14 衝撃
「セスタ殿いらっしゃいますか。イリスです」
何度かセスタの部屋の扉を叩きながら声を掛けるが、なかなか返事はない。戦から帰還したその日だ。恐らく疲れて眠っておられるのだろう。夜遅いには違いないし、日を改めよう、とイリスが部屋の扉の前から踵を帰した。
その時だった。少し離れた、今まで空き部屋だった筈の部屋の扉ががちゃりと音をたてたのは。そして中から昼間見た西洋の装いをした男が出て来た。短い白金の髪をしている。
イリスの窺う様な視線を感じ取ったのか、その男はすいと彼女に顔を向けた。新しい将ならばこれから何かと世話になる事もあるだろう。挨拶だけはしておこう、とイリスはその男に近寄り向き直った。
「セスタ、寝ていただろう」
予想外に男に先手を取られて、イリスは言葉が出ないままに頷いて答えた。
「恐らく疲れているんだ。あの男は生真面目だからな」
男は明るい顔をしながら尚も話を続ける。イリスが何者か尋ねないあたり、セスタから話でも聞いているのだろう。そう一人で合点したイリスは口を開いた。
「全くだ。人を呼び付けておいて寝ているなど。少しは力の抜き方を知れば良いものを」
すると男は一瞬虚を突かれた顔をしたが、直ぐに表情を崩して、あははと笑った。
「お前なかなか言うな。気に入った、俺の部屋に来ないか?」
「部屋に? 今からか?」
「ああ。今から」
男は人懐っこそうな表情をして笑って言った。
悪戯っ子の様なその表情に、仕方ないか、とイリスも眉を垂らす。新しい土地で心細いのだろう、親交を深めたいのかも知れないとイリスも頷いた。
「分かった。少しだけお付き合いしよう」
「よし決まりだ。こっち来いよ」
男はにっかりと笑ってイリスを部屋へと引き入れた。
「貴方が新しく入ったという方か」
「知っているのか? ビルディアだ。もう一人俺と共に入った奴がいる。弟のシルヴィアという。仲良くしてやってくれ」
「承知した」
「……お前なかなか変わった喋り方をするんだな。じじ臭いというか」
「放っておいてくれ。癖なんだ」
「はは。まるで男の様だな」
酒を呑み交わしながら、他愛もない話をする。
このビルディアという男、気さくでなかなかに人あたりが良いらしい。人付き合いが苦手なイリスには羨ましく感じて、顔を綻ばせながらビルディアの話を聞いていた。
そうしていれば、酒に強くないイリスの頭は直に痛み出した。
「大分酔ったみたいだ。酒は強い方じゃないのだ」
「そうか、少し飲ませ過ぎたな。休めばいい」
ならば失礼させてもらおうと腰を浮かせ、ふらつく足元を押さえながら入り口の方へと向かおうとした、時だ。
「そっちじゃないぞ」
「な──」
ふわりと抱き上げられるのが分かった。
親切に運ぼうとしてくれているのかと思いきや。
「おい! 何処へ連れていく気だ」
「何処って……寝台に決まっているだろ」
そう言われてどさりと降ろされた場所はイリスの寝台ではない。当たり前だ、まだ部屋から出てはいないのだ。
「何をする!」
「五月蝿い。少し黙れ」
煩わしそうに眉を寄せたビルディアは、あろう事かイリスの上に覆いかぶさって来た。
いつもなら難無く投げ飛ばす所、今回はそういう訳にもいかない。酔った身体は言うことを聞かず、力一杯振るう腕に肩の傷がぴしりと痛みを訴えていた。まだ会って間もない他人の部屋で酔うなどと、浅はかな事をした自分を呪いたかった。
「どけ! そんなつもりで酒を呑んでいた訳ではない!」
「した事ないと淑女ぶるつもりか。商売女のくせに」
ビルディアが下卑た笑いを浮かべながらそう吐き捨てる。
その瞬間だった。耐え切れない何かが、己の内から湧き上がって来るのが感じられた。吐きたくなる程の嫌悪感、暴れたくなる程の、殺したくなる程の拒否感だった。
「嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だああ!」
「──は?」
駄々をこねる子供の様に叫び出したイリスに、ビルディアは一瞬虚を突かれてその動きを止めた。
「どけ!」
「うおっ?」
呆気にとられて力を抜いたビルディアの大柄な身体を力を込めて蹴り上げ、壁にたたき付ける。所謂、巴投げといった具合だ。投げ飛ばされたビルディアは、もの凄い音をたてて壁に激突していた。
「ふざけるな! どういうつもりだ!」
「痛って……お前、いくら何でも投げ飛ばすか普通」
「そんな話はどうでもいい!」
激昂するイリスを見上げながら、ビルディアは腰をさすりながら口を開く。さすがに投げ飛ばされて彼もむっとしているらしかった。
「五月蝿い。どうせそんなつもりでセスタの部屋に行ったんだろうが」
「断じて違う! さっきから何を勘違いしているんだ」
「夜中に女が将に呼び付けられるなんざ、それしかないだろう。お前商売女だろ?」
「……商売女?」
ビルディアの口から飛び出した言葉にイリスは呆れて言葉を失った。この男はイリスを身体を売る女と勘違いしていたらしい。イリスがいつもと違う女のローブ姿だからだろう。それで全て合点がいった。
「馬鹿だなあんた」
「なんだと⁉︎」
ビルディアは顔を赤らめた。商売女風情と思っている女に馬鹿呼ばわりされて、黙っていられる類の男ではなさそうだ。
その時。
「何事ですか、兄上! もの凄い物音が……」
扉を乱暴に開けて、肩までの長めの金髪の男が走り込んできた。この男が恐らくシルヴィアだろう。面差しがビルディアとよく似ている。
シルヴィアは、イリスとビルディアの姿を見て、目が零れ落ちそうな程に驚いた顔をしていた。それはそうだろう。将であるビルディアが投げ飛ばされ、乱れた服の女が寝台にいるのだから。
「シルヴィア……」
一方ビルディアも、まずい所を見られたと言わんばかりに顔をしかめている。
こってり絞られればいい。そう思って、イリスは部屋を後にしようと扉に向かった。
「おい、まだ話は……!」
「明日嫌でも伺う羽目になる。ではな」
呼び止めるビルディアに、嫌みったらしく笑みを浮かべて扉をバタンと閉めてやった。明日イリスを同僚と知れば、奴は大層驚くだろう。いい気味だ、とイリスは鼻を鳴らしながらシェコーの部屋へと帰って行ったのだった。
「……っ! 何だあの女!」
最後のイリスの態度に激昂するビルディアを、シルヴィアは冷ややかに見つめ口を開いた。
「……兄上、まだ初日ですよ? だからいつも注意しているでしょう! せめて手当たり次第はやめてください。尻拭いさせられる僕の身にもなってくださいよ」
シルヴィアの説教に、ビルディアは床に腰を下ろしたまま顔を歪めた。その様子を見てシルヴィアは重い重い溜め息を吐く。言って直るような人ではない、とでも言いたげに。
「明日謝っといてくださいよ」
「謝る? あの女にか」
「当たり前でしょう! どうせ合意もなく部屋に連れ込んだんでしょう」
「連れ込んでない」
「何でもいいです! とにかく謝っといてください。僕からも上手く言っときますから。で、彼女の名前は?」
「知らん」
「えぇ? 名前も聞かずに事に及ぼうとしたんですか……。信じられない」
「名前など知らなくてもいい。どうせ相手は商売女だからな」
「女の敵ですね兄上」
「五月蝿い! とにかく名前も知らない女に謝る気はない。特にあんな無礼な女に……」
「無礼は兄上もでしょ」
「どこがだ。将を商売女が蹴り飛ばす方がよっぽど無礼だ」
「……蹴り飛ばされたんですか」
呆れ顔のシルヴィアだったが、ある事に気付きはたと顔を上げた。
「でも変ですね。兄上を投げ飛ばす程の女性って、その人本当にただの一般人ですか」
「そうだろう、こんな時間に将の部屋を訪ねているんだ。それしかないだろ」
しれっと答えるビルディアに、シルヴィアは何故か納得いかず首を傾げていた。
「妙な事にならねばいいですが」
「なる訳ない。全くシルヴィアは心配症だな」
「貴方のせいです」
「ははは。ま、気にするな。もうあの女とは会う事もないだろうからな」
□□□□
「紹介しよう、同僚のイリスだ」
「宜しく、ビルディア」
ビルディアは言葉が出なかった。セスタに紹介されている目の前の女。昨日のあの無礼な女だ。
昨日とは違って動きやすそうな軽装に身を包み、手には鉄鞭なぞを持っている。どう考えても軍人である。目の前が真っ白になる程に衝撃を受けたビルディアは挨拶する事も忘れ、イリスの顔を見つめていた。
「ど、どうするんですか兄上」
隣のシルヴィアまでもがうろたえて、ビルディアに耳打ちする。何せ目の前のイリス、顔はにっこりと笑んでいるものの、纏う空気が異様な程に冷たい。まさにざまあみろと言わんばかりだ。
「何故言わなかった……」
「何の事だ」
「昨日だ! 何故勘違いと言わなかったんだ! 将と知っていれば……」
「知っていれば?」
「……くっ!」
ビルディアが悔しげに歯を噛み締める。知り合いかと尋ねるセスタにイリスはしれっと昨日……、と話しだした。
「やめろ! お前ほんとに性悪だな!」
「変態男に言われる筋合いはない」
「なんだと!」
「言ってやるさ。私が武人でなかったら事に及んでいたのだろう。 見境ないとは救い様がないな」
「事? 及ぶ? 何の事だ」
「ちょっとセスタは黙っててくれ」
「ビルディアは悲しい人だな、女にあの様な認識しか持てぬとは」
「はは。その悲しい人について来たのは何処の誰だ!」
「ついて……? 勘違いも甚だしい。あれは新参の貴方が、新しい土地で心細いのだろうと……もういい。言っても無駄だ」
イリスはそう言い捨てると、鉄鞭を揺らしながらくるりと背を向けた。そして稽古にいく、と呟いてそのまますたすたと行ってしまった。
彼女の後ろ姿を見送っていたセスタだったが、ゆっくりと振り返りビルディアを見た。
「さてビルディア、説明してもらおうか」
ぎくりとする程に優しいセスタの声が投げ掛けられ、肩を竦めながら振り返ると、先程のイリスに負けぬ程の黒い雰囲気を纏ったセスタが笑っている。ビルディアは何とかごまかそうと愛想笑いを決め込んだ。
「説明? 何をだ?」
「さっきの話だよ。窺うに君とイリスは面識があったみたいだが」
「面識というか……昨日少し会話をした」
「会話?」
「あぁ。会話……だ」
「事に及ぶとは?」
「うっ」
セスタの雰囲気が鋭くなったのを感じて、ビルディアは覚悟を決めた。どうせごまかしは利かない。セスタはすでに大体わかっている。
「商売女だと思い込んで部屋に連れ込んだ」
セスタの目がきらりと鋭く光った。居た堪れない雰囲気に、ビルディアはもうこの場を走って逃げたくなった。
「で? どうした」
「……どうしたとは?」
「どうなったのか聞いているんだよ」
「──は?」
ビルディアは驚いてセスタを見た。冗談かと思ったが、セスタは至って真剣な表情でそれを尋ねている。
「答えるのか?」
「言えないのか?」
これ以上静かに怒られては堪らない。ビルディアは小さな声で呟いた。
「投げ飛ばされた」
「は?」
「あの女に投げ飛ばされたんだ! 二度言わすな」
セスタの吹き出す音が聞こえて、恨めしげな視線を向けると、彼は向こうを向いて肩を震わせていた。
「笑うな!」
「いや、失礼。しかしそんな事があったなら、もうイリスに手を出そうなんて思わないだろう」
「誰が思うか、あんな男女」
吐き捨てるようなビルディアの言葉に、セスタは僅かに眉をひそめ、腕を組んだ。
「軍だからある程度は仕方ないと思うけれど、余り騒ぎは起こさないでくれるか。少なくとも彼女は君の同僚だ」
「言われなくても。もう頼まれてもするか」
ビルディアは唇を尖らせながら、再び吐き捨てたのだった。
□□□□
イリスは一人双鞭を振るっていた。気持ちを鎮めるには、これが一番なのだ。
正直なところ、昨夜のビルディアの件は笑い事にも出来た。男社会に入る時その様な覚悟も決めた筈だ、なのに未遂で終わったあの件がこんなにも受け付けない。
覚悟が足りないのか、それとも他に理由があるのか、イリスには図りかねていた。心の内から突き動かされる様な嫌悪感は、今のイリスにはどうにも説明ができそうになかったのだ。
「イリス殿……」
「シルヴィア……」
恐る恐る声を掛けてきたのは、今イリスが見たくもない顔に良く似た人だった。
「申し訳ありません、兄上が大変失礼な事を」
「貴方が謝る事ではないだろう」
「ですが……兄上も本当は悪いと思ってはいるんです。ですが素直でないし、プライドが高いもので……」
「そんな風には見えないが」
「すみません……」
「謝るな。貴方に謝られると困る」
そう言われてしまっては、シルヴィアは何も言えなくなってしまった。
イリスも決して彼を困らせたい訳ではないのだ。今はまだ混乱して、上手く伝えられないだけで。
「すまないな、私は覚悟が足りない様だ」
「貴女が謝ってはいけません! 悪いのは兄上です、それは間違いないのですよ! 兄上は昔から顔が良い所為か女性が放っては置かないもので、刹那的な遊びばかりを覚えてしまって……」
「シルヴィアシルヴィア、フォローになっていない」
「もういっそ枯れてくれれば良いのにと幾度思った事か! もしくは結婚でもして落ち着いてくれれば良いのに、と」
「大変なのだな貴方は。いつも尻拭いをしているのだろう」
「分かりますか、そうなんです! 兄上には惚れた女性などいないからいつも遊び回って本当にもう……あれ? 何故僕が愚痴を言っているのでしょう?」
「貴方も溜まっているのだな、鬱憤が」
「失礼しました! 僕は貴女と話をしようと……」
「分かっている。ビルディアはその様な人なのだ。私も同僚になる人だ、無闇に軋轢を生む気はない。セスタ殿に迷惑をかけたくはないし」
「では……」
「理解する様精一杯努めるよ。覚悟と辛抱が重要だな」
イリスは呆れたように笑った。折角出来た同僚だ、この様な事で失ってしまうのは惜しい。そう思っている筈なのに、嫌悪感は心の何処かに小さく刺さったままだった。
□□□□
セスタは戸惑っていた。人懐こい質のビルディアと、人に対して悪意を持たないイリス。まさかこの二人がこんなにも険悪になるとは思っていなかった。
その二人がセスタとシルヴィアを挟んで外方を向いて武器を振るっている。調練場に流れる空気は刺々しく、セスタ同様にシルヴィアもおろおろとしていた。
「イリス」
「なんですかセスタ殿」
何とか空気を変えようと、イリスを呼び掛けたセスタは彼女の姿に僅かな異なりを見留めて言葉を切った。
「如何なさいました。人の顔をじっと見て」
「あ、いや」
彼女らしくないその変異に多少の戸惑いを感じ、セスタは恐る恐るその異なりを指差す。
「君のその耳……」
セスタは再び言葉を切った。切らざるを得ない程、彼女が反応したからだ。
「イリスどうしたんだ?」
「なな何がですかセスタ殿」
「……顔が真っ赤だよ」
セスタは呆気にとられた様な表情でそう告げる。その言葉で更に赤面するイリスはいつになく狼狽えており、その普段とは違う様子にセスタの中に僅かな悪戯心が芽生えた。
「君が装飾品なんて珍しいな。誰かからの贈り物かい?」
「──⁉︎」
悪戯っぽくそう告げたのだが、イリスは目に見えて狼狽し、その様は些か哀れに感じる程だ。だがそんな彼女の様子に、セスタの心中にはそれとは別のちりっとした痛みも走ったのだが。
「ばっ馬鹿を仰らないで下さい。そんな筈ある訳ないでしょう」
その感情はイリスがムキになって言い返すと、途端に消えて無くなったのだが。普段とは違うイリスの焦り様に、セスタは笑いを堪え切れず、息と共に大きく吹き出した。
「セスタ殿! 笑わないで下さい」
「失礼、あまりにも君が狼狽えるものだからつい、ね」
「酷いです」
「すまないね。しかし、よく似合っているよ」
「そ、そうですか……」
自信なさげに呟くイリスに、セスタは微笑ましい気持ちになり、優しく笑いかけた。
「あぁ、似合っているよ。自信を持っているといい」
離れた所で、剣を振るっていたビルディア。彼の所は離れていて、イリスとセスタの会話の内容は解り得ないのだが。
「ふん……」
面白くない、といった風に鼻を鳴らすと、それを先程までおろおろしていたシルヴィアが目敏く見留めて視線を寄越した。
彼は女嫌いだった。勿論男である故にそういった意味では女を求めるが、深く付き合うのは御免だった。
その理由は明確で、ややこしいからだ。
ただでさえ面倒な女という人種が男社会の軍に入る事に、利点など彼は感じなかった。
絶対に女は火種になる。例えあんなに女らしくない女でも──いや、あんな女だからこそ。普段は女扱いを嫌がる癖に、途端に手の平を返す事があるのだ。
そこまで考えて、ビルディアは再びイリスに視線を寄越した。
イリスにしてみれば手を出されかけのだ、怒るのは解る。そこまでは悪いのは自分だと彼は理解していた。
だが今のイリスはどうだ。赤い顔をして何やらセスタと談笑しているではないか。結局奴もビルディアの嫌いな、ネチネチとして都合の良い時だけ女を出す生き物なのだ。そうに決まっている。
ビルディアはもう一度だけ、鼻で笑った。