11 侵攻
ジャンナトの地、それは大変肥沃な大地だ。近くに小川があり、水に困らない。草原や花畑は豊かで日の光を浴びている、言うなれば緑の地だった。国境線を越えただけでここまで違うかと、バルクの民は厳しい地に住みながら隣の地を妬ましく思っていたのだ。
その地に足を踏み入れて、イリスもその地の豊かさを強く感じた。そしてその地に住まう民の息吹も。
心の内に躊躇する思いが芽生えかけて、イリスは頭を振った。自分が迷えば部隊を危険に晒してしまうのだ、絶対に前しか向いてはいけない。例えアスランの民を蹂躙する事になっても。例え馴染みの者が敵将であっても。イリスがこの戦に賭けるものはとても大きいのだから。
整列した部隊の前に馬にまたがったイリスが立つ。直属部隊の者たちも、戦場で余計な事を考える余裕は無いのだろう。大人しくイリスの命令を聞いていた。
「これより我らはジャンナトの村を通り、裏通りから本陣に奇襲をかける。本隊が到着するよりも前に、我らは本陣に辿り着かねばならぬ。各人隊列を乱さぬ様に行軍するんだ。何があろうと、な」
イリスの口上に各隊が声を上げる。
鬨の声を上げて行軍が始まった。すると直ぐに隊の最後尾に位置するイリスの騎馬の隣にシンが立つ。どうした、と視線で問えばシンは最敬礼をして声を上げた。
「貴女様の補佐の任を志願しました。俺が此度の戦補佐を努めます」
一個小隊を直属に持つようになれば、補佐の任が発生する。今の小隊の状況では、誰も務めてはくれないと思っていたが。
「ありがとう、宜しく頼む」
本に彼には感謝しても仕切れない。彼に強さ以上に頼もしいものを感じながら、イリスは先程よりももっと気合いを入れたのだった。
そうして行軍して暫く。森の中の道が開けたかと思うと、そこにあったのは田舎村だった。裕福そうではないものの、確たる自給自足の生活を送っている、そんな村だった。家の数は田舎村にしては沢山あるのに、日が高い刻限であるのに、そのどれもがぴったりと窓も扉も閉められていた。戦の最中だ、当たり前なのだが、何故か酷く自分達を拒否している様に感じられたのだ。
村を過ぎればまた森の中の行軍が続く。道程のほぼ半ばまで来た頃、シンが声を掛けてきた。
「俺たちは何故しんがりに位置しているのですか。先鋒を任される事が多い部隊の筈ですが」
「軍師殿の説明にもあっただろう。先鋒を任される部隊だからこそだ。我らが奇襲の要であるから、敵の要撃を警戒して最後尾に配置されている。ここは一本道だ、敵もこちらの奇襲を警戒して要撃隊を配置している可能性が高いからな」
「ふ、我らが上官は怖気付いた様ですな」
イリスがシンに状況を説明しているのを聞いて、噛み付いたのはイリス直属部隊の隊長だった。先程から彼はしんがりに位置している事に苛ついているらしかった。
「今は戦中だ。関係ない話はやめろ」
「関係なくはありますまい。我らはいつも先陣を切って戦ってきました。それがここに来て最後尾、これが貴女の影響でないと言い切れますか」
「あぁ。先程説明した通りだ」
「成る程、貴女様が怖気付いた為かと思っていましたが、違った様ですな」
「どういう意味だ」
「女の将とは軍師殿にも疎まれるのですな。本来の場所に配置もされぬとは」
「そういった話は戦が終わってから聞く。今は己の任を果たせ」
「お言葉ですが、聞けません」
「は? 何だと?」
「私どもは通常通りの配置につきます。私どもは……戦果を上げねばならぬのです!」
「落ち着け! 何故そうも焦る⁉︎」
「見放されるなど御免です! この戦で功を上げ、我らはまた先鋒隊に任じて頂かなくては!」
イリスが功を上げて彼らに認められようと思うのと同じに、彼らも功を上げて認められようとしていたのだ。女の将の下に付けられた事を、見放されたと思い込んで。イリスを認められぬから、その下に付けられた自分達をも認められぬと。
「では、私どもは行きます。ご容赦を」
「待て、やめろ! 戻るんだ!」
イリスの叫びも虚しく、隊長は部隊を連れて戦列を離れて先鋒の方へと向かって行った。残されたのはイリスと、気まず気に視線を彷徨わせるシンだけだった。
「くそ! 求心力がないとは此れ程致命的なのだな!」
「どうしますか」
苛立たしく頭を掻くイリスを見遣って、シンが尋ねる。ここまで自分の声が届かない事に苛立ちはするものの、今は止まってはいられない。敵の姿が見えぬとはいえ、ここは戦場なのだ。
「私達だけが残っていても意味がない。追うぞ!」
「はっ」
一本道を行軍する戦隊は縦に長いものだ。直ぐに追い始めたとはいえ、最後尾から先鋒へは遠い。
半ば辺りに来た時だった。俄かに先鋒が騒がしくなったのだ。無数に聞こえる砲撃の音、馬のいななき、そして兵たちの悲鳴。
「まさか……まさか!」
軍師に地図で警告されていた、要撃の可能性の場所。先鋒はその辺りにいるのではないか、そう気付いた時イリスは思い切り馬の腹を蹴っていた。隣を走っていたシンがどんどんと離れていく。
「くそっ! ……馬鹿!」
歯噛みしながら手綱を強く握った。焦りの為かおびただしい程の汗が背中を伝う。馬を駆る距離が酷く長く感じられた。
先鋒はほぼ全滅だった。一本道の両側から鉄砲隊に挟撃された様だ。先鋒隊も撃ち込まれながらも戦ったのだろう、折り重なる兵の亡骸には敵の砲兵のものも混じっていた。
別働隊の要撃にそこまで兵力を割かなかったのだろうか。辺りを窺うが、敵の気配はもう感じられなかった。
「だから言ったろう。君たちは奇襲の要なのだ、と」
落ちる兜の中に直属部隊の物を見つけた。部隊によって違う印が付けられているそれは、よく見ればそこここに落ちていた。
本当に馬鹿だ。上官の命令を無視して先走った部隊も、直属部隊の暴走を止められない上官も。
硝煙の匂いと折り重なる兵の呻きに、思考が絡めとられかけた、その時だった。
「イリス殿!」
走って追い続けた為に荒くなった息を整えながら、シンが歩み寄ってくる。その惨状に紅い眉を顰めながら。
「軍師殿が一時後退を、と。下がって隊列を整えるそうです」
「……わかった」
重りがついたかの様に重い脚を引き摺るようにして、イリスは馬に跨りその場を後にしようとした。血気盛んな先鋒隊の骸をそのままにして後退する事に、酷く罪悪感を覚えながら。後ろ髪を引かれる思いで、惨状に目を向けた、その時だ。
硝煙のけぶく中、ちらりと何かが陽の光を反射させた。倒れ伏す物言わぬ兵の武器だろうか、そう思ったが次にはイリスは大声を上げ馬を駆っていた。
「敵襲だ! まだ終わっていない!」
その瞬間、道の両側からひしめく程の風を切る音。腰に提げた鉄鞭を両手に、イリスは騎馬の腹を蹴り続けた。時折耳元で聞こえる風の音と共に顔を掠める矢尻。
今度射かけられているのは矢だった。両の鉄鞭を振り回して身体に襲い来る矢を叩き落とす。イリスが馬を駆る横で、時折くぐもった呻き声が聞こえていた。
目を前に向けると、矢を受けたのか片足を引き摺りながら剣を振るうシンを見つけた。イリスは片方の鉄鞭を腰に差して、走り抜けざまにシンの首根っこを引っ掴んだ。シンは苦しげに声を上げたが構うものか。そのまま渾身の力で引っ張り上げると、馬の背に引っ掛ける。シンは痛みを堪えるように顔を顰めながら、馬に跨った。
「すみません、イリス殿」
「無事でよかった。一気に下がるぞ。後退だ! 急げ!」
二度に渡る奇襲に戸惑い混乱する兵たちに号令をかける。だが、呻き声、断末魔、怒号、銃声、金属音──隣にいるシンの声ですら満足に聞こえない。そんな中でイリスの必死の叫びは、誰にも届きはしなかった。敵の要撃隊を攻撃する者、逃げ惑う者、倒れ伏す者それぞれが右往左往し混乱を極めていたのだ。
イリスは舌打ちすると馬を駆った。このままでは良い的だ。馬に跨った事により、敵の攻撃は更に激しくイリスに向かう事になってしまっていた。鉄鞭を振るって辛くも叩き落としているが、イリスの頬や脚、腕には無数の矢傷ができていた。
「イリス殿!」
不意に後ろに跨っていたシンが高く叫んだかと思うと、イリスの身体はバランスを崩して落馬してしまった。シンに突き落とされたのだと気付いて馬上を見遣る、そこからはまるで時が遅緩したかの様だった。
イリスがいた場所を狙って二方から射かけられた矢が、イリスを押し退けたシンの身体を貫いた。
「う……ぐっ」
ごぼっと彼の口から音がしたかと思うと、人間の身体の動きに反した様な痙攣と共に血の塊が吐き出される。そのままシンの身体はぐらぐらと揺れ、引っ張られた様に地面に倒れ落ちた。
「シン、シン‼︎」
駆け寄ると、シンはイリスの身体をその血塗れの手で押し退けた。そしてゴボゴボと血と息の間に絶え絶えに紡ぐ。
「イ、リス殿……まだ、です……弓兵、が」
その言葉に周りを見渡すと、更にこちらに射かけられる矢の雨。イリスは力任せに鉄鞭を振るいそれを叩き落とすと、弓兵に向かって足を向けた。敵もまさか向かって来るとは思わなかったのか、間近でイリスの鉄鞭が振り上げられるまで棒立ちでいたが、その棘を身体に受け、血を噴き出しながら地に沈んでいった。そうして暫く鉄鞭を振り回していると、敵の数少ない弓兵は直ぐにその姿を消した。
「シ、シン! 大丈夫か!」
足を縺れさせながら駆け寄ると、彼の口からはひゅう、と心許ない呼吸が聞こえただけだった。色の篭らない瞼をふるふると震わせ、ゆっくりとぼんやりとした眼をイリスに向けた。
「安心しろ、粗方の治療は薬師殿から仕込まれているからな」
意識を取り戻したシンに不必要な程明るく声をかける。だがシンは青白い顔で薄らと笑い、弱々しく口を開いた。
「……いいです。自分の傷は、自分が一番、分かります。それよりも早く撤退を……」
気弱な事を言うシンを無視し、彼の服を引き裂く。シェコーに治療法を指南していてもらって良かった。こんな事で役に立てたくはなかったが。だが胸に刺さる矢を見たイリスは、思わず手を止めた。
彼の胸には殆ど血が出ていないのだ。これだけ深々と刺さっているにも関わらず。
「こ、れは……」
声が漏れる。
これは今此処で治療の手立てが、ない。刺さった矢が止血の栓の役割を果たしている為、これを抜くと失血で死んでしまうだろう。早く安全なところで軍医に見せなくては。
「痛むだろうが、我慢しろよ。今から本陣に撤退する!」
イリスは声を上げて、シンを抱きかかえて馬に跨がった。ほぼ壊滅状態である先鋒隊の兵たちが、それに倣って撤退を始めた。その時。
「イリス……殿ッ‼︎」
シンが顔をしかめながら声を発した。何事か、と彼の顔を見た瞬間に、右肩に鋭い痛みを感じ、眉を潜める。後ろを振り返ると、先程仕留め損ねたのか傷だらけの弓兵がふらふらながらもこちらに向かって弓を構えていた。イリスの右肩は、矢が貫通し血に濡れた切っ先が露になっていた。
「……っ! て、撤退だ!」
構わずにそう叫んで、イリスは馬の腹を蹴って本陣へと走らせた。
「大丈夫、ですか……?」
イリスの胸元で声にならない言葉を話すシンに彼女は、喋るな、と静かに告げた。前しか向いていなかった。だが胸元に感じるシンの息遣いが、徐々に徐々に力無くなっていくのが感じられ、それでも気のせいだと思い込むようにしていた。
「まだ話したい事が沢山あるのだ、聞きたい事があるのだ……! 死なないでくれ……頼む!」
もうシンは答えない。目を瞑ったまま、イリスに身体を預けている。その紅い髪がイリスの肩から流れる血を受けて濡れ、酷く鮮やかだった。
「誰も守れなかった……! 自分の部下を、一人も!」
叫ぶ度に肩に激痛が走るが、構わなかった。自分で自分を責めねば、誰も責めてくれる人がいないのだから。
馬を駆って暫く、本陣が視界に入って来た。だがそれに近付くにつれ、イリスの視界も霞がかる。肩口に指を遣ると、思った以上に血が出ているらしく、刺さったままの矢の先からぽたぽたと血が滴っている。
「くそ、もってくれよ……」
遠退く意識を何とか手繰り寄せながら、必死で馬を駆けさせた。だが本陣の門を目にした瞬間、イリスの視界は真っ黒に染まっていった。
□□□□
「報告します! 北方向より奇襲の為進軍していた別働隊が敵要撃隊により撤退! 奇襲を断念し、本隊のみで攻め落とせとの事です」
こうして別働隊の撤退の報せは、直ぐに敵本陣と相対していたバルク軍本隊にもたらされた。
この戦は元より勝てぬ戦ではなかった。それを手堅く行う為に、奇襲の別働隊を用意していたのだ。だから別働隊の撤退の情報は、酷く本隊の兵を動揺させた。それはこの報せを受けた本人、本隊の指令官セスタをも。彼は、俄かには信じ難いこの報告に、色を無くして口を開いた。
「まさかあれだけの部隊が伏兵の要撃に倒れた、と?」
「はい。そう受けております」
「それで、被害の程は?」
「それが……」
伝令の兵が言いづらそうに口ごもる。そして一瞬視線を彷徨わせてから決心した様に口を開いた。
「詳しい安否は分かっておりません。ですが先鋒隊はほぼ壊滅、数人が帰還したと」
「数人?無事に帰った者が数人だと言うのか」
「そ、そう伺っております」
信じられない、と言った様子で言葉を失い身体を揺らすセスタ。だが直ぐにがばりと身体ごと伝令に詰め寄った。
「イリスは。彼女の部隊は無事か?」
「い、イリス殿の小隊は壊滅したと聞いています。詳しい安否は分かっておりません」
「何だって……」
その報告からは、最悪の事態しか窺えない。青い顔をして立ち尽くすセスタに、伝令は躊躇いがちに頭を下げて下がっていった。
彼には信じられなかった。
勝つ事は間違いないと思われていた戦で、あれ程の武を持つものが壊滅させられたなどと。信じたくはなかった。
だが彼もまた指揮官だ、狼狽えて兵たちの士気を下げる訳にはいかなかった。セスタは意を決して声を上げる。
「この戦本隊のみで行う事になった。この兵差だ、勝てぬ戦ではない。だが皆も聞いての通り、何が起こるか分からぬ。各人油断は禁物だ、気合いを入れて臨むように。
では出撃だ!」
別働隊の撤退は、本隊に良いように働いた。慢心を捨て、警戒を怠らずに攻めた本隊は、当初の予定よりもずっと早く、被害も少なくその戦を済ませたのだった。