16 自覚
翌日の朝イリスは軽装に身を包み、鍛錬の為に練習用の鞭を持って部屋を出た。そしてわざわざ遠回りして、セスタの部屋を訪れた。もちろん、銃の訓練の事を頼む為である。
「セスタ殿、いらっしゃいますか?」
扉を叩きながら声を掛けると扉は直ぐ開かれ、中から爽やかな表情のセスタが顔を出した。そしてイリスの姿を見遣り、予想が付いたように穏やかに笑う。
「鍛練のお誘いかい?」
「それもあるのですが……道すがら話したい事もあるので」
「君が? なんだろう。少し待っていてくれ。直ぐに支度をするよ」
そうして部屋に通された。
イリスが自身の部屋を持たない時こそ、ここに入り浸りだったが、最近ではめっきり部屋に入っていなかった。久々だな、と思いながら変わらぬ部屋を見遣る。彼の部屋は、彼の人柄を表す様に小ざっぱりとしている。
辺りを見回しながら時間を潰していると、衝立の向こうからセスタの声が掛かった。
「すまないね、待たせて。何分書類仕事が立て込んでいるんだよ」
「貴方もですか……。私たちの様な軍人には手に負えないものまで所々混じっておりますが」
「人手不足という事だ。特に気の毒なのはシルヴィアだよ」
「確かに。昨日もビルディアに押し付けられて死にそうになっておられました」
「はは、毎日繰り返しているんだな」
「……毎日、なのか」
そこまで話すと、身支度を整えたセスタがすまないね、と言いながら顔を出したので、イリスたちは揃って部屋を出た。
「それで……話って何だい?」
セスタが笑顔でイリスに話を促す。彼女は口を開きかけて、先程の話を思い出し噤んだ。
『何分書類仕事が立て込んでいるんだよ』
彼はそう言ったのだ。その上更に、自分に時間を割いて欲しいなどと言えない。
「申し訳ありません。忘れてください」
「何故? 急に……」
「大した話ではないのです。貴方に迷惑を掛けるところでした」
「君が、私に? 良いから言ってごらん」
セスタは煮え切らないイリスに、優しく促す。言って良いものか迷ったが、言わない方が却って彼の気が済まなさそうだ、とイリスは口を開いた。
「これは頼んでおりません、話すだけです」
「分かった」
セスタがこくりと頷いたのを見て、イリスは諦めて口を開いた。
「部隊と共に鍛錬をするのに、銃を扱えねば意味がないと思いまして」
「それで銃の訓練を見て欲しかったのか?」
「そういう事です」
そう言うと、セスタは真面目な君らしい、とくすりと笑った。
「どうして頼んでくれないんだ?」
「……貴方は忙しすぎます」
「それは君もだ。で、どうするつもりなんだい?」
意地悪そうに尋ねられて、イリスはうっと言葉を詰まらせた。それを考えていなかった。
彼女は目を泳がせながら適当に言葉を紡いだ。
「ビルディアにもう一度頼んでみようかと」
「ビルディア? もう一度って……」
セスタの目が僅かに鋭くなった気がした。彼は先程までと打って変わって、少し不機嫌な様子を見せた。
「ビルディアに頼んでいたのか……」
「あぁ、断られましたが。もしかしなくとも私は嫌われていますので」
少し笑ってそう言うと、言葉を選んでいたセスタが、イリスの肩を優しく掴んで止めた。
「遠慮なんてしなくて良いんだよ。こうして共に鍛錬するんだから、それと何が違う?」
「ですが、教えるばかりでは貴方の鍛錬にはならぬでしょう」
「全く、君は何でも一人で完結させてしまうんだから。私だって君の成長は楽しみなんだよ」
「成長が楽しみ、ですか」
「そう。初めて君に会った時に思ったんだよ、君は何か凄い可能性を秘めているんじゃないか、ってね」
「私が?」
「間違いではなかったろう? 薬師見習いの筈の君を見出したんだから」
そう言ってセスタは悪戯っぽく笑った。
確かに彼は、ただ一度だけイリスの武を見ただけだった。それなのにいたく気に入って、また気にかけてくれていたのだ。その理由を今初めて聞いた。
「そうか。貴方は私に期待してくれているのですか」
「そうだよ、初めて知った顔をしないでくれないか。でなくては君を副将などにしていないよ」
「セスタ殿……」
イリスは口を震わせた。女だから、女のくせに、女だてらに……そんな言葉は軍に入る時に覚悟していた。だが心の何処かで辛くも感じていたのだろう、セスタの言葉がとても嬉しいのだ。
「有り難うございます。私を見出してくれて」
そう言って、イリスは笑ったのだ。いつもの彼女とは違う、満面の笑みで。
それを見てセスタは何故か少し苦そうな表情をした。だが彼の心の機微など、今感激に震えるイリスには気付けなかった。
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イリスに表情を見咎められなくて、セスタは幸運であった。だがそんな事に気を掛けられぬ程に、セスタの方も頭がいっぱいになっていた。
今まで誤魔化してきたが、もう無理そうだ、と。自分は公私の分別がつく人間だと思っていたのに、それを認めたくなくて、彼は何度も自分に言い訳をしていた。友人であるから、自分が軍に取り立てたから、近しい人であるから、言い訳などどうとでも出来た。
その度に湧き上がる、釈然としない思い。セスタは聡明だ、気づかぬ筈はなかったのに。思えばずっと前から、セスタの胸には言葉に出来ぬものが刺さっていたのだ。それが恋心だと、分からぬ筈がなかったのだ。
「と、とにかく。調練場に行こうか。時間は有限だ、有意義に使わないと」
「そうですね。行きましょう」
自分の頭を切り替える為、セスタは少しわざとらしい位大きな声を上げた。イリスは機嫌が良いのか、いつになく顔が緩んでしまっている。それを好ましく思ってしまうあたり、やはり厄介な感情だ、とセスタは嘆息したのだった。
「おうセスタ、精が出るな」
セスタは考え事をしていて気が付かなかった。彼の後ろには廊下からこちらを覗くビルディアがいたのだった。
「なんだビルディアか。君も鍛練か?」
「いや? サミーア殿に書類を届けに行った帰りだ」
「それもシルヴィアにやらせたものなんだろう」
「……まぁそうだな」
いつものことだ、とセスタはさして驚きもせず呆れた様に笑った。
そのビルディアが瞳を落ち着かなげに動かして、調練場の中に何かを探しているようだ。イリスか、とセスタは予感がして問うてみた。
「誰かを探しているのか?」
「な⁉︎ あ、いや……イリスがいるかと思ったんだが」
セスタの予感は当たっていた。であればビルディアの落ち着きのない様子から鑑みるに、恐らく銃の訓練の事だろうなと思ったセスタは口を開いた。
「そういえば。イリスが君に銃の訓練を頼んだみたいだね」
「あ? あぁ……」
急に話題を振られたビルディアは素っ頓狂な声を上げた。だが直ぐに落ち着き払ってセスタを見る。
「まぁ忙しいからと断ったんだが」
「そうか。すまないねビルディア、迷惑をかけて。彼女の訓練は私が見るよ」
セスタが先手を打った。ビルディアからイリスに話があるとすれば、断った話を撤回するに違いなかった。それを彼女が聞けば、彼女の事だ。セスタが忙しいからを理由に、ビルディアに訓練を付けて貰う事を選びそうだったのだ。
先程自分の想いを自覚したセスタだ。イリスとビルディアを二人きりにはしたくない、と考えてしまっていた。ビルディアはというと、セスタの様子に些か驚きながら出鼻を挫かれたようで引き攣った笑いを浮かべていた。
「……そ、そうなのか。困っていた様だからとシルヴィアにケツを叩かれたんだ。そりゃお前が見た方がいいだろう」
思ったよりもあっさりと引き下がったビルディアに、些かの気まずさを感じたセスタは、それをごまかすように笑って言った。
「すまないな、気を遣って貰って」
「いや、いい。却ってその方が彼奴もいいだろう」
もう用もなくなったビルディアは、じゃあなと手を挙げて調練場を去って行った。その姿を見送ったセスタだったが、ビルディアが見えなくなるとしゃがみ込んで頭を抱えた。
「穴があったら入りたい‥‥‥」
そう独りごちる。
イリスとビルディアは同僚だ。何故上官である自分が、仲の良くない二人を取り持たないのか。決まっている、偏に自分の想いの為なのだ。こんな事ではいけない、とセスタは頭を振った。
下らない嫉妬などという感情を振りかざす気にはならないし、セスタ自身その感情を良しとする程小さな男でもない自負があった。だから二人の間を取り持つ事もやぶさかではないのだ。当たり前だ、結局のところセスタにとって、イリスもビルディアも大切な部下なのだから。
セスタは顔を上げる。少し混乱はしているが、問題はない。何故なら彼は優秀な軍人であったのだ。イリスへの想いを秘めつつ、務めをこなすなど難しい事ではなかったのだった。