17 機微
暫くの間大きな戦は起こらないであろう、という皆の見解の中、イリス達バルク王国軍はそれでもいつかは来るであろうその時に向けて熱心に鍛練を行っていた。以前セスタに頼んだイリスの銃の訓練についても滞りなく行われ、思った以上の効果があがっていた。
内政の人手不足もどうにか落ち着き、イリスたちのような武官が頭を捻ってどうにか済まさねばならぬような書類仕事が回ってくることは滅多となくなっていた。それでも、シルヴィアが執務を押し付けるビルディアを追いかけ回す姿を見ない日は皆無に等しいが。
そんな折りだった。
「視察、ですか」
「そうです。貴女とセスタ殿にお願いしようかと思っているのです。北の方のルシアナとの国境辺りなんですが、最近何かとルシアナの方で不審な動きがあるのですよ」
「ルシアナですか。それは只の視察でしょうか。戦に発展したりはせぬでしょうか」
「それを確かめに行ってもらいたいのですよ。ですから万が一の事を考えて、貴女とセスタ殿に頼むのです」
サミーアが暑そうに扇子をゆらゆらと動かしながら、行ってくれますか、と優しく問うた。イリスはこくりと頷いて、サミーアをじっと見つめる。
その他に、何か留意すべき事を窺おうと思ったのだ。するとサミーアは、扇子を口元に当て、難しい顔をしたままイリスに頷いた。
「セスタ殿と一緒ですから大丈夫だとは思いますが、くれぐれも無茶はせぬように。出来るだけ穏便に済ますのですよ」
そう。今はまだ、我らはルシアナやアスランと刃を交えられる程の安定した国力を付けていない。それは新たな地に王国の力がやっと根付いたばかりであって、充分な兵糧や兵などが揃っていない事に起因する。まだ時ではないのだ。
だが自国の土地にちょっかいを出す者たちを野放しにしていては、それこそバルクの現状を露呈しているに等しい。形だけでも、こちらはその構えがある事を見せねばならなかった。
「了解しました。急ぎ支度に取り掛かりましょう」
膝を付いてそう言うと、サミーアは満足げにゆったりと何度か頷いた。
「出立は明後日にでもお願いします。セスタ殿にも伝えておきますから」
「分かりました」
そうして、イリスはサミーアの執務室を辞した。
万全な態勢を調えなくては。何故か嫌な予感がする。イリスはそれを払拭する為、支度に取り掛かるのだった。
戦をする訳ではない。勿論こちらはそのつもりなのだから、大軍団を率いて行く訳にはいかない。ルシアナとの関係を刺激しかねないからだ。つまり、少数精鋭の隊を編成せねばならないという事だ。それには先ず兵たちの訓練を見てみようと、イリスは調練場へと向かった。
調練場を囲む回廊の手摺りに腰掛けて、眼下の兵たちを臨む。どうやら今日兵たちを訓練しているのは、ビルディアの様だった。
じっと訓練の様子を窺っていると、こちらに気付いたらしいビルディアとふと目があった。するとビルディアは手を止めて兵たちに休憩を言い渡し、こちらへと歩いてきた。
「何か用か?」
「まぁ、多少。訓練を見ていて良いか」
「構わん。何か気になる事でもあるのか?」
「少数精鋭の部隊をつくらねばならなくなった。訓練を見て決めようかと思って」
イリスの返答に表情を引き締めたビルディアは、兵たちに聞こえぬように声量を落として尋ねる。
「何かあったのか?」
「北のルシアナとの国境で不穏な動きがあるらしい。一応名目は視察だが」
「ふむ……そうなのか」
「まぁこちらも戦を仕掛ける訳ではないから、大した事にはならないだろう」
そう説明すると、ビルディアは一瞬考えるような仕草をしてから口を開いた。
「俺も行ってはいけないのか?」
「は?」
「だから。少数精鋭ならば俺が行くのもいいだろう?」
「物見遊山で行くのではないが」
「当たり前だろ。そんなつもりではない」
自信ありげにそう言うビルディアに呆れの視線を遣りながら、イリスは溜め息を吐いた。
彼が理由なくイリスの任務に付いて来たがる筈がない。二人とも良い大人だから避けるほどではないにしても、イリスとビルディアは簡単に言えば仲が悪かった。
だから余計、彼がそう言う理由が分からない。
「では何故付いて来たがる? 遊びではないし、万が一にもややこしい事になるかも知れない」
イリスが諭すようにそう言うと、ビルディアは眉根を寄せながら声を潜めた。
「お前察しろよ。戦がない間はずーっと執務と鍛練なんだぞ、俺は耐えられん。視察だかに出る方がましだ」
自信満々に言い切るビルディア。成る程な、と思ってしまったイリスはたしなめる事を諦めた。
確かにいつも執務を押し付けられているシルヴィアにとってもその方が良いかも知れない、薄く息を吐いてビルディアを見る。
「分かった。サミーア殿が了承したらな」
「よし、ならば早速聞いてこよう」
善は急げとばかりにサミーアの所へ向かうビルディアの後ろ姿を見ながら、イリスは苦笑を漏らした。
まだイリスはビルディアと共に戦場に立った事はないが、腕は確かなのだろう。精鋭を求められる今回の任務に、彼がいてくれる事は正直有り難かった。イリスは、ビルディアの言い付け通りに休みを摂っている兵たちに解散を告げ、自室へと足を向けた。
いつの間にか震えている手に気付き、イリスは足を止めた。ジャンナトの苦い記憶以来の任務だ、些か緊張しているのかも知れない。己の未熟と慢心の為に、同郷の士と部下を亡くした。あれは決して遠い昔の事ではない。
戦の記憶を思い起こせば起こす程、苦く居た堪れない感情が巻き起こり、それは次第に気合いへと変わっていく。二度と同じ轍は踏むまい、と。
いや、踏んではいけないのだ。
「おい、イリス。許しを貰ってきたぞ」
そんな気合いをたぎらせるイリスの雰囲気も気にとめず、ビルディアは後ろから声をかけて来た。こんな所に居やがったのか、と言いながら歩み寄るビルディアに、イリスは彼らしいと内心苦笑して振り返る。
「俺も共に行って良いそうだ。詳しい事は分からんからお前に任せるがな」
「よくそれでサミーア殿がお許しを出したな」
「まぁな。執務の話をしたら早かったぞ」
「‥‥‥分からんでもない」
呆れた溜め息は彼と話していれば自ずと出る。半ば癖になりかけたそれを意識して飲み込み、イリスは表情を引き締めた。
「準備は? 出立は明後日だ」
「直ぐに出来る。俺には銃と馬だけあれば充分だ」
「隊の編成はどうする」
「‥‥‥小難しい話はお前に任せる」
「はは、全く。いつも貴方はそれだな」
さして興味もない様子で言い放つビルディアに、イリスは思わず呆れて笑ってしまった。それを見たビルディアが意外そうに目を丸くしている。
「何か顔に付いているか」
「いや。お前でも笑うのかと思ってな」
「……貴方は私を何だと思っているんだ」
「だって俺はお前が表情を崩したところを見た事がないぞ」
「人を朴念仁みたいに……」
「その通りじゃないか」
にやりと笑ってそう言うビルディアを眉根を寄せて見遣ると、彼はイリスを指差して笑った。
「ほら、お前いっつもこーんなして眉間に皺があるんだぞ」
自分の手で眉を寄せながらイリスの顔を真似しているらしいビルディアに、彼女も思わず眉間に指を遣る。
「そうか?」
「ああ。お前いつも怒っているからな」
そう言われてみれば、ビルディアと話せばいつも口論になってしまっている。イリスは間違った事を言っているつもりも無いから気にしていなかったが、彼は同僚だ。
あまり頑とした態度を取り続ける事も良くないだろう。
「……心に留めておくよ」
そう言うとビルディアが薄く笑った。
それを見て、イリスも彼の笑顔を余り見た事がないのに気付く。今回はビルディアの忠告を気に留めておこうと思ったのだった。
「隊の編成だが……私に一任されてもな。セスタ殿に相談しなければ」
「ん? セスタも行くのか?」
「……サミーア殿から聞いてないのか?」
「何も聞いていない。俺は取り敢えず視察に参加したかっただけだからな」
自慢気に言い放つビルディアを無視して、イリスは踵を返した。
「では私はセスタ殿の所へ行って編成について話して来る。貴方も今日のうちに執務を終わらせておいた方が良い」
「はぁ……戻るのか。シルヴィアが鬼の様な形相で部屋に居るんだろうなぁ」
「ならば余計に早く行ってやらなくては。執務が終わっていないから行けないなどと言うなよ」
「分かっている。お前は俺の母か!」
軽口を叩きながら別れる。足取りの重そうなビルディアの背中を、少し不安な心持ちで見送ったのだった。