13 帰還
「何故ですか、サミーア殿! 私の怪我はもう治ったと申し上げておりますでしょう」
「貴女がもし人間離れした治癒力を持っていたとしても、元通りの力を振るえるまでに回復したとは思えません。無理をさせて傷口が開いても困りますからね」
「だから、心配はご無用ですと‥‥」
書類を片手に回廊を歩くサミーアの後ろを、イリスがアヒルの子の様に付いて回る。何事か、とすれ違う兵などは振り返ってその様子を見ていた。
「全く。帰って早々に怪我人の相手などしていられませんよ。仕事が山の様に溜まっているんですよ、私」
「ならば一度、頷いて下されば私は消えます故」
「しつこいですよ、貴女」
サミーアは冷たい目でイリスを見た。
そう。オーギュストとサミーアの人質交換は滞りなく相成り、今はサミーアも王城にて以前の生活を取り戻していた。そしてイリスはというと、先だっての戦の矢傷の療養に時間を費やしていたのだが。
「どうしてじっとしていられないのですか。本当私と代わってもらいたいですよ」
「私は武術が趣味みたいなものですから、それを取り上げられると何をすれば良いやら……」
「する事が無いなんて言ってみたいですね! もう、本当諦めて下さい。貴女の療養は私も賛成ですが、貴女の保護者にきつく言われているのですよ。『イリスが食い下がるだろうけれど断固として断って下さい』とね」
「シェコー殿がそんな事を……」
「あとセスタ殿と」
「何と! 彼まで⁉︎」
まさか二人に先手を打たれていたとは。
セスタを含め部隊は皆、戦の後処理で未だジャンナトの地に居るし、シェコーは支配下となったジャンナトの視察に出られた陛下に同行している。怪我を負ったイリスは療養の為一足先にバルクへ帰ってきていたのだ。口煩い者は居ない筈だった。だから少しくらい、リハビリを兼ねて稽古をしようと思っていたのに。
「私はきちんと自制して行動出来ますが……」
「短い付き合いですが、貴女が意外に激情家で自分を軽視するという事は分かっています。騙されませんよ」
「う……っ」
にこりと笑んで言い放たれた言葉に図星を指されて、イリスは二の句が告げずに小さく呻いて黙り込む。その様子に、サミーアは歩んでいた足を止めて彼女を振り返った。
「悪いようにはしませんから、今回は言う事を聞きなさい。貴女の力が本当に必要な時の為に」
駄々を宥められる子供の様に背中を優しく叩かれて、イリスが羞恥に顔を赤らめると、それを見留めたサミーアはにこりと笑んで歩き出した。イリスは黙ったまま、それを見送るしかなかった。
□□□□
元来苦手な書物を読んで過ごす事暫く、肩の傷口に薄く皮膚が張り、サミーアからの鍛錬のお許しが出た頃だった。早馬によって、軍の帰還の情報がもたらされたのだ。新たな地が手に入った為か、戦の後処理は長く続いていたのだ。長らく待った勝利の帰還とあって、王城に残留していた者たちは朝からそわそわとしていた。
「帰ってきたぞ!」
シェコーの部屋で面白くもない書物をめくっていたイリスは、そのはじゃいだ声を聞いて腰を上げた。折角だ、出迎えようと思ったのだ。城下に下りるのだ、目立たぬ様に地味なローブを身に纏って、イリスは城を出た。
城下はお祭騒ぎだった。凱旋する隊を一目見ようと、町の皆が王城に続く大通りをうめ尽くす。その群衆に紛れ、イリスも隊を見つめていた。そして隊列の中程、セスタに従う様に馬を引く、見慣れぬ若い兵二人が目に入った。
絹糸の様な色素の薄い髪に、この大陸には珍しい西洋の装い。その腰には、以前オーギュストに見せてもらった拳銃とやらが提げられている。血縁者なのだろうか、酷く似た顔付きの二人の違いは、その白金の髪の長さくらいなものだった。そんな彼らをじっと見ていて、ふと思い当たる。
確かセスタが言っていた。ジャンナトの戦で帰順した者たちがいる、と。彼らがそうなのだろうか。
そうして隊列をじっと見送っていた時だった。
「あれぇ、アンタ軍人さんじゃないのさ?」
「え」
出し抜けに声をかけられ、イリスは素っ頓狂な声を上げた。見ると恰幅の良い婦人がにこにこと笑いかけている。
「わ、私の事か?」
「そうだよ。アンタみたいな美人さん、一度見たら忘れやしないって。女だてらに男社会に飛び込んだ傑人だ、有名だよ」
「そう、か?」
「何だいそんな格好して、お忍びかい? だったらウチの店寄って行っておくれよ」
「え、あ、おい。引っ張らないでくれ……!」
婦人に引っ張られ路上の市に連れて行かれると、あっという間に市の商人たちに取り囲まれた。彼らは一様に歓迎し、商品を勧めてくる。
「いや、有り難いが、こんなにも食べられな……」
「遠慮すんなって! ウチの林檎は美味いぞ」
「そら、ウチからは衣だ! 別嬪に似合うぞぉ」
「うわ、そんなに乗せないで……」
取り囲まれたイリスの腕の中は、気の良い商人たちからの貰い物で一杯になっていた。
たかだか軍人というだけで、此れ程貢ぎ物を貰う謂れはない。恐らく彼らなりの先行投資だろう。そう思い、イリスはこれからの贔屓を決心して、それを受け取った。あまりに拒否しても失礼だ。
「じゃ軍人さん。次はウチだよ。この中からお好きな物持ってっておくれよ」
「アクセサリー、か」
イリスを引っ張って来た婦人が、店の前で手を広げて商品台を示した。そこに並べられているのは、ネックレスやイヤリングなどのアクセサリーだ。
イリスは少し困ってしまった。軍人であるイリスは普段からそういったものを付けないし、そうでなくともアクセサリーなどで自分を飾る質でもないのだ。少し迷った末に辞退しよう、と一応商品に目を移す。だがそんなイリスにも、嗜好というものは存在したのだ。
「これは……綺麗だな」
「おや、アンタそんなに別嬪なんだからもっと派手なのにすれば良いのに。何の変哲もない石だよ」
「そうか? 美しいではないか。私は好きだ」
「そうかい? まぁ軍人さんには良いかも知れないけど……。もっと良いものがあるんだよ?」
「いや、私はこれが気に入ったよ。イヤリングなど付けたことはないが、これは頂こう」
「お代は良いよ、これから贔屓にしてくれたらね」
「いやいや、私が欲しいと思ったのだ。これは自分で買っていく」
「そうかい? じゃ毎度あり」
そう言って紙幣を婦人に渡して、イヤリングを受け取って袂に入れた時だった。
「おい、待て泥棒!」
隣の布地屋の店主が叫んだ声に、イリスははっと振り返った。小脇に布地の巻物を抱えて走っていく男を見付けて、イリスは声を上げた。
「おい、誰か武器はないか!」
今はお忍びだ。いつもの武器など持っている筈がない。だからイリスは婦人が差し出したただの棍棒を片手にその盗人を追いかけたのだった。
□□□□
「イリス、いるかい?」
未だシェコーの居室に間借りしているイリスの元へ、セスタが訪ねて来ていた。何度ノックをしても、部屋にいる筈のイリスからの返答はない。
「おや、セスタ殿ではないですか。此度の戦お疲れ様でございました」
「シェコー殿、貴方もお帰りだったのですね」
「ええ、つい先程。イリスにご用ですか」
「在室していると思っていましたが、留守の様ですね」
セスタが動かない扉を見遣りながら言うと、シェコーは困った様に溜息を吐きながら頭を抱えた。
「ふう全く。大人しくしていなさいと言っておいたのに、あの子は。サミーア殿にもご迷惑をお掛けした様ですしね」
「はは。まぁ彼女が大人しくしているとは思えないですが」
「困ったものです。あ、そう言えばセスタ殿はイリスにご用だったのですよね。あの子が帰ったら伝えておきますよ」
シェコーがそう尋ねると、セスタは一度だけ考える仕草をした。
特に何かがあった訳ではなく、ただ怪我の具合と療養中の過ごし方について尋ねたかっただけなのだ。今シェコーと話して、大まかには理解したが。だが長らく遠征に出ていて、彼女の顔を見たかったのも要件だった。
「そうですね。では私の部屋に来る様に、と」
「分かりました。伝えておきます」
にこにこ笑って、シェコーは去っていくセスタを見送っていた。微笑ましい子を見遣るような穏やかな表情で。
セスタが自室に戻る途中だった。今まで空室だった部屋から出てきたのは、此度の戦で帰順した将だった。
「部屋が決まったのか、ビルディア」
シャツに鉄の胸当て、腰に拳銃なるものを提げた異国の風貌の男。その短い髪は白金の色をしていて、快活な印象を与えている。中立地区出身の武人である、名をビルディアといった。
「ああ、今荷物を整理し終えた。つい最近軍入りした者にしては、破格の待遇だな」
「良いんだ、君は私の副将になったんだから。将は寮ではなく王城に住まう決まりだよ。で、隣の部屋は?」
「こちら側は弟のシルヴィアが入っている。こっちの隣は……知らん。誰かは入る様だがな」
「そうか。あ、そうだ。私の副将……つまり君の同僚がもう一人いるんだ。明日にでも紹介するよ」
「分かった」
そう言ってビルディアは部屋に戻って行った。
ビルディアは中立地区が滅ぼされて以来、その軍を率いて流浪の傭兵団として流れていたらしい。そしてアスランに雇われてジャンナトの戦に出ていたところを捕らえられ、帰順し、今に至るのだ。此度の戦でセスタは、陛下より褒美として傭兵団を直属の部隊として賜ったのだった。
イリスに会ったら教えてやろう。同僚が増えた事を彼女は喜ぶだろうから。
セスタはそう考えながら、自室へと戻って行ったのだった。
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イリスは溜息を吐いて頭を抱えていた。盗人を捕まえるのは然程大変な事ではなかった、問題はその後だ。
「もう、本当に私帰らなくては……」
「そんな事をお言いでないよ。折角ご馳走つくったんだからさ」
「そうですよ。ほらお前、もっと酒を持って来いよ」
「はいよ」
布地屋の旦那に、盗人が盗った大量の布地を返したイリスだったが、お礼にと夕飯に誘われた。そこでどんどんと出てくる料理と酒。帰る機会を失ったイリスはそれをたらふくと頂き、解放されたのは夜も更けた頃だった。
大人しくしていなさいときつく言われていたのに、帰還の日に限ってこんなに遅くなるとは。シェコーの部屋の扉を開けるイリスは、まるで門限を破った子供だった。
「ああイリス。帰ったんですね」
「──!」
まだ眠るには早い刻限だ。だからシェコーが声を掛けてくるのはおかしな事ではないのだが、罪悪感の為か、イリスは肩を震わせた。
「お、お帰りなさいませシェコー殿!」
「はい、ただいま。大人しくしていなかったのですかね? 貴女は療養中なのに」
「いや、していたのですよ! ですが凱旋を見ていた帰りに窃盗犯と出くわしまして……」
「そうですかそうですか。では大人しく療養していたのですね?」
「そ、そうです。もう稽古のお許しも出ましたから」
話しながら、袂から買ったイヤリングを出す。初めて買ったアクセサリーは、女性が付けるにはひどく地味なただ丸い石だけのものだった。ただその色が、透明感のない玉虫色が、彼女はいたく気に入ったのだ。
鏡を見ながらそれを耳につける。ただイヤリングを付けるだけ、それだけなのに何故かひどく気合いが必要だった。震える手でそれを付けて、鏡に写る自分を見たイリスは、理由はわからないが何か、少しだけ前を向けた気がした。
「良く似合いますよ」
シェコーが小さくそれだけ言ったのが印象的だった。
「あ、そうです! 昼間セスタ殿が貴女を訪ねていらっしゃいましたよ」
「セスタ殿が?」
「心配していたようですから、一度顔を見せていらっしゃい」
「今から、ですか?」
「今から、です」
有無を言わせぬシェコーの物言いに、イリスは首を傾げながら部屋を出たのだった。
部屋に残ったシェコーは、イリスの残したイヤリングの包みを見つめていた。それはシェコーが待ち望んだ、イリスの僅かな変化を表しているように感じられたのだ。シェコーは小さく笑って、イリスが出て行った扉を見遣ったのだった。