27 使者
疲れきった身体は一夜休めただけでは癒えず、翌朝日が顔を出してもイリスは身体を起こす事が出来なかった。
「そろそろ起きなくては……」
ごろりと寝返りをうって頭を浮かせる。イリスは比較的軽装だが、戦装束のまま眠るのは些か身体が痛かった。
「イリス、起きているかい?」
天幕の外からそっと声をかけられた。その声はセスタだった。重い頭を振って立ち上がり、ゆっくりと天幕を出た。
「すまない。起こしたかい?」
「いや、起きてはいました。ちょっと身体が重くて……」
「昨日の今日だからね。サミーア殿が少し話があるらしいんだが……今大丈夫かな」
「構いません」
イリスとセスタは肩を並べて、本幕に向かって歩いていた。
「昨日ビルディアが厄介な敵と対したと言っていたが……あれは大将だったのか?」
「はい、アミヴァ・ルシアナでした。撤退する所を……警護が固くて不可能でしたが」
「そうだったのか。まぁ二人が無事でよかったが」
「そういえば……あの時、奴は気になる事を言っていました」
ふと思い出したようにイリスは手を叩いた。ただの負け惜しみだと気にも留めていなかったが、今思い返せばあの時のアミヴァの表情は気になる。
「これで終えると思っているのか、と。今は一時の勝利に浸るが良いとも言っていました」
そう、アミヴァはそう言ってイリスを嘲笑ったのだ。前回会った時とはまるで違う表情で。戦中での彼のその表情は、彼が敵である事が再確認できたようで安心できたものだった。だが今思い返せばあまりの変わり様だ、裏があってもおかしくはない。
「何か気になる事があるのですか」
「ルシアナからすれば、あれだけの兵力差を覆されての敗戦だ。直ぐに撤退してもおかしくない。だが」
そう言ってセスタは顎に手を当てる。彼の考える時の仕草だ、余程気になる事があるのだろう。
「撤退が済んでいない訳ではないのですか」
「昨夜は奇襲でかなりの敵の兵力を削げたと思う。だがあれは……」
「何かあったのですね」
「朝早くに私は馬を駆ったんだ。ルシアナの陣の様子を見に行ったんだが……ルシアナの陣は増えている様だった」
「え、昨夜より更にですか」
「寡兵の我々に対するには、些かやり過ぎな程にね」
セスタの戸惑った様子はその為だったのだ。だがイリスには俄かには信じられなかった。
「昨夜の時点で、我々の方が酷く寡兵であったではないですか。兵力で勝る彼の国が、更なる援軍を呼んでいたというのですか」
「信じられぬがそういう事なんだろうね。ルシアナが挑発をしてまで起こしたがっていた戦だ、裏がない訳がなかったんだ」
以前に一度、寡兵のバルクが奇襲を以ってルシアナを退けた事があった。軍事大国であるルシアナが同じ負けを喫する訳がなかったのだ。此方が細工を弄するのであれば、彼の国は絶大な物量作戦で此度に臨んでいたのだ。
イリスとセスタが重い雰囲気で本幕に足を踏み入れると、更に重々しい雰囲気のサミーアと司令がいた。
「お疲れの所申し訳ありませんね、イリス」
「いえ。お話があるとか」
「貴女も気付いている様ですが、この戦は終わりではありません。次は昨夜以上の兵力差で対さねばならぬようです」
「セスタ殿に聞きました。ルシアナは援軍を呼んでいたとか」
イリスが頷くと、サミーアは文字通り頭を抱えた。此れ程に憔悴している彼を見るのは初めてだ。いつも飄々としている彼がそうなるだけ、状況は厳しいものなのだ。
「やはりこの戦は一筋縄ではいきませんね……。もう一度、策を練るしかありません」
もう一度、刃を交える──サミーアが言った事はそう置き換えられる。昨日勝利した筈のその雰囲気は、今やとっくに消え去っていた。もう一度ある戦――此度のそれよりも苛烈になるに違いない。そんな思いがセスタとイリスに駆けていた。
「こちら側の利は地の利だけです。ですが地形を利用した奇襲は二度は成功しないでしょう」
「兵力の差は恐らく三倍にもなると思われます」
「真正面からぶつかっただけでは勝てねぇだろうな」
サミーア、セスタ、司令が口々に考えを述べる。
話せば話す程浮き彫りになるのは、この戦のあまりの不利さ。そしてそれに対して打つ手の少なさだった。
「あまり煮詰めても進みませんから、今日はお開きとしましょうか。また明日、もう一度軍議を開きます」
サミーアの声で、頭を抱えていた面々はゆっくりと本幕を出て行った。イリスは動く気になれず、机に肘をついたまま瞳を閉じて座っていた。
「まだご自身を責めているのですか?」
穏やかなサミーアの声。ゆっくりと瞼を持ち上げると、サミーアが顔を覗き込んでいた。他には誰もいない様である。
「いや、その様な事はもう考えてはいません」
「気持ちを変えられたのですね。それは良い事です」
サミーアはゆたりと笑った。穏やかな笑みはイリスの気を軽くさせる。暫し沈黙がおりた──その時だった。
「何でしょう、外が騒がしいですね」
サミーアが出入口に足を向けた時だった。一人の兵が本幕に飛び込んで来たのだ。
「何事ですか」
「サミーア様……あの、ルシアナのし、使者が来ております……」
「使者、ですって?」
焦って言う兵の言葉にサミーアは瞠若した。この戦の現状を考えてみれば、ルシアナから使者が来る可能性は限りなく低かったのだ。
「私は出ています」
イリスはゆっくりと腰を上げた。
使者が何を持って来たのかは解らない。だが、それはバルクにとって有り難くない知らせであるだろう。イリスは本幕を後にしながら、この先の戦の状況を憂いたのだった。
使者の来訪の情報は、瞬く間に兵の中に広まって行った。それは様々な憶測を呼び、根も葉も無い噂が流れる結果にもなった。勿論それはこの劣勢に頭を抱える各将の耳にも入る事となる。
「イリス聞いたか。使者が休戦交渉に来ているらしいな」
無邪気な表情でそう言っているのはビルディアだ。噂を丸呑みでもしているのか、その物言いにイリスは眉を顰めた。
「噂を全部信じるなよ。只の流言飛語だ。あれだけ有利なルシアナ側からそんな申し入れなどある筈ないだろう」
「そ、そうか……」
すっぱりと正論で切り捨てられ、ビルディアはたじろぎながらそれだけ答えた。天幕近くの平原で、二人は鍛練として刃を交えている。身体を動かさなくてはいていられなかったのだ。
「しかし……使者も堂々としたものだ。斬り捨てられるなど考えてもいないのだろう」
「それはそれで苛立つな。なめられているみたいだ」
「いやなめられているんだ」
軽く言葉を交わしながら刃を打ち付け合う。
かきん、かきん、と軽い音が辺りに響いた。
この二人が手合わせするのは珍しい光景なのだろう、通り掛かる兵たちは何事かと言わんばかりにじろじろと見ていった。それ程までに、二人の仲の悪さは有名な話だったのだ。
目に見えて何か変わった訳ではない。だが昨日の一件があってから、ビルディアとイリスの空気は険悪なものではなくなっていた。元来裏表のない二人だ、相手を認め合えば険悪になる必要などないのだ。
日が陰る頃まで鍛練を続けて、翌日もあるしそろそろ切り上げようかという時だった。
「イリス殿、サミーア様がお呼びです」
兵がイリスに歩み寄り、そう告げた。今サミーアは使者と何やら話をしている筈、何故イリスが呼ばれるのか。イリスとビルディアは顔を見合わせた。
「何だろう。私が行って何か話でもあるのだろうか……」
「さあ。まぁサミーア殿が無意味に呼ぶ筈ないだろ、大方次の策とかではないか」
楽天的なビルディアの言葉に、イリスは首を傾げながら本幕へと向かった。
「お呼びですか、サミーア殿」
本幕は人払いがされている様で、見張りの兵以外は誰もいなかった。天幕の中には憔悴したサミーアと、珍しく気まずげに口を噤んでいる司令だけだった。使者の姿も見えない事を不思議に思い、イリスは首を傾げた。サミーアはそれを見留めた上で、彼女に座るように促す。
「使者は休んでいます。返事ができるまでは……滞在する事でしょうね」
「返事……ですか」
「ええ。使者がもたらした書状の返事です」
二人の渋い表情を見るに、その内容が悪いものである事は容易に推せた。だが何故イリスが呼ばれたのか、それだけが解らない。
「まだ誰にも書状の内容は知らせていません。まず貴女に、知らせなくてはならないものなのです」
「わ、私に?」
戸惑うイリスに、サミーアは眉宇を寄せたまま胸元の書状を差し出した。見てみろ、と言うように頷く。イリスは緊張で震えそうになる手で、その書状をゆっくり開き、そこに目を落とした。
「──っ?」
その瞳は零れ落ちそうな程見開かれる。
「な……っ! サミーア殿っ! これは……」
静かに、と言う様にサミーアは唇に人差し指を当てた。あわててイリスは声量を落とす。
「どういう事ですか……これは」
「文面の通りです。これが狙いだったとは……流石に私も解りませんでした」
唖然とするイリスの手から、書状がはらりと落ちた。広がったそれに書かれた文面。それは──。
「──一年の休戦の代わりに人質として……私を要求するなんて……」
愕然として二の句が継げないでいるイリスに、サミーアは宥める様に肩に優しく手を当てた。
「不可解な事です。今はルシアナにとって我らを討つ絶好の機会の筈、なのにそれを犠牲にしてまで一軍人を要求する。割に合いません……」
「そうです……ね」
「イリス、一つ聞きます。貴女にとって……ルシアナとは、祖国の仇敵以外の関係もあるのですか?」
そうでなければ説明がつかない。
そんな意味を言葉に篭めてか、サミーアはイリスをじっと見つめている。疑う様なものではない、気遣わしげなその視線に、イリスは目を伏せた。そう、イリスには一つだけ心当たりがあったのだ。
「ハカム川合戦の時です。私はアミヴァ・ルシアナに対する機会がありました。初対面だと思っていたのですが、彼は何故か私の名を知っていて、連れて帰ると言っていました」
「連れて帰る、ですか」
「意味が分からず戸惑いましたが、その後生まれが分かった事で安堵し、忘れ去っていたのです」
イリスが話し終えると、サミーアは考え込むように椅子に身を預けた。暫しの沈黙が下りる。イリスは耐え切れず、顔を上げた。
「アミヴァ・ルシアナとは、どの様な人なのですか」
「お前知らなかったのか。アミヴァはニキアの息子だよ」
「ルシアナ帝国建国者であり初代皇帝ニキア・ルシアナ将軍の長男、つまり次期皇帝ですね」
口々に説明されるアミヴァという人物を、イリスは呆けて聞いていた。何故仇国の次期皇帝が自分を求めるのか、理由が分からなかった。
「アミヴァの人物像は知りませんが、ニキア将軍は司令と同僚でしたよね」
「ああ、まーな」
話を振られて、司令は心底嫌そうに顔を顰めた。ルシアナはアスランの軍部が興した国だし、司令もかつてはアスラン軍部にいた。その時代に関係があったのだろう。良い関係ではなさそうだが。
「俺もアミヴァは知らねえ。息子の方は軍人じゃなかったからな。だがニキアは昔っから狡猾だったよ。それでいて腕も立つ、俺とは相容れねぇタイプだな」
「聞いていた通りの人物の様で」
「だがあいつの本に恐ろしい所はな、目的の為なら手段は選ばねぇ所だ。冷酷非道、眉一つ動かさねぇで村一つ潰せる奴だった」
ニキア将軍は、目的の為なら手段を選ばないとイリスも聞いたことがあった。それは彼の息子もなのだろうか。
耳元でアミヴァの声が聞こえる気がする。
『お前をルシアナへ連れて帰る!』
『直に分かる。今は一時の勝利に浸るが良い』
彼の一方ならぬ執着は窺えるが、やはりその理由がイリスには分からないのだ。
「何か、私の知らぬ関係があるのでしょうか……」
イリスがぽつりと零すと、サミーアが慌てたようにイリスの背を撫でた。サミーアも近頃、正確には紅鼠の出だと打ち明けてから、酷く優しい。最初の頃の冷たい彼は何処かへ行ってしまった様だ。今も気遣わしげにイリスを撫でている。
「考え過ぎかも知れませんよ。世の中には愛する女性の為に戦を起こす男もいますからね」
「あ、愛?」
「おや、男が無条件に女を欲する。根底にあるのは愛に他ならないではありませんか」
渋い表情で嫌なものを見る様に言うイリスに、サミーアは宥める様に言ったが、直ぐに表情を引き締めた。話が本題へと戻る。
「何をもってしてかはこの際おいておきましょう。重要なのは、休戦と引き換えに貴女が要求されているという事なのです」
「休戦と、引き換え……」
「私一人で結論を出して良い話ではありませんからね」
己の肩にのしかかる重責。自分の身と引き換えにすれば、この苦しい状況から脱却できる。その上、サミーアが言っていた様に、ルシアナを気にする事なく内政を整えられるのだ。
「正直な話をすれば。今ルシアナと協定を結べるのなら願ってもない話です。ですが貴女を手放す事はバルクの和を鑑みれば得策ではない」
「手放す……?」
「そうなるでしょう。我が国を討つ機会を失ってまで手に入れたい貴女、それをそう簡単に手放す筈がありません。行けば最後、貴女は二度とバルクには戻れない様にやり込められるでしょう」
行けば最後──だが行かねばバルクはこの先厳しい戦ばかりに身をおく事になる。行くのが正しいのか、行かぬが正しいのか……イリスには解らなくなっていた。
「無理する事はありませんよ。この様な高圧な遣い…本来なら斬り捨てるのが普通です」
宥めるサミーアに、イリスはきっと視線を向けた。そこには戸惑いの奥に、一つの意志があった。
「本来なら斬り捨てる筈……それが出来ぬ程苦しい状況という事ですね」
「イリス……」
「サミーア殿、もし私がルシアナに行ったとしても……必ず帰って来ます。仇敵の地に骨を埋めるなど……辱められた母が許さない」
きっぱりと言い切るイリス。覚悟を決めてしまったのだ。
「だからサミーア殿。然るべき時期が来たとき戻って来れるように……その時には、手を貸してはくれませんか」
「勿論です。私も貴女程の有能な将、みすみす手放したりはしたくありません。……ですが本当に良いのですか」
「はい。私が行く事によってルシアナの内情も探れるやも知れませんし」
「……止める事が出来ぬ現状故に、貴女に頼る事しか出来ません。心苦しい事です……」
「サミーア殿……」
「直ぐに準備出来るものでもありませんから、使者にはその旨を伝えて暫く時間をもらいましょう。陛下にも連絡をしなければいけませんしね」
そう言ってサミーアは、ゆらりと立ち上がった。休戦の協定を結ぶとなれば、政務官の彼は忙しくなる事だろう。がたりと椅子が音を立てたのを聞いて、イリスは慌てて立ち上がった。
「申し訳ありません。一つだけ、我儘を許されませんか」
「何でしょう?」
「シェコー殿に。私の知らぬ事をシェコー殿に伺いたいのです」
イリスの我儘。それは今まで一度たりとも尋ねなかった事だった。シェコーが何かを知ると感じつつも触れなかった、それを聞いておきたいと言うのだ。
それは、彼女の覚悟でもあった。




