かりました」
シェコーは重い息を吐き出した。赤く潤んだ目に痩けた頰、震える指先。養父の憔悴した様子にイリスの胸は痛んだが、強い瞳で見つめて先を促した。
「7年前の夏のある日、私は薬の仕入れの為に北の小国、紅鼠の国を訪れていました」
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そこは自然豊かな土地だった。国力こそ弱いものの、侵略者相手には負け知らずで、小さいながらも確固たる国を作り上げていた。その戦闘力の由縁は種族の血にあった。国を形成する種族は、太古から戦闘を生業とする戦闘種族だったのだ。
その戦闘種族の国もアスラン議会の末席であるが席を連ね、紅鼠王家による自治を許されていた。種族の血にはそぐわぬ程穏やかな地、シェコーにとって紅鼠の国はそんな印象だった。
その日シェコーが用事の為に宿を出ると、町はお祭騒ぎだった。建物には花や風船が飾られ、そこらで飾り布が売られている。民は皆、挙ってその飾り布を掲げていた。
通りすがりの民に尋ねると、何と王女の婚姻の儀があると言う。このお祭騒ぎはその為なのだ。
『平和なものですね』
シェコーは独り言ちた。
紅い髪の民は皆楽しげに通りに集まっている。披露目パレードでもあるのだろうか、期待を込めた目で飾り布を振っていた。
だが賑やかな歓声は直ぐに悲鳴と怒号に取って代わられた。大軍団が攻めて来たのだ。お祭騒ぎに沸く通りに射かけられる矢、轟音と共に上がる火花、立ち並ぶ屋台を踏み潰す様に走る騎馬兵。それらは女子供に関わらず全てを蹂躙して行く。町の端から全てを焼き尽くす様に、丁寧に丁寧に火がかけられていた。
シェコーは焦った。
会いに行こうと思っていた人物の安否を心配したのだ。その人物は、決して失ってはいけない人物なのだから。だからその人物の隠れ家の戸を開けた時、シェコーは思わず叫んでいた。
『何をしているのですか! アルヴァ!』
隠れ家の中で幼子二人を胸に抱いたその人物、アルヴァ・バルは覚悟を決めていたらしかった。
『今更逃げ果せるとは思っていないよ。今まで生き延びただけ有り難い事だ』
『何を! 貴方の血は失ってはならぬもの。諦めてはなりません! 逃げますよ』
『バル家を救ってくれた紅鼠の国を捨ててか? そんな事を出来る筈がないだろう』
『紅鼠王家に報いようと思えばこそ、貴方は生きなくては!』
ばちばちと音を立てながら襲う火花の中で、アルヴァは座したままだ。胸の中の幼子二人が口々に、父様、と震えた声を上げる。
『私を助け続けたこの国を捨てろと、言うのか』
炎の爆ぜる音の中でも、アルヴァの絞り出した声ははっきりと聞こえた。堪えるように震える瞳に、赤い光が差している。それは諦めかけたその命を、アルヴァがもう一度掴もうとした瞬間だった。
『次は貴方がお救いになるのです。紅鼠の民を。報いる番です』
シェコーの言葉は、確かにアルヴァの背中を押した筈だ。
助けられるばかりではいけない、バル家は大陸を統べていた王家であるのだから。そう決意したアルヴァの行動は早いものだった。
『シェコー、こっちだ。隠し通路がある。紅鼠王家の墓に通じる地下通路だ』
『では紅鼠王家の方と合流できますね』
アルヴァは息子を抱え、細い地下通路を進んで行った。その煤けた頰に悔し涙が伝うのを、シェコーは見て見ぬふりをした。
そうして進む事暫く、石畳の地下室に辿り着いた。
『この墓場はシェルターの役目をすると聞いている。有事の時には此処に逃げる様に女王に言われていたのだ』
『ですが……王家の方は誰も居りませんが……』
『おかしいな……』
そうアルヴァが呟いた時、地下室の端にくしゃくしゃに丸められていた白い布がもぞもぞと動いた。小さな呻き声と共に、その布の塊はがばりと身を起こす。シェコーは咄嗟に護身用の小刀を抜いてアルヴァを背に庇った。
『何者ですか!』
シェコーの鋭い言葉に、びくりと肩を震わせて振り向いたのは美しい顔立ちの紅髪の少女だった。
『私はイリス。そちらこそ何者か! 此処は何処なのだ!』
震えた身体にはそぐわぬ程の凜とした声で、彼女は立ち上がった。その姿を見て、シェコーとアルヴァは目を見張った。
彼女が身に纏っていたのは、白く華美な婚礼衣装だったのだ。それでシェコーは気付く。彼女は今日婚礼の儀を行う筈だった王女なのだと。
『何故黙る。此処は何処だ、早く母上を助けに行かねば』
イリスと名乗った彼女、紅鼠の王女は苛立たしげに唇を噛んだ。察するに自分の意思でこの場に居る訳ではないらしい。暗い地下室の石壁をぺたぺたと触り、出入り口の場所を探している。
『イリス様、落ち着かれよ。今外に出れば命はありますまい。敵は何処の者かは知らぬが、国を根絶やしにするつもりですぞ』
『なればこそ! 私が行かねば。紅鼠は戦闘種族の国、その王家が隠れる訳にいくまい』
『堪えよ! 王家には王家の務めがあるのだぞ!』
アルヴァの言葉は重い。それは他ならぬ自分に向けてのものでもあるのだ。感情に逸って危険に飛び込む王など、英譚になりはしない。堪える事こそ王家に課された務めであるのだ、と。
だが年若い少女に、その言葉は届かなかった。
『貴方が言う事は正しいのだろう。だが私は……せぬ事で後悔したくはない。御免!』
イリスは先程シェコー達が通って来た隠し通路にその身を滑り込ませた。広がった婚礼衣装の裾が翻って、アルヴァの指先に触れた。
『待たれよ、イリス様!』
イリスの婚礼衣装を掴もうと伸ばした手は、しっかりと彼女のヴェールを掴んだ。だがイリスは一度振り返ると、そのヴェールを外して地下通路の闇に消えてしまった。アルヴァの手には煤けて薄黒くなってしまったヴェールが残されている。
『シェコーよ。私はどうすれば良い? 恩人が死にに行ってしまうのを見ているだけか! それが王家の務めだと言うのか!』
アルヴァは泣いていた。
慟哭が狭い地下室に響く。苦しい、苦しい、と聞こえてくる様だ。イリスの残したヴェールが、アルヴァの手の中で皺だらけになって震えていた。
どのくらい其処に居ただろう。地下の王家の墓には、外の音も光も一切窺えない。待つ時間は酷く酷く長く感じた。
『もう良いだろう、シェコー。外に出てみぬか』
痺れを切らしたらしいアルヴァが隠し扉を開けた。王女でも知らぬこの地下室の構造を、アルヴァは良く知っているようだ。シェコーが尋ねると、アルヴァは女王に案内されたのだと哀しそうに言った。
地上に出て見て、アルヴァもシェコーも言葉を失った。酷い、その言葉以外が出て来ぬ程の惨状だった。
立ち並んでいた民家は全てが焼き尽くされ、建物の形を成していない。未だ煙を上げる家材に紛れて、黒い塊となった人形の骸が其処此処に伏している。女性だろうか細身のそれも、子供らしい小柄なそれも、区別なく殺されたのだろう。人形のまま残る黒い骸は、死した時の状況をまざまざと語っていて、シェコーは目を逸らした。
穏やかな印象の町は一瞬にして、死臭たちこめる廃墟の町へと姿を変えていたのだ。
『もう、敵兵の姿は見えませんね』
シェコーは呟いた。
敵兵どころか、燻る煙以外動くものはありはしない。何か言葉にしなくては、叫び出してしまいそうだったのだ。
『王城は如何になっているでしょう』
『如何にとは。見た通りだろう』
二人で紅鼠王城に目を遣る。
酷かった。元々小さな城ではあったが、今や城の形は成していない。城門は焼き尽くされ、無数の矢が刺さっていた。高い塔は投石にでもあったのか、半分に折れて崩れていた。
『一応見ておこう。何かあるかも知れない』
一刻も早くこの地を離れるべきだ。そう思うのにアルヴァの言葉に頷いてしまう。アルヴァの心境は察するに余りあったのだ。
そうして王城であった場所に二人で足を踏み入れた時だった。
『あれは……』
シェコーがそれを見つけたのは偶然だった。
焼き尽くされた故に、転がる骸は黒いばかり。だが其処に倒れる人形は、白い服をおびただしい程の赤に染めていた。黒い中にそれだけが鮮やかに見えたのだ。
『イリス様!』
一目見ただけで分かった。暗がりでだが先程見た婚礼衣装。血塗れで倒れ伏すあの人は、先に地下室を出て行ったイリスに違いなかった。
『何を馬鹿な事を!』
煤けた婚礼衣装を破る。年若い少女の肌を晒す事に戸惑いなどなかった。彼は薬師だ、そしてイリスにはまだ息があったのだから。
『イリス様⁉︎』
シェコーの只ならぬ様子に駆け寄って来たアルヴァも、青い顔でイリスの身体を支えた。その腹部には深々とナイフが刺さっていた。だがそれは恐らく敵兵によるものではない。刺さったナイフに刻まれた紋章は、紅鼠王家のものであったのだ。
『イリス様! 貴女は死んではならぬ人なのだぞ!』
以前シェコーがアルヴァにかけた言葉そのままを、アルヴァは死の淵にいるイリスに掛けている。
シェコーは汗だくになって止血をしていた。無駄に華やかな婚礼衣装が、止血に役立った。それが酷く哀れに感じた。
『今度は私の番だ。必ず貴女を守る』
血塗れのイリスの手をしっかりと握って、アルヴァは呟いていた。その言葉にはある大きな決意が篭っていたのを、側にいるシェコーは直ぐに感じ取っていた。
紅鼠の国を襲ったのはアスラン連邦軍部の暴走だった。軍部は紅鼠の国を足がかりに、ルシアナ帝国の建国を宣言したのだ。今アスラン連邦は揺れに揺れていた。
シェコーによる治療が粗方済んで、アルヴァ達は直ぐに紅鼠の国を脱した。そして一番にした事は、バル王家を名乗り諸侯にバルク王国再建の助力を嘆願する事だった。混乱に揺れるアスランには、王家再興に湧く諸侯を止める手立てもなかった。
こうしてイリスは、バルク王国国王となったアルヴァの庇護の元一命を取りとめたのだ。だが死の淵を彷徨ったその傷の為、彼女は一切の記憶を手放していた。
そこでシェコーとアルヴァはある決め事をした。
イリスを必ず守る事。その為に彼女の出自を隠す事。ただの薬師の養女として、穏やかにその生を全うさせる事。それがアルヴァのイリスに対する恩返しだったのだ。
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「記憶がない事で苦しい思いもさせた事もあるでしょう。ですがそうしてでも私たちは隠しておきたかったのです。でなくては貴女は必ず戦場に出てしまうでしょう。まあ、血には勝てなかった様ですが」
そう言ってシェコーは息を吐いた。長く封じていた過去を話す事は、シェコーにとっても気合いのいる事だったろう。時折涙を滲ませながら声を詰まらせ、それでもシェコーは話し終えたのだ。
「何か、聞きたい事はありますか?」
シェコーは笑った。赤く潤んだ目の所為で泣き笑いの表情になってしまっていたが、イリスには今までで一番優しい表情に感じたのだ。
「何か……って」
それだけ言って、イリスは言葉を切った。
正直な事を言えば、今聞いた話はイリスの収容能力を超えてしまっていた。今はシェコーの話を噛み砕くので精一杯だ。だから口から溢れたのは、本当に純粋な疑問だった。
「どうして戦場に出さないと決めていたのですか」
「ですから、貴女には穏やかに暮らして欲しかったのです。それに今更紅鼠王家の話を出す必要もない。紅鼠王家は絶えるのですから」
「え? 絶える、ですか」
キョトンと問いかけるイリスを見遣って、シェコーは眉を寄せた。とても勇気がいる事をする様なそんな戸惑いを見せて、それでもシェコーは口から言葉を紡ぐ。今迄一度も流さなかった大粒の涙を、耐え切れずにぼろりとこぼしながら。
「貴女は子を成せぬのです」
イリスは小さく、は、と息を吐いた。何を言っているのか分からない、という表情で。
「貴女は一度自害しかけました。その場所が良くなかった。腹を一文字に捌くなんて……」
「その為に、ですか?」
「命を救うために、貴女の傷付いた子宮を取り除きました。ですから、貴女には王家の血筋なんてものを背負わせたくなかった。ただ一人の女性として生きて欲しかったのです」
シェコーが小さく震える。膝の上で拳を握り締め唇を噛み締める彼の姿は、紛れもなく父親のそれだった。
「シェコー殿、申し訳ありません」
イリスは立ち上がってシェコーの震える肩を抱いた。
今まで彼はずっと背負って来てくれたのだ。イリスが背負うべきものを。そして今それをイリスに渡す事を酷く苦しく思ってくれている。
「でも私は……」
「イリス?」
「自分が何者か分からぬ頃より婚姻を結ぶという事を考えてはおりませんでした。自分を知らぬ者を愛する者も居らぬでしょうから」
「ですが……」
「ありがとうございます。お話を聞いて、今一度ルシアナに渡る決意がつきました」
そう言ってイリスはアルヴァに頭を下げる。彼は優しい表情でイリスを見ていた。アルヴァのこの表情にも、今なら納得がいく。アルヴァもまた、影ながらイリスを気にかけてくれていたのだ。
「お二人に長らえて頂いたこの命、自分の出自が分かった今こそ大切に使いたいと思います」
「イリス、必ず帰ってきてくれ。私にとっても貴女は娘なのだ」
「有り難いお言葉です」
イリスは顔を上げた。
その顔には仇国に渡る悲愴感などまるで無い。紅鼠の生き残りであり、紅鼠王家最後の一人、その自分が出来ることを粛々と。それが彼女の決意であった。