23 鶴翼
ここは雪の国ルシアナとの国境付近、バルクからすれば国土の北の外れにあたる。季節は夏だが、このあたりは王都程の暑さはなく比較的過ごし易い場所だ。
いつもならば炎天下で休み休み調練をする所だが、もう午刻になろうかというのにまだ兵達は気迫に溢れていた。というのも、今調練の指揮をしているのは、軍事司令であったからだ。
此度の指揮官は軍事司令、いわばバルク王国軍のトップである。彼は、以前はアスランの軍部に属していたがバルク建国の際にアルヴァに従ったのだという。アスラン軍部の時代から、軍略に長けた英傑だと語られていた人であった。だがその軍事司令も今や壮年。実務のほぼ全てを補佐であるセスタに任せ、椅子に座っている事が殆どだった。
その軍事司令が北の外れまで、しかも武を振るう為にやって来たのだ。バルクのこの戦にかける意気込みが窺える様だった。
軍事司令の野太い号令が響き渡る、その時だった。
「伝令!」
血相を変えて馬を走らせる兵を見て、イリスは嫌な予感に胸が痛くなる気がした。セスタもビルディアも表情を固くしている。
「後続の本隊、道中の天候悪化の為に足止めを受けている模様! 到着はかなり遅れる様相です!」
「何だと……?」
軍事司令が壇上から駆け寄ってくる。そして掴み掛からんばかりに伝令へと詰め寄った。
「遅れるったって、いつ着くんだよ! もう戦始まってもおかしくねぇんだぞ⁉︎」
「そ……っそれがまだ正確には。天候が回復しない事にはどうにも」
「わかりました」
軍事司令の剣幕にしどろもどろになった伝令兵の後ろから、酷く冷静な声が静かに響いた。
「サミーア!」
「司令、落ち着いて下さい。今にも戦が始まりそうな今、いつ到着するか分からない本隊を待つ訳にはいきません」
「ったっておめぇ……これっぽっちの兵で何が出来るってんだよ?」
「それならばこれを逆手に策を練りましょう。圧倒的な兵力差を覆す妙策、共に捻り出せるでしょう?」
この様な状況でも至って平常通りのサミーアの言葉に、浮足立っていた兵は元よりイリス達も僅かに落ち着きを取り戻す。状況は変わっていない。だがサミーアの言葉は、一見負け戦の様相を覆しそうな程の安堵感を与えたのだった。
「錆び付いた頭を使えってか」
「錆び付いたなどとは御冗談を。貴方様にかかれば、三倍や五倍の兵力差など覆せますでしょう」
「買い被りすぎだぜ、サミーア」
これが今とてつもなく劣勢の伝令を受けた直後の将だろうか。呵呵と豪快に笑い白髭を弄る司令は、とても妙策を考え出しそうには見えなかった。だがサミーアと共に部屋へ篭ってから一刻。その感想は一気に覆される事になるのだが。
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集落に逸早く派遣されていた先駆隊、イリス達が伴った視察隊、そして司令とサミーアが伴った早駆け部隊。今バルクが此処に有するのは以上の僅か千人の兵だけだった。
一千人で行うルシアナとの戦、相手の数は定かではないが、一千程少ない数ではあるまい。本隊が到着してもまだ、こちらの方が寡兵であろうとの予想だったのだ。それ程、それ程までの兵力差、どんな奇策をもって臨むのだろうか。
イリスは一人、調練には参加せず物思いに耽っていた。この戦を招いたのは己の不覚による。いくら心持ちを変えたにしても、このような苦しい戦となってしまってはその罪悪感は拭えようもない。
その時だった。司令の明るい声が響いたのだ。
「おめぇら! 策の説明をするぞ!」
その言葉に目を遣ると、サミーアと司令が図面を持ってゆったりと歩いて来るのが見えた。時間にはまだ早いが、その表情を見るに策は練り上がった様で、皆が司令の元へ駆け寄る。だが口を開いたサミーアの声は、酷く重々しいものだった。
「策は練り上がりました。ですが皆さん、特に貴方方には骨の折れる陣立てとなりそうです」
そう言ってビルディアとイリスを順番に見遣る。そんな事は解っていた事、と二人は一様に頷いた。それを見てサミーアは地に図面をはらりと広げた。
「今から陣容を説明します。
心配なさらなくても、セスタ殿には大切な役目がありますよ」
サミーアがそう言って薄く笑むと、図星だったのかセスタは気まずそうに頬を掻いて図面を覗き込むのだった。
「先ずは敵の陣形ですが、圧倒的な兵力差です。十中八九敵は*鶴翼を敷いてくるでしょう」
そう言いながら、サミーアは図面に敵を模した型をずらりと横一文字に並べた。そしてその数より明らかに少ない模型をその向かいに置く。
「ただ攻めるだけではこの様に攻められて……終わりです」
そう言って敵の陣形を動かした。数少ない味方の模型は、横一列に並んだ敵に徐々に包まれていった。みな一様に固唾を呑んでそれをじっと見ている。
「だがな、敢えて何も仕掛けねぇ」
「え⁉︎」
だが司令の思いも掛けない言葉に、皆は図面に向けていた顔を一斉に上げた。司令は表情を動かさず続ける。
「落ち着け。仕掛けないのはここ、だけだ。策は……後ろにある」
そうして、少ない味方の陣の後ろに一団だけの陣を置く。その陣を敷いた場所というのが。
「丘の上、ですか」
「ああ。敵の陣容を見りゃあ、俺らは僅かだが丘の上に陣を張る事が出来る。今詳しく説明すんぞ!」
司令は模型を元の形へと戻した。図面の上には、ルシアナを表す鶴翼の陣とそれに対峙するバルクの陣、丘の上に僅か一団の模型が置かれていた。
「まず敵に対峙する陣には、俺とイリス、ビルディアが布陣する。全員で鶴翼の展開を食い止めるんだ」
「これだけの兵で……?」
「ああ。その為に横一列の陣を敷いて、俺らは両端に布陣するんだ。鶴翼の利ってのは多兵で敵を包み込む……となりゃ包み込ませなければ良いって訳だ」
「でも……いつまでも保つものではないですね……」
イリスの呟きに司令は頷いて丘の一団を指差す。後を継いでサミーアが説明を始めた。
「その為にセスタ殿には丘の上に待機して頂きます。ですが……兵は殆ど預けられません」
「それは承知しました。ですが……私は何の為に丘の上に?」
「後顧の役割です。貴方が丘の上に布陣するだけで、敵は必ず攻めあぐねます」
サミーアの言葉に、各人が朧げに策の概要を理解し始めた。だがセスタだけは不満そうな表情を露にしていた。
「私の役目とは……布陣するだけですか?」
「とんでもありません。敵は丘の上を探るため、必ず斥候を放ちます。セスタ殿はそれらを一人たりとも逃してはなりません」
「わかりました。私の役目は丘の上の様子を悟られぬ様にする事ですね」
「そうですね。貴方ほどの将が後に控えているだけでも、ルシアナを足踏みさせられる事でしょう」
サミーアと司令の一連の説明が終わり沈黙がおりると、イリスとビルディアがゆっくりと声をあげた。
「でも、これでは時間稼ぎにはなっても根本的な解決策ではないのでは。本隊が到着してもこちらは寡兵なのでしょう」
「セスタが後ろに控えているとはいえ、我らもいつまでも陣の展開を抑えられるとは思わんしな」
司令は頷き、再び地形図を指差した。皆は一様に司令の指を追う。
「本隊到着の連絡が入ったら、セスタには斥候を討つのを止めてもらう。敵に、こっちの陣容を明かしちまうんだ」
「何故にそんな事を?」
「こっちが明らかな兵不足だって事を分からせて、油断させる為だ。敵は絶対に、そこで陣を展開させるだろ。丘の上の一団なぞ、取るに足らんからな」
「そんな事をしたら……」
僅かに動揺を見せ、セスタが小さく呟く。サミーアはそれを聞き留めて、ゆっくりと頷いた。
「そうです、此処が先鋒隊の踏ん張り所となるでしょう。ですが本隊が到着すれば、こちらは鶴翼を展開した敵を挟撃する事が出来ます」
サミーアの言葉に、セスタは不満げに小さく息を吐いた。
確かに彼の役割は重要ではあった。だが丘の上はだだっ広く何もなく、その上着陣するのは数少ない騎馬兵のみ。そこに間諜に来る敵兵を討つ事は、何ら難しい事ではないだろう。だから。
「何故丘の上の着陣は私でなくてはならないのですか」
セスタがこの様に思う事は無理からぬ事だ、とイリスは思った。皆の任はあまりにも苛酷で己の任は易し過ぎる、と考えているのだろう、と。
だがサミーアは取り付く島もない程あっさりと断言した。
「何故貴方でなくてはならないか。それはイリスやビルディアでは務まらぬからです」
「おいサミーア、はっきり言うなぁ」
きっぱりと告げるサミーアに、司令が苦笑を浮かべながら嘆く真似をした。だがセスタの真剣な眼差しを見て、肩を竦めてみせる。
「皆まで言った方が良いですか。一人の間諜も見逃さぬ程の視野と冷静さを持ち、尚且つ敵に威圧感を与えられる程武名を有するのは貴方くらいです。他に適任はいません。司令には先陣で気張って頂かなくてはなりませんしね」
セスタの真剣な視線に交ぜる様に、サミーアは真っ直ぐ彼を見遣った。
僅かな沈黙の後、セスタは僅かに目を伏せながら、了解しました、と声をあげた。納得はしていないが思いは抑えた様で、その拳は小さく震えている。
サミーアはゆっくりと頷くと、鼓舞する様に大きく声をあげた。
「苦しい戦いには違いありません。ですが必ず、戦況を覆してみせましょう。その力が私たちにはあるのです」
皆、その言葉に強い瞳で大きく頷いた。図面の上の模型の数の差が、この戦の苛烈さを物語っていた。
*鶴翼‥‥陣形の一種。味方を横一列に長く配置し、敵を包み込むように陣形を展開させる。主に自陣が敵より多兵の場合に用いる。