1 仕官
女は歯噛みしていた。彼女の燃える様な紅く長い髪が、纏められた左耳辺りで苛立たしげに揺れている。
周りには取り囲む屈強な体つきの男が数人。彼らの腰には大剣が下げられ、顔には好色な笑みが浮かんでいた。
「何故こんな事になっている」
自分を取り囲む男たちを睨みながら、女は歯の隙間からそう零す。彼女は確か、薬草摘みに来たのだ。そこをどうやら人攫いに狙われたらしかった。
彼女の名はイリス。薬師である養父の為に、バルク国王城近くのオアシスに薬草を摘みに来たのだ。
バルク王国は砂漠に囲まれた国だ。だからオアシスには必然的に人が集まる。それは決して善良な民だけではなかった。
「上玉だ、逃すんじゃねえぞ」
「ああ。しかもあの紅い髪、高く売れんぞ」
下卑た会話で、彼らがやはり人身売買目的の人攫いであると分かる。大陸では珍しいイリスの紅い髪が、大層お気に召したらしい。
それならばと、彼女はおもむろに薬草が山積みになった籠から、ある物を取り出した。
それは二つの鉄製の鞭であった。イリスは籠を投げ、二つの鞭を両の手に持って構える。それだけで武の心得があると相手に示せた筈だ。
だが人攫いらは怯まなかった。ニタニタと笑みを浮かべながら間合いを詰めて来る。牽制する為に、イリスは鉄鞭を一度地面に叩き付けた。
イリスはまだ迷っていたのだ。いかに咎人であろうと、この鉄鞭を振るって良いものかと。何故ならその鉄鞭には殺傷能力を極めて高めた棘が無数に付いており、振るえば最後、人攫いらを血塗れにして伏す事になると分かっていたからだ。
だがそんなイリスの迷いも気にかけず、男たちは動き始めた。睨み合う状況に飽きたのか、男の一人が笑んだ顔のまま、イリスに飛びかかって来たのだ。女一人相手に男が数人、彼らが油断しているのも無理なかった──のだが。
イリスは地面を蹴って双鞭を振り上げると、今自分が居た場所に突っ込む男の首筋に叩き込んだのだ。どう、と音を立てて倒れ込む男、そして驚きに目を瞬く周りの男たち。倒れ伏す男の首には、ざっくりと棘が絡み付いている。
「私を捕まえる事は出来まい」
そう言って鞭の柄を突き出すイリス。──だからもう行ってくれ、とのイリスの願いは叶いそうにない。
空気が変わった。彼らはもう笑みを浮かべてはいない。その顔に明らかな敵意を浮かべて、腰に穿いた大剣に手をやっている。
だが今更遅い。イリスの双鞭は相手の急所を的確に捉え、瞬く間に取り囲む男たちを地に伏せたのだった。
「全く。相手を見て喧嘩を売らなければ」
地に伏す男たちの後頭部にそう吐き捨てて、イリスは手にしていた鉄鞭の血を払う様に、一度地面に叩き付けた。
これは正当防衛を訴えられるだろうか、と頭を抱えかけた時だ。
「君は……」
背後で鋭い声が聞こえ、イリスは咄嗟に鉄鞭を声の主に向けた。敵の加勢かと睨み付けた筈のイリスの目は、直ぐに見開かれる。
一目で身分あると分かる若武者が、イリスの牽制の鞭を気にも留めず、じっとイリスを見ていたのだ。穏やかな顔立ちの美丈夫だ。バルク王国の軍人だろうか、まずいところを見られたとイリスは内心舌打ちをした。
「わ、私は被害者なのですが」
血塗れで倒れ伏す男たちの真ん中で、一応そう言ってみれば、若武者は一度こっくりと頷いた。
「知っている。見ていた」
見ていたなら何故助けない、と尤もな恨み言を胸中で呟き、イリスは先程投げた籠を掴む。
「ならば良かった。では後はお願いします」
「待て、少し話を聞きたい」
だろうな、とイリスも足を止める。咎人とは言え、人を傷付けたのだ。イリスも咎められるのだろう。
だが直後に若武者から出てきた言葉は、予想だにしないものだった。
「軍人か。何処の部隊の者だ、女兵がいるとは聞いていないが」
「いえ。私はただの薬師見習いで御座います」
「そなたは武人ではないのか」
そう言って近距離からイリスを見下ろす若武者は何故か残念そうだ。
「そなた程の腕がありながら武人ではないとは……どうして悔やまれる」
残念そうに笑いながら顎を撫でる若武者を見て、イリスは呆気にとられた。人を傷付けた咎めを受けるのではなく、どうやら自分の武が彼のお眼鏡にかなったらしい。それで良いのか、と心配になる反面、褒められて純粋に喜ばしい気持ちにもなった。
「有り難いお言葉にございます。しかし薬師見習いの私には勿体のうございます」
「いやいや謙遜召されるな。そなたの武にはひと方ならぬ努力が窺われる。良ければ仕官など考えては見ぬか」
「いえいえ滅相もございません。私などが武人の皆様と肩を並べて武を振るうなど、とても」
「過ぎたる謙虚は嫌味だ。ならば何故そなたはそれ程の武を手にした。一朝一夕にはならぬそれを、ものにした理由がそなたにはあろう」
「理由……にございますか……」
美丈夫に詰め寄られて、イリスはたじろぎながら胸に問うた。
確かにイリスは、ただの薬師見習いにしては武に拘っている。優しい養父が窘めても、日々の武の鍛錬を止めようとはしない。
ならば自分は何故こんなにも武に拘るのか。理由を、イリスは説明できないのだ。それには理由があった。
「……私には記憶が御座いませんので。ただ何故か強くならねばならぬ、と焦るのです」
「記憶が、ない」
「はい。7年前より以前の記憶が一切御座いません。記憶もないのに、身体に染み付いた武が疼くのです」
「記憶がない……」
そこで若武者は言葉を止めた。怪訝に思ってイリスが彼を見遣ると、何か思い至った様に手を打っていた。
「そなたまさか、シェコー殿のご息女か。王室付きの薬師シェコー殿の養女であろう」
「確かに。私の父はシェコーですが」
「話には聞いていた。7年前に記憶のない少女を拾い育てたが、これが酷く変わり者で止めるも聞かずに武を嗜むと」
「その様な事を……?」
「城に入れて、薬師として生きるならそれも良し、娘御が望むならば武人として生きる道を、と国王様に願い出たとか。国王様はお優しい方だからな、シェコー殿の頼みなど二つ返事だ」
穏やかに笑う若武者を、イリスは信じられない思いで見つめた。
まさかそんな筈はない。
だってシェコーはいつもイリスが武器を握るのを快く思っていなかった。薬師助手として城に入れてくれたのだって、武にばかりかまける自分をどうにかしたいと思ったに違いないのだ。だから自分に武人としての道を用意してくれたなど、何かの間違いだ。
そう思うのに、目の前の若武者は、
「まさか、知らなかったのか」
そう言って優しく笑ったのだ。
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此処はバルク王城の一室。王室付きの薬師、シェコーの居室である。遣いを頼んだ娘の帰りが遅いと、シェコーは部屋の中をうろうろしていた。
娘はもう二十余のいい大人だ。だが記憶を失くし感情も乏しい彼女は、シェコーにとってはまだ庇護すべき娘だった。
探しに行こうかと扉に手を伸ばしかけた時、がちゃりと音と共に独りでに扉が開かれた。
「あ、イリス心配したではないですか。何かあったのです……か……?」
シェコーの言葉が途切れたのは、無理からぬ事だ。扉を開けたイリスの表情は、今までにない『何か』を滾らせていた。
「ど、どうしたのですかイリス」
「シェコー殿」
イリスは籠をシェコーに押し付けた。萎れた薬草が押し込まれたそれを両手に、シェコーは目を瞬かせる。
「イリス」
「シェコー殿。先程、バルク王国軍の方とお会いしました」
ばさり、薬草が地に散らばる。シェコーの手から籠が落ちたのだ。シェコーはイリスの言葉と表情だけで、何があったかほぼ悟っていた。
「私は王国軍に入ろうと思います。貴方の真意を裏切って」
イリスは跪く。記憶のない少女を拾い、育て、心を砕く彼に敬意を表して。そして武から離れられぬ自分を断ずる様に。
シェコーはゆっくり目を閉じて息を吐いた。
まさかこんなに早くこうなってしまうとは。確かに自分は彼女のために武人としての道も用意した。それは失くした筈の記憶に苛まれる彼女を見兼ねての事で、決してシェコーの本意ではなかった。出来得るならば、彼女には平穏に生きて欲しかったのだ。
だがそれも叶うまいと、シェコーには分かった。イリスの腰には、血の付いた鉄の双鞭がゆらりと下がっていたのだ。